第25話 正しい道
転移してから武田麟太郎はずっと考え続けていた。自分は正しい判断ができているのか。
地球にいた頃、武田にとって「正しい道」とは、いつも単純明快だった。
成績で一番を取ること。剣道の試合で勝つこと。生徒会長として、誰から見ても非の打ちどころのない振る舞いをすること。それらはすべて、母を助けるという、たった一つの目的のための手段だった。
父が死んでから、武田の人生は、ずっと「負けられない戦い」の連続だった。母はパートをしながら、女手一つで自分を育ててくれている。だから、学費の安い国立大学に進学し、一流企業に就職して、母を楽にさせる。それが、武田の揺るがない目標だった。
誰にも、自分のことは話したことがない。眉目秀麗、学業優秀、生徒会長。周りが見ている武田は、いつも完璧で、非の打ち所のない人間だった。その仮面を、武田は誰よりも丁寧に、誰よりも必死に、被り続けてきた。
唯一、その仮面の下を知っているのは、山崎だった。
小学生の時に近所の道場で出会って以来、山崎とは武道の道で、いつも切磋琢磨してきた仲だった。家庭の事情も、進路の悩みも、すべてを話せる、数少ない相手。それでも武田は、家に山崎を呼ぶことはなかった。市営住宅のあの狭い部屋を、山崎にすら見られたくなかったのだ。
いつも山崎は、余計なことは聞かず、ただ隣にいてくれた。それだけで、武田にとって、十分すぎるほどの救いだった。
この星に転移してからも、武田は、武田であり続けようとした。
最初は簡単だった。みんなを導き、生き延びるための判断をする。それが、自分の役割だと思っていた。剣道で培った胆力も、生徒会長としての経験も、すべてが、この極限状況の中で役に立っていた。
けれど、長谷川さんが亡くなった日から、何かが、少しずつ狂い始めた。
限られた食料をどう配分するべきか。誰を優先し、誰を後回しにするべきか。武田は頭の中で、何度もその計算を繰り返していた。
『動ける人間が、動ける分だけ動く。それが結果的に、みんなのためになる』
あの言葉は、決して思いつきではなかった。共倒れを避けるためにはどう行動すべきか。そのために必要なことは何か。当然、その延長線上には、必要な犠牲も生じうる。しかし、皆が生き延びるために必要な犠牲なら。地球にいた頃から、ずっと培ってきた「結果を出すための合理性」から導き出された当然の結論のはずだった。
けれど、麗華の目には、まったく違うものとして映っていたようだ。
『やさしさを捨てた瞬間に、私たちは、もう人間じゃなくなる』
あの一言を聞いたとき、武田の中で、何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
反論はできなかった。内心では、麗華の言葉が正しいと分かっていたから。
それでも、引くことはできなかった。麗華の意見を受け入れることは、武田にとって、自分自身を否定することと、同じ意味を持っていた。
麗華たちと決別し、新しい拠点を作ってからも、武田の中の迷いは消えることがなかった。
石原や田崎の不満。バスを手放したことへの後悔。そして、あの夜、焚き火を挟んで聞こえてきた、石原と田崎の不満と本音。
「あんな決断、よくできたよなって思うよ、正直」
その言葉は、今でも武田の心に深く突き刺さっていた。あの時は、聞こえていないふりをして、ただ焚き火を見つめ続けることしかできなかった。
誰も、自分のことを理解してくれない。そんな思いが、武田の胸の奥に拡がっていた。
肉を初めて口にした夜、武田は自分の中に、これまでとは違う種類の力が、漲っていくのを感じた。
体力的な疲労が明らかに軽減されている。それは紛れもない事実だった。
けれど、同時に、説明のつかない苛立ちも、芽生え始めていた。些細なことに、必要以上の苛立つ自分。これまでなら、絶対にしなかったはずの、キツい言い方。自分の中で何かどす黒い物が渦巻いているようだった。
山崎が肉を断ったとき、武田は内心、強い動揺を覚えた。
「俺は、果実と魚で十分だ」
その短い一言の裏に、山崎も自分と同じ事を感じ取っていることに、武田も気づいていた。でも、それを認めることは、自分の判断をまた一つ、否定することに繋がる。だから、武田はその違和感にあえて、目を瞑り続けていた。
夜、誰もいない場所で、武田は何度も何度も自問し続けていた。
自分は、本当に正しい道を歩んでいるのだろうか。
母を助けたい。その一心で、これまで走り続けてきた。けれど、その想いが、いつの間にか「強くあらねばならない」という強迫観念に変わり、さらに、弱い者を切り捨てることも、やむを得ない」という、歪んだ理屈へと姿を変えてしまっているのではないか。
それでも、武田は、今さら立ち止まることができない。これまで築き上げてきた「武田麟太郎」という存在を、自分自身で壊してしまうことが、何よりも怖かった。
誰にも見せない、もう一つの自分。
その存在を抱えたまま、武田は、今夜もまた、眠れない夜を過ごしていた。
武田は、心の中で小さく呟いた。
「……俺は、間違ってるのか」
その問いに答えてくれる者は、当然、誰もいない。




