第1話 いつもの日常
翌朝、7時32分。
いつもの市バスは、23人の乗客を乗せたまま光に呑まれて消える。
そんなことになるとは夢にも思っていない、12月のある日。
高校2年の星野桃矢は、教室の自分の席でスマホのゲームアプリを開いていた。
まわりでは「おはよう」の声が所々で聞こえる。そんな中、桃矢はスマホゲームに熱中していた。
桃矢はいつもこんな感じだ。教室の隅っこで空気のように静かに存在している。それが星野桃矢というポジションだった。
始業時間も近くなり、スマホをポケットにしまったところで、後ろから声が聞こえた。
「おはよう、星野くん」
桃矢は反射的に顔を上げる。
川嶋麗華が教卓に向かう途中で、わざわざ自分の席の横を通って声をかけてくれた。
「あ、おはよう」
桃矢はかろうじてそれだけ返した。声が裏返らなかっただけ今日は上出来だ。
麗華はにこりと笑って、そのまま教壇の方へ歩いていく。彼女にとってはおそらく特別な意味なんて何もない。ただのクラス委員長としての日常の挨拶だ。クラス全員に同じように声をかけている。桃矢が特別というわけじゃない。
それでも、桃矢の心臓は少しだけ早く動いていた。
ホームルームが始まる。教壇に立つのは、その川嶋麗華だ。
麗華は手元のプリントを見ながら、連絡事項をてきぱきと読み上げていく。声に淀みがなく、誰の名前を呼ぶときも分け隔てがない。
そんな誰に対しても分け隔てなく自然体で話す彼女の周りには、自然と人がいつも集まる。
他クラスの男子がわざわざ廊下から麗華の様子を覗きに来ることも珍しくない。告白して断られたという話も、桃矢の耳に何度か届いたことがある。それでも本人は気負った様子もなく、今日もいつものようにクラスメイトたちと笑い合っている。
桃矢はそんな麗華の横顔をほんの一瞬だけ見て、すぐに視線を机に戻した。
自分とは住む世界が違う。そう、勝手に決めている。
彼女は太陽みたいな人間で、自分は教室の隅でスマホのゲームをしている人間だ。住む世界が違うというより、見ている景色そのものが違うのだろう。
昼休み。桃矢は教室で一人弁当を広げていた。
「桃矢、今日もゲームか」
隣の席の田中が顔をこちらに向けた。桃矢はスマホの画面を見せた。
「サバゲー。結構えぐいやつ」
スマホゲームのランキング画面を見せると、田中が「うわ、これ全国10位とか、すごくないか」と声をあげた。桃矢は曖昧に笑って照れを誤魔化した。
「まあ、暇な時間が多いだけだよ」
桃矢は苦笑いしながら箸を動かす。現実世界では空気みたいな存在の自分が、ゲームの世界では誰よりも強い。そのギャップが桃矢にとってはちょっとした誇りでもあり、同時に少しだけ寂しさの種でもあった。
「あ、そういえば生徒会長の武田。今度の文化祭の実行委員長、またあいつがやるらしいよ。好きだねー、あいつも」
「ああ、なんかそんな感じだよな。あいつがやれば誰も文句出ないだろうし」
「確かにすごい奴だからな、あいつ。剣道部の主将で成績優秀。おまけにモテるしな」
「だな」
正直、桃矢にはどうでもいいことだった。武田は自分とは住む世界が違う人間。一生、関わり合いを持つこともないだろう。
「ところで、最近気になる子はいないのか」
「ん、別に」
「おまえ、彼女作る気あるのか?」
田中の何気ない質問に、桃矢は一瞬詰まった。脳裏に浮かんだのは、今朝のホームルームでの一言だった。「おはよう、星野くん」。あの声。
「……べつに」
「絶対なんかあるよな、その間」
「うるさいな。早く自分の席に戻れよ」
桃矢は誤魔化すように箸を動かした。田中はにやにやしながらも、それ以上は突っ込んでこなかった。
放課後、廊下の窓から校庭を見下ろすと、剣道部の稽古の中にひときわ目を引く人影があった。生徒会長の武田麟太郎。汗を拭う仕草さえ様になっていて、後輩に指導する声にも嫌味のない自信が滲んでいる。
「ああいうのが、本物のヒーローってやつなんだろうな」
桃矢は軽くため息をつきつつ校舎を出た。
最寄りのバス停で降り、夕暮れの帰り道を歩きながら、スマホで新着情報を眺めていた。
そういえば、明日も麗華と同じバスになれるだろうか。なったところで、話しかける勇気なんてないのだけれど。今朝の声をかけられたことだって、思い出すたびに少しくすぐったい気持ちになる。誰にも言えないけれど。
「……まあ、いいか」
桃矢は小さくつぶやいた。
平凡で目立たなくて、彼女もいなくて、たまにちょっと格好悪い。取り柄なんて何もない。スポーツも苦手だし、これまで女子にモテたこともない。
それでも、これはこれで悪くない毎日だ。
その時の桃矢は、まだ知らない。
この平凡な日常が、明日の朝で終わりを迎えることを。




