第39話 一番好きな景色
松井陽翔は、自分のことを現実主義者だと思っていた。
幽霊は信じない。占いも信じない。運命も信じない。起きたことには必ず原因があって、起きていないことはまだ起きていないだけだ。
だから、一目惚れというものは存在しないと思っていた。
高校に入る前までは。
陽翔の家から高校まで、バスで二十分ほどかかる。小学校も中学校も自転車で通える距離だったから、路線バスに毎日乗るのは初めてのことだった。
バスに慣れてきた頃、一人の女子に気がついた。
制服から同じ高校だった。髪は肩より少し長く、小柄で、バスを待つ間いつも本を読んでいる。バスが来ると本をしまって、リュックを前に抱え直して乗り込む。その一連の動作が、なぜか目に留まった。
何が気になったのかは、自分でもよく分からない。ただ、バスに乗ってからもその子のことを見ていた。
現実主義者の陽翔は、その夜、自分に言い聞かせた。外見への反射的な好意だ、と。明日になれば忘れる、と。
忘れなかった。
名前を知ったのは、入学から一か月ほど経った頃だった。
クラスが違ったから、学校で顔を合わせることはなかった。でも、週に何度か同じバスに乗り合わせた。陽翔はいつも少し離れた席から、彼女を見ていた。見ていた、というより、気になってしまっていた、の方が正確かもしれない。
陽翔は自分を分析した。何が気になっているのかを、整理しようとした。顔が好みかどうかと問えば、そうだと思う。でもそれだけではない気がした。バスに乗ってくる時、何かをしまいながら席を探す時、窓の外を見ている時、そのどの瞬間も同じように気になった。それは「顔が好み」という説明では足りなかった。
ある日、彼女がバスの中で友達と話しているのを聞いた。
「朽名、今日どこ行くの」と友人らしい女子が言った。
クツナ。
名前なのか苗字なのかも分からなかった。珍しい響きだった。漢字でどう書くのかも、その時は知らなかった。朽名という名前だと知ったのは、後で連絡先を交換した時のことだった。
桃矢にその話をしたのは、その夜のことだった。ゲームをしながら、なんとなく口から出た。珍しい苗字で、と前置きしてから話した。
「一目惚れ?」桃矢は少し驚いたように言った。
「違う。気になってるだけだ」
「それを一目惚れって言う」
「違う。まだ話したこともないし、何も知らない相手に、惚れるとかあるわけない」
桃矢は笑った。「お前が誰かの話をするのって、珍しいな」
陽翔は何も言わなかった。言い返せなかった、というより、否定する言葉がなかった。
その夜、陽翔はもう一度自分に問いかけた。一目惚れは存在しないと思っていた。見た目への反射的な印象を恋と呼ぶのは正確ではない、と思っていた。では今自分が感じているこれは何なのか。説明がつかなかった。
声をかけたのは、夏が近い頃だった。
これまで女の子と付き合ったことのなかった陽翔には、声のかけ方が分からなかった。何を言えばいいのか。知り合いでもない相手に、バスの中で話しかける理由が見つからなかった。話しかけたい、という気持ちは確かにあった。でも「話しかけたい」は理由にならない。何かきっかけが必要だった。
その、きっかけが来た。
バスが揺れた瞬間、彼女の手から文庫本が落ちた。陽翔はそれを拾って手渡した。それだけだった。
「ありがとう」と彼女は言った。
「うん」と陽翔は言った。
それで終わるつもりだった。でも彼女が「その本、私も読んだことがあるよ。もう読み終わった?」と言ってきた。陽翔が持っていた文庫本を見ていたらしかった。
「もうすぐ読み終わるところ」と陽翔は答えた。
「面白かった?」
「まあまあ」
「私はすごく好きだった。あの終わり方が特に」
そこから、バスが着くまでの十五分、本の話をした。陽翔にとっては珍しいことだった。初対面の相手とこれほど話し続けたことは、今までなかった。
彼女は降り際に「また話そうね」と言ってバスを降りた。振り返らなかった。
陽翔はその背中を見ながら、ああ、と思った。自分が言いたかったことを、向こうから先に言ってくれた。
その夜、桃矢に「話しをした」と報告した。
「どうだった」
「また話そうね、って言われた」
桃矢が笑い声を上げた。「それ、脈あるんじゃないか」
「そうとは限らない。社交的な性格なだけかもしれない」
「お前って面倒くさい奴だな、本当に」
付き合い始めたのは、二学期の後半だった。
夏の間に、バスで話す回数が増えた。学校内の廊下で顔を合わせることも増えた。連絡先を交換した。ゲームの話をしたら、彼女がゲームに詳しくないと知り、代わりに彼女が好きな映画の話を聞いた。朽名は映画をよく見ていて、話し始めると止まらなかった。陽翔は映画をあまり見ていなかったが、朽名の話を聞いているのが楽しかった。
夏休みに一度、二人で映画を見に行った。デートと言っていいのかどうか陽翔には判断がつかなかったが、後から朽名に「あれってデートだったよね」と言われて、「まあそうだろうな」と答えた。「断言しないんだね」と朽名は笑った。
陽翔はある日気づいた。朽名が話している時、自分は話の内容より、話している顔を見ていることが多い。内容が面白くないわけではない。ただ、話しているその顔を見ていたかった。
告白の言葉は、うまくなかった。
「好きだ。付き合ってほしい」
それだけだった。放課後、誰もいない廊下で。朽名は少しだけ間を置いてから、「うん」と言った。
「返事それだけか」と陽翔は言った。
「陽翔くんも短かったじゃない」
確かにそうだった。陽翔は少し笑った。朽名も笑った。
付き合い始めてから、陽翔は朽名のことをもっとよく知るようになった。几帳面だが話し始めると長い。感情が顔に出やすい。誰かが落ち込んでいると、なんとなく気づいて近づいていく。人の話を聞いている時、必ず相手の目を見る。映画は何度でも同じのを見られる。ゲームは苦手だが、陽翔がやっているのを隣で見るのは好きだと言った。
そういうことが、少しずつ分かってきた。分かるたびに、好きになった。これが恋というものか、と陽翔は思った。外見への反射的な好意ではなく、その人を知っていくことで大きくなっていくものだった。最初の印象は入り口に過ぎなかった。現実主義者の陽翔には、それがやっと納得できる説明だった。
あの日2人が同じバスに乗っていたのは、偶然ではなかった。
その頃には日課として、結菜と待ち合わせて、手をつないでバス停まで歩くようになっていた。バス停に着くと、桃矢が後から来た。バスが来て、結菜とバスの中で目が合って、小さく笑い合う。それもいつも通りだった。
光が差し込んで、気がついたらこの星にいた。
最初の数日は、何も考えられなかった。状況を受け入れることに、頭のほぼ全部を使っていた。現実主義者の陽翔には、それが一番つらかった。現実として受け入れようとするほど、受け入れがたい現実があった。説明がつかないことが、陽翔には一番苦手だった。
結菜は、陽翔より早く立ち直った。というより、立ち直ったように見えた。怖かったはずだ。でも誰かが落ち込んでいれば近づいて、食料を探せば率先して動いた。陽翔は、それを見ながら思った。強い。強さの種類が自分とは違う。
武田のことは、早い段階で「合わない」と感じた。
武田のやり方が全部が間違いだとは思わなかった。非常時に強いリーダーシップを取ることは必要だ。グループをまとめることも必要だ。でも、武田の判断には、どこかで「俺が正しい」が先に来ている感じがあった。正しいから決める、ではなく、俺が決めたから正しい、という順番に見えることがあった。陽翔にはその違いが分かった。現実主義者は、そういうずれに敏感だった。
転移からしばらくして、みんなのストレスが溜まっていく中、武田を変わらず頼る人と川嶋さんを慕う人、自然と分かれていくのが分かった。陽翔には、どちらが考え方が生き残りやすいかという計算はあった。でも、それよりも先に、桃矢が動いた。
川嶋さんが「私についてくる人は来てください」と言った時、桃矢が先に動いた。陽翔は考える間もなく、桃矢の隣に並んでいた。後から考えると、なぜすぐに動けたのか自分でも分からなかった。ただ、桃矢が行く方へ行く、というのが自然だった。
結菜も自分の隣にすっと並んだ。陽翔といつも一緒よ、と顔に書いてあった。
この星に来てから、桃矢のことを改めて見るようになった。取り柄なんて何もないと本人は言っているが、あいつはここに来てから、ずっと誰かのために動いている。高齢者の世話をして、食料を探して、揉め事を和らげる。それを当然のようにやっている。ゲームの中で何度も一緒に詰んだ状況を逆転してきたが、リアルでも同じだと思った。あいつが諦めるところを、陽翔は見たことがない。
一番好きな景色は、と聞かれたら、今までの陽翔なら答えに詰まっていたと思う。
この星に来てから、きれいなものをたくさん見てきた。複合光が川面に揺れる夕方。ダブりの時間に森の葉が二重の影を落とす朝。ルウたちのお腹の白い部分が一斉に輝く夜。どれも、地球では見られないものだった。
でも、どれでもなかった。
今なら、胸を張って言える。
一番好きな景色は、結菜が誰かと話している後ろ姿だった。
笑いながら話をしている姿、人の話を真剣に聞いている姿、身振り手振りを加えて何か話している姿。どの瞬間も、結菜の自然な姿だった。それが好きだった。
地球にいた頃から、そうだった。教室で友人と話す結菜の後ろ姿。バスの窓から外を見ている結菜の横顔。映画を見終わって感想を話し始める時の結菜の顔。全部、覚えている。
この星に来てからも、その景色を何度も見てきた。ルウたちと話す結菜。ユウの髪を触らせている結菜。ハナと並んで笑って座っている結菜。
全部、覚えている。
全部、目に焼き付けた。
なぜそうしたのか、その時の陽翔には分からなかった。ただ、そうしたかった。それだけだった。




