第21話 空腹だったの
まだ橙の光が昇りきらない、薄明るい時間。今泉友加里は、誰にも気づかれないよう、そっと拠点を抜け出した。
昨夜はほとんど眠れなかった。お腹が空いて、空いて、どうしようもなかった。朝になればまた配給が始まる。けれど、それで今の空腹が満たされることが無いことは、もう分かりきっていた。
誰かに頼ることは、今泉にはできなかった。みんな、それぞれの役割をこなしながら、必死に頑張っている。そんな中で、自分だけが「もっと食べたい」と弱音を吐くことは、許されない気がしていた。
だから、誰にも言わずに、一人で川沿いへと向かった。
もしかしたら、まだ誰も見つけていない、安全な食べ物があるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、今泉は朝露に濡れた草を踏みしめて歩いた。
川沿いを少し進むと、見たこともない木々が、いくつも生い茂っているのが目に入った。
その枝には、様々な色や形をした実がいくつもなっていった。淡い黄色の小さな実。表面が網目状になった緑がかった実。そして、リンゴくらいの大きさで赤黒い実。
「どれが、食べられるのかな……」
誰にともなく呟きながら、それぞれの実を注意深く見比べていった。
黄色い実は、小さすぎる。これだけでは、空腹を満たすには到底足りない。網目状の実は、見るからに皮が硬そうで、どうやって食べればいいのかも分からない。
彼女の視線は、自然とあの赤黒い実へと吸い寄せられていった。
大きさも申し分ない。表面の艶やかな光沢は、いかにも甘そうに見える。これなら、空腹を満たせるかもしれない。
手を伸ばして身を触ってみた。少し柔らかかった。そのまま実をもぎ取った。
その時、彼女の頭上では、いくつもの光の玉が激しく瞬いていた。
淡い黄緑色の光、ポルンたちだった。ボルンは、何かを必死に伝えようとするかのように、赤黒い実の周りを旋回しながら光っていた。光の点滅は、いつもよりずっと速く、激しかった。
けれど、彼女にはその光は見えていなかった。
空腹と焦りに意識を支配されていた彼女の目には、ポルンたちの姿は、ただの自然現象、虫が飛んでいるとしか映らなかった。
ポルンは、なおも諦めずに、彼女の手の周りを激しく飛び回り続けた。けれど、ポルンが人間の言葉を持たない以上、伝えられることには限界があった。
今泉は、迷いを振り切るように、その赤黒い実を、口へと運んだ。
ボルンの光が、一瞬、ひときわ強く瞬いた。それは、まるで、ボルンの悲しみの感情が爆発したかのようだった。
その後、ボルンは森の方へ消えていった。
その日の朝、今泉さんの姿が、見えないことに最初は誰も気がつかなかった。
水汲みの当番が一段落し、朝の配給が始まる頃になって、大場さんが今泉さんの姿が見えないことに気づいた。いつもは配給の時はニコニコしながら手伝いに来ていた。
「めずらしく今泉さん、いないわね?」
大場さんが尋ねると、陽翔も麗華も首をかしげた。
「いや、今朝は見てないな。トイレかな」
「ちょっと、見てきましょうか」
麗華がトイレの場所を見に行ったが、今泉さんの姿は無かった。そこで、何人かで手分けして周辺を捜し始めた。
桃矢の中で嫌な予感が重く広がり始めていた。
状況は長谷川さんがいなくなった時と同じだった。
あの時の記憶が、まだ生々しく残っている分、今度こそは、と桃矢は祈るような気持ちで辺りを捜索した。
「あっ!あそこ」
川沿いを捜していた山田さんが、声を上げた。
川の少し上流、岩場の近くに今泉さんが一人で座り込んでいるのが見えた。動いてはいる。けれど、その様子は明らかにおかしかった。
「今泉さん!」
桃矢たちが駆け寄ると、今泉さんは苦しそうに胸を押さえながら、地面に座り込んでいた。顔は真っ青で、唇は紫色でわずかに腫れているようにも見える。
「だ、大丈夫……ちょっと、休ん……」
今泉さんは話そうとしたが、言葉の途中で激しく咳き込んだ。その様子は、誰の目にも、ただの体調不良ではないことが分かった。
「川原さん! 早く!」
桃矢が叫ぶと、少し遅れて川原さんが駆けつけてきた。息を切らしながら、今泉さんの傍らに膝をつく。
「今泉さん、何を食べたの? 教えて」
川原さんが今泉の脈を取りながら尋ねた。今泉さんは、震える手で近くに転がっていた、見たこともない赤黒い実を指さした。
その実は、桃矢たちがこれまで一度も口にしたことのない、未確認の果実だった。皮が艶やかに光り、一見すると甘そうな見た目をしている。けれど、その内側に、どんな毒を秘めているか、誰にも分からなかった。
「これ……ちょっとだけ、味見しようと思って……」
今泉さんの声は、消え入りそうなほど小さかった。
「どうして、一人でこんなことを……」
川原さんの声に深い悲しみが滲んでいた。
今泉さんの容態は、どんどん悪化していった。
呼吸が浅くなり、意識が朦朧とし始める。川原さんが、知っている限りの応急処置を試みたが、医療器具も無いなか、できることは限られていた。
「がんばって……今泉さん、がんばって……」
麗華が今泉の手を握りながら、必死に声をかけ続けていた。桃矢も、陽翔も、山田さんも、ただその様子を見守ることしかできなかった。
「みんなと、同じだけ……食べてたのに……」
今泉さんが、途切れ途切れに呟いた。
「私だけ、いつも、足りない気がして……でも、誰にも、言えなくて……」
その言葉に、桃矢は胸が強く締め付けられた。
「言ってくれれば、良かったのに」
桃矢は思わずそう口にしていた。
「言えなかったの……みんな、頑張ってるのに、私だけ、こんなことで……弱音、吐けなかった……」
今泉さんは、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。空腹の悩みも、誰かに迷惑をかけることへの恐れも。誰かに打ち明けてさえいれば、こんなことには、ならなかったかもしれない。
「私がもっと早く気づいていれば……」
大葉さんが声を震わせながら呟いた。
「いつも、配給を食べた後に、もっと欲しそうな顔をして他の人が食べるのを見ている姿を、私、見てたのに。何も言えなかった……」
山田さんも、拳を握りしめながら唇を噛んでいた。
「俺だって、毎日の漁をもっと頑張っていれば……」
誰もが、自分にできたはずのことを数え上げ、苦しんでいた。けれど、その後悔は、もう、今泉さんには届かない。
今泉さんは、その日の昼過ぎ、息を引き取った。
2人目の死だった。長谷川さんの時と同じように、いや、それ以上に深い沈黙が、13人、いや、12人になってしまった一同を包み込んだ。
麗華は、今泉さんの手を握ったまま、しばらく動こうとしなかった。その目から、涙が止めどなく溢れていた。
「ごめんね……ごめんね、今泉さん……」
麗華の謝罪は、誰に向けたものでもなく、それでいて、その場にいる全員の心を表していた。




