第3話 いつもの市バス
7時10分。玄関で靴を履きながら、桃矢はスマホで時刻を確認した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
母の声を背に受けながら桃矢は家を出た。12月の朝の空気はひんやりとして、吐く息がほんの少し白く滲む。
歩いて15分、バス停までの道のりはもう何百回と通った見慣れた景色だ。
バス停に着くと、すでに数人が並んでいた。
クラスメイトの数人。それから、手を繋いだ陽翔と朽名結菜の姿。さらに、列の先頭には、誰よりも目立つ姿があった。
川嶋麗華。
今日も友人らと楽しそうに話している。
スマホを取り出して時刻を確認する。7時30分。あと2分でバスが来る。
7時32分、時刻どおりバスがきた。
運転席に座っているのは、顔馴染みの年配の運転手だ。
穏やかな表情と丁寧なハンドルさばき。物静かだが信頼できそうな人物だ。
「おはようございます」
乗り込みながら、桃矢は小さく挨拶をする。
運転手はミラー越しに軽く頷いた。
「おはよう、陽翔」
車内を進むと先に乗り込んでいた陽翔と朽名結菜の姿があった。
桃矢が小さく声をかけると、陽翔はいつもの軽い調子で片手を挙げた。
「おう、もも。昨日は付き合ってくれてサンキューな」
「いや、別に」
朽名結菜は陽翔の隣に座り、楽しそうに何かを話しかけている。
陽翔がそれに応える穏やかなやり取りを桃矢は少し羨ましく思いながら、窓際の空いている席に腰を下ろした。
車内は、いつも通りの顔ぶれだ。
名前を知っているわけではない。それでも毎朝30分弱を同じバスの中で過ごしていれば、顔と印象くらいは自然と覚えてしまうものだ。
桃矢は、1人ひとりに心の中だけの呼び名をつけていた。
後方のいつもの席には、「スマホの人」。初老の男の人でいつも手元の画面を見ている。
その近くには、「パンの人」。いつも席で朝食と思われるコンビニのパンを食べている。朝が苦手なのかもしれない。周りの乗客は誰も気に留めてはいない。
「車椅子の奥様」は、今日も付き添いの女性と一緒だ。
「ちょっと、もっとゆっくり押してちょうだい」
「はいはい、大丈夫ですよ」
不機嫌そうな小言と慣れきった相槌。毎朝の漫才みたいなやり取りだ。2人はいつも市民病院前で降りていく。
少し離れた席では、「文庫本の人」が今日も本を読んでいる。あの人が本から顔を上げたところを桃矢は1度も見たことがない。
窓際では、お年寄りの2人連れが世間話をしていた。
「今日も寒くなりそうですねえ。こんな朝は膝にこたえますよ」
「私も今から針を打たなくてはいけないから嫌になっちゃう」
病院通いの愚痴らしい。それでも2人の声はどこか楽しそうだ。
そんな穏やかなやり取りが車内のあちこちから聞こえてくる。
桃矢にとって、彼らは「顔だけは見覚えのある他人」程度の存在でしかない。
それでも、こうして毎朝同じ車内にいるというだけでなんとなく安心する自分がいた。
今日始めて見る人もいた。就職活動中らしいスーツ姿の青年がぶつぶつと小声で何かを呟いていた。
「えー、本日は貴重なお時間をいただき、いや、堅すぎるか。えー、本日は御社にご興味を」
面接の練習をしているのだろう。聞こえてはいけないものを聞いてしまった気がして桃矢はそっと視線を逸らした。
バスが次の停留所に止まる。
乗ってきたのは、同級生の石原圭太と田崎信一、それに空手部の山崎翔太。
続いて、桃矢が心の中で「教科書の人」と呼んでいる青年も乗り込んでくる。いつも膝の上に辞書みたいな分厚い本を広げている。
石原たちはいつものように後方の空いた席に座った。
その頃、武田は住宅街の坂道を早足で歩いていた。
市営住宅から最寄りのバス停までは、徒歩で3分もかからない。けれど武田が向かっているのはそこではない。
30分ほど歩いた先にある、もう1つ別のバス停。高級住宅街の入り口にあるバス停だ。
毎日、朝早く家を出なければならない。冬場に外がまだ真っ暗な時間に家を出るのは、正直に言えば馬鹿らしいと思う。5つも先のバス停に行くためだけに。
それでも、これだけは譲れない。
万が一にも自分が市営住宅から出てくるところを誰かに見られるわけにはいかない。
クラスメイトに、後輩に、ましてや自分を慕う女子たちに。
容姿端麗、成績優秀、非の打ちどころのない生徒会長。
その評判のどこかにほんの少しでも綻びが生まれることを武田は何よりも恐れていた。
息を切らしながら坂を上りきると、目的のバス停が見えてくる。
遠くの方にバスが見えてきた。武田は表情を整え、いつもの涼やかな笑みを顔に貼り付けた。
武田が乗ったときには車内はすでに満席だった。
武田が乗り込むと、車内の空気がわずかに変わる。誰かが意識して背筋を伸ばしたような、そんな緊張感だ。
「おはよう、武田くん!」
武田を見つけた斉藤朋花が声をかける。武田は涼やかな笑顔で軽く頷くと、空いている席を探すように視線を巡らせる。
すかさず田崎が立ち上がった。
「武田さん、どうぞ」
武田は礼を言うでもなく、当然のことだというように軽く頷くと、その席に腰を下ろす。
立った田崎は気にする様子もなく、むしろどこか誇らしげな顔でそのまま手すりに掴まって武田の傍らに立つ。
その所作の一つ一つが、まるで舞台の上の役者たちのようだ。
住宅街の景色が、いつも通りに流れていく。コンビニ、信号、見慣れた花屋の看板。何も変わらない、いつもの景色だ。
途中のバス停から乗り込んだ2年生の太田凜が武田の近くに行こうと少し急ぎ足になっていたり、1年生の鈴木芽依や高橋葵が楽しそうに修学旅行の話をしていた。
いつもの朝。いつもの30分弱のバスの時間。
桃矢はこの時間が嫌いではない。誰とも深く関わらず、それでいて教室よりも少しだけ近い距離に麗華や陽翔がいる。窓の外を流れる景色を眺めながら過ごす、この何でもない時間が桃矢にとっては密かな安らぎだ。
車内放送が次の停留所を告げる。誰かが降車ボタンを押す音。乗客の入れ替わり。
何百回と繰り返されてきた、ありふれた朝の風景。
バスは住宅街を抜け、田んぼの広がる道に差し掛かる。
あと15分ほどで学校に着く。
その時、車外の景色に異変が現れた。
桃矢の視界の隅、田んぼの上空のあたりに、薄紫色の雲のようなもの拡がりながらバスの方に近づいてくるのが見えた
「ん、何だ、あれ?」
桃矢が呟いた瞬間、運転席の中嶋が「うわっ」と短く声を上げた。
急ブレーキの音がして、バスが大きく揺れた。
「きゃあっ!」
「じ、地震?」
車内に動揺の声が広がる。
武田が立ち上がりかけ、石原がそれを支えようとする。
「パンクか?」
車内に動揺が拡がっていた。バスの揺れは収まるどころか、どんどん激しくなっていく。
窓の外では薄紫色の雲がバスの周囲の空間を覆い尽くしていった。
まるでその雲がバスを呑み込もうとしているようだった。
桃矢の視界が白く染まり始めた。光がバスに差し込んできた。
あの薄紫色の雲が光を放ち始めながら、バスを包み込んでいく。
眩しさに目を細めながら、桃矢は反射的に手すりを掴んだ。耳の奥で何か低く唸るような音が響いている。
バスのエンジン音とは明らかに違う、何か体を芯から揺さぶるような重低音だった。
視界の端に麗華の姿が映った。怯えたような表情で、助けを求めるように武田のいる方を振り返っている。
ああ、こんな時でも彼女が見ているのは自分ではないのだな。
桃矢の意識の中で、最後にそんな場違いな考えが浮かんだ。
それから、すべてが真っ白になった。
感覚そのものが一瞬にしてどこかへ吸い込まれていく。
まるで、いま自分がいた世界から、自分だけが強制的に引き剥がされたような感覚だった。
23人の乗客を乗せたまま、バスは世界の境界を越えていった。




