第10話 獣
茂みをかき分けて姿を現したのは、4本の太くて短い脚で身体を支える、大型の獣だった。
体型は動物園で見たトラに似ているが、明らかに見たことのない異なる生き物だった。
体毛は深い緑がかった色をしていて、背中にはまるで背びれのようなものがあり、先端にはトゲのようなものがたくさん付いている。
目は爛々と黄色く光り、瞳は人間や地球の動物とは違う、横長の菱形をしていた。
体長は、おそらく2メートルを超えている。低い姿勢のまま、こちらを狙うように動いていた。
口元からは、小さな牙が2本、突き出すように覗いている。
「……マジか」
山田さんが低い声で呟いた。声には隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「動くなよ。刺激しないように」
獣は3人をじっと見据えたまま、低いうなり声を上げながらゆっくりと距離を詰めてくる。
桃矢の心臓が激しく音を立てる。手のひらにじっとりと汗が滲み、足が震えそうになる。
けれど、頭の片隅では奇妙なほど冷静な部分が動いていた。
逃げ場は。
桃矢は素早く周囲を見渡した。背後は密林、左手は水たまり、右手には結構急な傾斜の斜面。
獣との距離はまだ10メートルほどある。全力で走れば、逃げ切れるかもしれない。
「あっちの斜面を駆け上がれば、逃げられるかもしれない」
桃矢は、できるだけ声を抑えて言った。
「根拠は?」
「あの足。あの短く太い足だと、斜面は昇りにくいと思う」
確証があるわけではない。けれど、何もしないよりはましだった。正解が分からないなら、せめて明らかな間違いだけは避ける。それだけのことだった。
獣が、じりじりとさらに距離を詰めてくる。
「わかった! 走れ!」
山田さんの合図で、3人は一斉に斜面へと走り出した。
獣が低く吠え、ドタドタと追ってくる足音が背後から聞こえる。桃矢は無我夢中で斜面を駆け上がった。
足元の土が崩れ、何度か転びそうになりながらも、必死で腕を使って這い上がる。
獣の唸り声が徐々に遠ざかっていくのが分かった。桃矢の予想通り、急な斜面を獣は登れないようだった。
息を切らしながら斜面の上にたどり着くと、陽翔と山田さんもほぼ同時に登りきっていた。
「はあーはあー。マジで死ぬかと思った」
陽翔が地面に手をついて荒い息を吐く。山田さんも同様に肩で大きく息をしていた。
「桃矢、お前、よくあの場面で斜面のこと思いついたな」
「いや、たまたま……」
桃矢自身、心臓が今にも飛び出しそうなほど高鳴っていた。とっさの判断だったが、間違っていなかった。それだけで安堵のあまり、膝の力が抜けそうになる。
下を覗き込むと、獣は斜面の下でしばらくこちらを見上げていたが、やがて茂みの奥へと姿を消していった。
桃矢は、しばらくその場にへたり込んだまま動けずにいた。今さらながら、足が小刻みに震えている。
現実はゲームとは違う。リセットボタンはない。一歩間違えれば、本当に死んでいたかもしれない。その実感が今になってじわじわと押し寄せてくる。
それでも、自分の判断が間違っていなかったことだけは確かだった。
たとえ確証のない読みでも、何もせず立ち尽くすよりは、ずっとましだった。ゲームでいつもやっていたことが、まさかこんな形で命を救うことになるとは。
「戻ろう。今日のところは、無理しない方がいい」
山田さんの言葉に2人は無言で頷いた。来た道を今度は慎重に、何度も周囲を確認しながら戻っていく。
それでも、手にはいくつかの果実が残っていた。命がけで持ち帰った、ささやかな収穫だった。
バスに戻ると、3人の話を聞いた一同に緊張が走った。
「危険な動物がいる」
誰かが震える声でそう呟いた。これまで漠然と抱いていた不安が急に現実味を帯びて、車内に重くのしかかる。
「どんな見た目だったの? 大きい?」
「背中に銀色の背びれが付いている、とても大きな緑色の獣だった」
「俺らも会うかもしれないってことか……」
不安げな声が、次々と飛び交う。陽翔と山田ができるだけ詳しく特徴を説明していった。武田はそれを真剣な表情で聞きながら、何度も頷いていた。
「あの獣、密林の奥の方で見たんだよな」
武田が、確認するように尋ねる。
「ええ。木が生い茂っていて、見通しの悪い場所だった」
山田さんが答えると、武田はしばらく考え込んだ。
「だったら、無闇に密林の奥には入らない方がいいな。ただ、バスの周りだけで23人分の食料を賄い続けるのも、現実的には無理がある。果実だって、すぐになくなる」
その言葉に何人かが頷いた。確かに、バスの近くで採れる果実は、この2日間の収穫でほとんど残っていない。
「川沿いなら見通しもいいし、密林の中よりは安全なはずだ。明日からは、食料を探しは、密林を避けて川沿いに広げていこう。魚も期待できるかもしれないし」
武田の提案に、みんなうなずいた。
2日後の夜、川原さんと大沢さんが少し離れた場所で、三浦さんの体調を尋ねているのを桃矢は見かけた。
「三浦さん、一昨日が……その、予定の日でしたよね」
大沢さんの声には隠しきれない緊張があった。三浦さんは転移した日に「次の透析は明後日だ」と話していた。それから4日が経っている。つまり、一昨日がまさにその予定日だった。
「ああ、そうだったな」
三浦さんは、他人事のように淡々と答えた。
「正直、覚悟はしてたよ。こんな場所に透析の機械があるわけないし。数日は平気でも、毒素が溜まってくれば、そのうち体がきつくなってくるはずなんだが」
「今、何か症状は……」
「それが、不思議とないんだよなあ」
三浦さんは自分の手のひらを開いたり閉じたりしながら、首をかしげた。
「むくみも、息苦しさも、ない。普段なら、透析が1日遅れるだけで体がだるくなってくるもんなんだが」
川原さんは信じられないという様子で、三浦さんの脈や顔色を確認していった。
「……確かに、顔色は悪くないですね。脈も安定しています」
「だろう? 自分でもおかしいと思ってるよ。こんな生活をしてて、本来なら悪化する一方のはずなのに」
「そういえば」
川原さんが、ふと思い出したように呟いた。
「転移した日に怪我した人たちの傷、思ったより治りが早い気がするんです。擦り傷とか打撲とか、看護師としての感覚だと、本来もう少し腫れが残っていてもおかしくないのに」
「言われてみれば……」
三浦さんも自分の手の甲についた小さな擦り傷を見つめながら頷いた。転移直後にできたはずのその傷は、すでにほとんど目立たなくなっていた。
その会話を少し離れた場所で聞いていた桃矢は、突拍子もない考えが頭をよぎった。
三浦さんの体にこれまでの常識では説明のつかないことが起きている。また、みんなの傷の治りも早い。
もしかしたら、この星の水か、果実か、あるいは空気そのものに、何か特別な作用があるのかもしれない。
この星には地球の常識では測れない何かが存在している。それだけは、間違いなさそうだった。
「とりあえず、何かあったら私か大沢さんにすぐ言ってくださいね。私たちにできることは限られてますけど」
「ああ、ありがとうな。あんたたちがいてくれるだけで、だいぶ心強いよ」
三浦さんはそう言って、穏やかに笑った。だが、その笑顔の裏にまだ拭いきれない不安があることを桃矢は感じ取っていた。
明日も、明後日も、この奇妙な「無事」が続く保証はどこにもない。




