第2話 桃矢の処世術
星野家は、最寄りのバス停から歩いて15分ほどの住宅街にあるごく普通の一戸建てだった。
桃矢が玄関を開けると、リビングから出汁の匂いが漂ってくる。母がエプロン姿で台所に立っていた。
「夕飯、もうちょっとでできるから」
短い会話を交わして桃矢は2階の自分の部屋に上がる。
鞄を床に置いて、パソコンの前に座る。
ネットゲームを立ち上げると、フレンドリストに「はると」のオンライン表示が見えた。
【はると】今日も帰宅部か。相変わらずだな。
【もも】そっちこそ受験勉強サボってないだろうな。
【はると】サボってねーよ。今からちょっとだけやるか?30分だけ。
【もも】いいよ
幼なじみの松井陽翔とは小学生の頃からの付き合いだ。家が近所で小学校から高校までずっと同じ学校に通っているのに、不思議とクラスが一緒になったことは一度もない。
それでも桃矢にとって、陽翔は数少ない気を遣わずに話せる相手だった。
ヘッドセットをつけて、桃矢はコントローラーを手に取る。
「今日は何のクエストだっけ」
「新しく追加されたダンジョン。お宝がざくざくゲットできるやつ」
「ああ、あの大量の雑魚キャラ倒しながら最深部を目指す、面倒くさいやつか」
「そう。お前、こういうの好きだろ」
「まあな」
100階層以上もあるダンジョンを攻略しないと次のステージに進めない、時間だけがひたすらかかるゲームだった。
桃矢はこういうコツコツと進めていくゲームに目がなかった。
理由は単純で、コントローラーを操作する器用さよりも、知恵や戦術で状況を切り拓いていく過程が自分の性格には合ってるからだ。
2人でキャラクターを動かしながら拠点を作る。
桃矢はこういう段取りを組み立てる作業が得意だった。
何が今必要で、何を後回しにして、どのような順番でやれば一番効率がいいか。それを考えている時間が純粋に楽しい。
30分のつもりが、気づけば1時間近く経っていた。
「やべ、もう飯の時間じゃん」
「俺も。じゃあな」
ヘッドセットを外して桃矢はベッドに仰向けになり、天井を見つめながらぼんやりと考えていた。
自分はいつから、こんな風に「争わない」性格になったのだろうか。
考えてみれば、物心ついた頃から誰かと争うことが嫌いだった。
声を荒らげる人間を見ると、無意識に体が硬くなる。怒鳴り合いになりそうな空気を感じると、その場から離れたくなる。臆病なのかもしれない、と桃矢自身も思ったことがある。
けれど、桃矢には自分なりの処世術があった。
それは、流れをずらすこと。
争いというのは勢いだ。誰かが熱くなって、もう1人がそれに呼応して、どんどん熱くなっていく。
その勢いの流れをほんの少しだけずらしてやれば、案外あっけなく収まるものだ。
桃矢は似たような場面に出会うたびに、無意識のうちに流れをずらすを実践するようになっていた。
正面からぶつかるのではなく、流れをずらす。タイミングを読む。
相手の顔を立てながら、争いの芽を摘む。
それは桃矢にとって、ごく自然な処世術になっていた。
ただその結果として、周りからは「気弱な奴」「揉め事から逃げる奴」というレッテルを貼られていた。
実際には誰よりも冷静に状況を見て、争いを避けているだけなのに。
負けず嫌いなのだ、本当は。誰かを助けたいと思ったら、最後まで諦めない。
困っている人を見捨てることは、桃矢にはどうしてもできなかった。弱い者は助ける。
強い者、理不尽な者には、自分のやり方で立ち向かう。
それが、星野桃矢という人間の誰にも知られていない信念だった。
同じ頃、市営住宅の一室で武田麟太郎は机に向かっていた。
部屋は狭い。学習机に本棚とベッド。それだけで埋まってしまう四畳半。
壁は薄くて、隣室のテレビの音がうっすら聞こえてくる。
机の上には全国模試の成績表が置かれていた。全国順位は上位1パーセント以内。今回も学年トップだ。
けれど、武田の表情に喜びの色はない。当然の結果を確認しただけだ、そんな淡々とした目で数字を見つめていた。
壁に貼られた1枚の写真にふと目をやる。父とまだ幼い自分が並んで写っている、色褪せた写真だった。
父が死んだのは、武田が小学4年生のときだった。
突然の病気だった。それまで暮らしていた一軒家のローンは、母1人の稼ぎでは到底払いきれなかった。家を手放して今のこの市営住宅に引っ越した。
母は近所のスーパーでパートをしながら、女手1つで武田を育ててきた。
だが、パート代だけで暮らしていくのは決して楽ではない。塾の費用や参考書代もかかる。
母はぎりぎりのところでやりくりしている。それを武田は、子供の頃から肌で感じ取っていた。
だから武田は決めたのだ。絶対に国立大学に行く。学費の心配をかけない大学に。
そして一流企業に就職して必ず母を楽にさせる。それが、武田麟太郎という人間の誰にも言わない原点だった。
学校では誰もそんな事情を知らない。
容姿端麗、学業優秀、剣道部主将、生徒会長。武田の周りにはいつも羨望の眼差しが集まっている。
けれど、その仮面の下にあるのは、ただひたすらに「負けられない」という強迫めいた想いだった。負ければ、すべてが崩れる。
成績で誰かに後れを取れば、国立大学の道が遠のく。
剣道で誰かに負ければ、推薦の枠を逃すかもしれない。
生徒会長の座を誰かに奪われれば、内申点に響くかもしれない。
武田にとって、すべての場面が母を助けるための戦いの延長線上にあった。
だからこそ、武田は誰よりも常に強くあらねばならなかった。
弱さを見せることは、絶対に許されない。弱い者、劣る者は、自分の足を引っ張る存在でしかない。
そんな歪んだ理屈がいつの間にか武田の中に根を張っていた。
高校に入ってからは、周りのレベルも上がり、ライバルと呼べる相手も増えた。負けられないという想いは、年々強くなっていく一方だった。
強い者だけが正義で、弱い者には生きる価値すらない。
そんな冷たい考えが、武田の心の奥底に生まれつつあった。
誰もその内面を知らない。
武田は成績表を机の引き出しの奥にしまうと、何事もなかったかのように参考書を開いた。
明日もまた、完璧な生徒会長を演じなければならない。
その仮面の下で何を抱えているか、誰にも悟られないように。




