第14話 最初の1人
その日の朝、長谷川さんの姿が見当たらないことに、最初に気づいたのは桃矢だった。
いつもなら、誰よりも早く目を覚まし、誰とも口をきかずに1人離れた場所に座っている。それが、この数日ですっかり馴染んでしまった、長谷川さんの朝の姿だった。けれど、今朝はその姿が見えなかった。
「長谷川さん、見た?」
桃矢は近くにいた陽翔に尋ねた。
「見てないけど。トイレでも行ってるんじゃないか」
「いや、もうだいぶ時間が経ってる気がする」
桃矢はなんとなく胸騒ぎを覚えていた。けれどその時はまだ、それが単なる気のせいであってほしいと、心のどこかで願っていた。
周囲を見渡しても、長谷川さんの姿はどこにもない。
ふと、桃矢は長谷川さんがいつも1人で座っていた、あの少し離れた場所に目をやった。
地面に何かが落ちている。
近づいてみると、それは長谷川さんのスマホだった。土の上に無造作に置かれている。
それを拾い上げ、起動してみた。けれど、何の反応もない。電源切れのようだ。
武田が「電源を切っておいてほしい」と言ったあの日も、長谷川さんだけは、電源を切らずに画面を見続けていた。繋がらないと分かっていても、その画面を眺める時間だけが、長谷川さんにとって、唯一安心できる時間だったのかもしれない。
心の支のスマホが、動かなくなった。そして長谷川さんは、そのスマホを残したまま、1人でどこかへ向かった。
その事実が、桃矢の胸に言いようのない不安を呼び起こした。
朝食代わりの果実が配られる時間になっても、長谷川さんは戻ってこなかった。
「誰か、長谷川さん見た人いる?」
桃矢がみんなに向かって声を上げた。
誰も、はっきりとした答えを返せなかった。
「昨日の夜は、いたよな」
「うん、見張りの時は、バスの中にいたと思う」
「今朝は?」
誰も、今朝の長谷川さんを見た記憶がなかった。
不穏な空気が、急速に車内に広がっていく。
「捜しに行こう」
武田の言葉に、何人かが頷いた。
山崎、石原、田崎、山田さん、そして桃矢と陽翔も捜索に加わることになった。
手分けして、バスの周辺から捜し始めた。
「長谷川さーん」
誰かが叫ぶ声が、バスの周りに虚しく響くが返事はなかった。
桃矢は、陽翔と共に川沿いの方角を捜していた。長谷川さんは、普段から1人で過ごすことが多かった。
誰にも気づかれず、こっそりと水場の方へ向かったとしてもおかしくはない。
川に向かう道のりを歩きながら、桃矢は何度も声を張り上げた。声が枯れそうになってくる。
「なあ、いるよな、無事で」
陽翔が、不安を押し殺すように呟いた。
「うん」
桃矢は、それだけ答えるのが精一杯だった。頭の中では、最悪の可能性が何度も浮かんでは消えていく。それを振り払うように、ただひたすら足を動かし続けた。
「長谷川さーん」
声を張り上げながら、川沿いを進む。やがて、見覚えのある光景が見えてきた。漁のために何度も訪れた、あの川だ。
桃矢は川の少し下流のあたりに、何かがちらちらと瞬いているのに気づいた。
あの光の玉だった。
先日、水浴びの帰りに見たのと同じ、淡い黄緑色の光の玉が、1つや2つではなく、数えきれないほど、川面の上を乱れ飛んでいた。その場をぐるぐると旋回している。
「……あれ」
桃矢の声に、陽翔も視線を向けた。
「なんだよ、あれ……」
先日の穏やかで美しい光景とは、明らかに様子が違っていた。
玉の数も、動きの速さも、何か普通ではないことを示しているようだった。
嫌な予感が急速に膨らんでいくのを桃矢は感じた。
2人は吸い寄せられるように、光の玉が乱舞している方へと足を進めた。
川岸に何かが浮かんでいるのが見えた。
2人の足が、止まった。
「……陽翔」
声が震えていた。
川の流れの緩やかな淀みに、人が浮かんでいた。
うつ伏せのまま、力なく水面に漂っている。
見間違いであってほしいと、心のどこかで強く願いながらも、桃矢は川に向かって走り出していた。
川岸に着くと、浮かんでいる人の衣服には見覚えがあった。長谷川さんだ。
陽翔と川に入ると、冷たい水が足元から這い上がってくる。
膝まで浸かったところで、ようやく長谷川さんの元にたどり着いた。
「長谷川さん! しっかりしてください!」
2人がかりで、なんとか岸まで引き上げた。けれど、長谷川さんは、息をしていなかった。
「嘘だろ……」
陽翔の声が、掠れていた。桃矢は、何度も心臓マッサージを試みたが、反応はなかった。
手のひらに伝わる、長谷川さんの体の冷たさと硬さが、現実を否応なく突きつけてくる。
それでも、桃矢は止めることができなかった。何かしていなければ、この場で立っていることすら、できそうになかった。
陽翔が皆を呼びに戻ってからどれくらいの時間が経っただろうか。やがて、川原さん達が駆けつけてきた。
「長谷川さん……」
川原さんが駆け寄って脈を確認する。
その表情だけで、もう何の説明も必要なかった。
その場にいた全員が、言葉を失っていた。
長谷川さんがいつ、なぜ1人で川に向かったのか。誰にも、本当のところは分からなかった。
「たぶん、魚でも捕ろうとしたんじゃないか」
山田さんが、震える声でそう推測した。
「足場が悪い場所だったし、暗いうちに1人で来たんなら、滑って転んでも、誰も気づけない」
「でも、何で1人で……」
誰かがそう呟いた。誰に向けるでもない、答えのない問いだった。
長谷川さんは、いつも1人だった。ただ静かに、孤独を抱えたままこの数日を過ごしていた。
誰もスマホの電源を切るようには言わなかった。反面、誰も、長谷川がなぜそれほどまでにスマホに執着していたのか、その理由を知ろうともしなかった。
きっとスマホの電源が切れたことが長谷川さんの今回の行動の発端だったのだろう。
もし、誰かがもっと早く、長谷川さんが、なぜいつもスマホを見ているのか聞いていたら。
もし、誰かが、もっと積極的に声をかけていたら。
桃矢の頭の中をいくつもの「もし」が、繰り返し駆け巡った。
「長谷川さん、何か手伝えることありますか」
あの日、自分がかけた、あの言葉。
「いや、ない」という、短い返事。
あれが、桃矢が長谷川と交わした、最後のまともな会話だった。
もっと、何か言えたんじゃないか。
答えの出ない後悔が、桃矢の中で重く渦巻いていた。
川原さんも同じような表情を浮かべていた。
何度も長谷川さんに声をかけていた彼女にとって、この結末は誰よりも重くのしかかっているはずだった。
「私が、もっと……」
川原さんが、震える声で呟いた。誰も、その言葉に何と返せばいいか分からなかった。
その夜は、誰も火を囲もうとはしなかった。
23人、いや、もう22人になってしまった一同は、バスの中でただ静かに座り込んでいた。誰も口を開かない。誰も食事に手をつけない。配られた果実が、誰の手にも触れられないまま、放置されていた。
長田さんでさえ、いつもの小言を口にしなかった。大葉さんがその背中をそっとさすっている。一橋さんと三浦さんも、互いに寄り添うように座ったまま、言葉を発することができずにいた。
「……これから、どうなるんだろう」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その一言は、誰もが心の奥底に抱えていた不安そのものだった。
次は、誰なのか。
誰も、その問いしたくはなかった。けれど、誰の心の中にも、同じ問いが消えることなく渦巻いていた。
武田は、自分の感情を抑え込むように表情を硬くしていた。
リーダーとして、自分が動揺を見せるわけにはいかない。そんな思いが、痛いほど伝わってくる横顔だった。
石原や田崎たちも、いつもの軽口を忘れ、ただ俯いて座っていた。
長谷川信一という1人の人間が、確かにこの場所にいた。
そして、もういない。
その事実だけが、22人の心に、重く、深く刻まれていった。




