第三話 忘れられた神
森を抜ける頃には、空が明るさを取り戻していた。
レインは無言で歩き続けていた。
一歩踏み出すたび、全身のどこかが痛んだ。
ナラクの眷属との戦いで切った腕。木の根に足を取られた際に打ちつけた膝。力任せに剣を振るったことで、悲鳴を上げている肩。
致命傷と呼べるものはない。
それでも、身体中に残る痛みが、先ほどまでの出来事が現実だったことを否応なく教えてくる。
自分は戦った。
恐怖に震えながら、それでも逃げずに剣を握った。
そして、生き残った。
「……勝ったんだよな」
誰に確認するでもなく、レインは呟いた。
少し後ろを歩いていたフロネが顔を上げる。
「生きてる」
「それは見れば分かる」
「なら、勝った」
あまりにも簡単に言われ、レインは小さく息を吐いた。
勝利という言葉には、もっと胸が熱くなるような響きがあると思っていた。
実際には、疲労と痛みしかない。
恐怖だって、消えたわけではなかった。
戦いが終わってから何度も、あの黒い化け物が背後から追ってきているのではないかと思い、振り返ってしまった。
「勝ったっていうより、たまたま生き残っただけだ」
「違う」
フロネは迷わず否定した。
「君は、逃げたいと思った」
「ああ」
「怖いと思った」
「……ああ」
「それでも、戦うと決めた」
少女は真っ直ぐにレインを見つめる。
「だから勝った」
「随分と都合のいい理屈だな」
「事実」
フロネはそれだけ言うと、再び前を向いた。
その横顔は変わらず、何を考えているのか分かりにくい。
けれど、レインには彼女が慰めのために言っているのではないと分かった。
怖くなくなったから進んだのではない。
怖いまま、それでも進むことを選んだ。
それがフロネのいう自己支配なのだろう。
自分の中にあるものを認めた上で、最後にどうするかを自分で決める。
戦いの最中には理解できなかったことが、今になって少しだけ胸の中へ落ちてきた。
森を抜けると、遠くに石造りの城壁が見えた。
レインが生まれ育った町、アルトナ。
決して大きな町ではない。
昨日までなら、何も感じなかった景色だ。
だが、今は妙に懐かしく見えた。
「やっと戻ってきた……」
緊張がわずかに緩み、レインは歩調を速めた。
温かい食事が欲しかった。
身体を洗い、柔らかい寝床で横になりたい。
そして何より、自分が生きて帰ったことをミリアに伝えなければならない。
置いていった彼女がどれほど怒っているかを考えると、今すぐ逃げ出したくもなったが、ナラクの眷属に比べればまだ話が通じる。
たぶん。
町の門まで、あと百歩ほど。
そこで、隣を歩いていた足音が止まった。
レインは数歩進んだところで気づき、振り返る。
フロネは道の真ん中に立っていた。
「どうした?」
「私はここまで」
「……ここまで?」
フロネは町の門を見つめていた。
門の前では、二人の衛兵が旅人の荷物を確認している。特に騒ぎが起きている様子はない。
「入らないのか」
「入れない」
あまりにも平然と告げられ、レインは一瞬、その意味を理解できなかった。
「入れないって、何でだ。神だからか?」
「分からない」
「分からない?」
「うん」
フロネは一歩だけ前へ出る。
次の瞬間、その身体がわずかに揺れた。
何もない空間に肩を押し返されたように、足が止まる。
風もなければ、壁もない。
だが確かに、彼女と町との間には目に見えない何かが存在していた。
フロネはもう一度進もうとはしなかった。
「昔から、町には入れない」
「全部の町に?」
「分からない。でも、ここは無理」
「いつからだ」
「覚えてない」
返ってくる答えは、どれも曖昧だった。
レインは城壁を見上げる。
神を祀る教会が町の中心にある。
神の加護を求め、毎日多くの人々が祈りを捧げている町だ。
その町に、神であるフロネが入れない。
妙な話だった。
「町の結界か?」
「たぶん」
「どうしてお前だけ弾かれる」
「分からない」
「……お前、本当に分からないことばっかりだな」
「ごめん」
素直に謝られ、レインは言葉に詰まった。
責めたいわけではなかった。
だが、フロネについて知ろうとすればするほど、分からないことばかりが増えていく。
自己支配の神。
信者を持たず、神殿にも祀られていないノラガミ。
千年以上前に、一人だけ契約者がいた。
そして今、町に入ることさえ拒まれている。
「ここで待ってろ」
レインは言った。
「町に入って、傷の手当てをしてくる。それから、食べ物も持ってくる」
「私は食べなくても平気」
「俺が食うんだよ」
「そう」
「あと……調べたいことがある」
フロネが小さく首を傾けた。
「お前のことだ」
「私?」
「教会なら、古い神の記録が残ってるかもしれない。名前くらい見つかるだろ」
「見つからないと思う」
「調べる前から決めるな」
レインが顔をしかめると、フロネはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか、判断に迷うほど小さな変化だった。
「すぐ戻る」
「うん」
フロネは街道から少し外れた大木の根元へ移動し、そこに腰を下ろした。
朝日に照らされた姿は、森の中で初めて見た時と同じだった。
一人でいることに慣れきっているように見える。
けれど、その姿を置いて町へ向かうことに、レインは妙な抵抗を感じた。
契約したからだろうか。
それとも、一度隣を歩いた相手を置き去りにすることが嫌なだけなのか。
自分でも分からないまま、レインは門へ向かった。
門番は傷だらけの姿を見て眉をひそめたが、レインの顔を知っていたため、簡単な確認だけで通してくれた。
城壁の内側へ入ると、町は普段と変わらない時間を過ごしていた。
市場では店が始まり、パン屋からは焼きたての香りが漂っている。
昨日までと何も変わらない。
森の中で、人ならざるものに命を狙われていたことなど、まるで嘘だったかのようだ。
「レイン?」
聞き覚えのある声がした。
振り向いた時には、茶色の髪を揺らした少女がこちらへ駆けてきていた。
「レイン!」
「ミリア」
胸へ飛び込んでくるかと思った。
だが、ミリアはレインの目の前で急停止すると、そのまま右手を大きく振り上げた。
乾いた音が町中に響いた。
「痛っ!」
「馬鹿!」
頬を押さえるレインの胸を、今度は両手で何度も叩く。
「何で勝手にいなくなるの! どこに行ってたの! 私がどれだけ……!」
「悪かった。落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ!」
もう一度叩こうとしたミリアの手が止まった。
レインの服についた黒い汚れ。
裂けた袖。
乾いた血。
それらを見て、彼女の顔から怒りが消えていく。
「その怪我……何があったの?」
「少し長くなる」
「少しで済ませるつもり?」
「……かなり長くなる」
ミリアは何か言い返そうとしたが、レインの表情を見て口を閉じた。
「家に来て。先に手当てするから」
「その前に、教会へ行きたい」
「何で?」
「調べたい神がいる」
ミリアの目が細くなった。
「神?」
「ああ」
「レインが?」
「そうだ」
「神様なんて必要ないって、いつも言ってたレインが?」
「今も必要だとは思ってない」
「じゃあ何を調べるの」
レインは少し迷った。
町の外で待つフロネの姿が脳裏に浮かぶ。
「契約した」
「……何と?」
「神と」
数秒間、ミリアは瞬きすらしなかった。
やがて、恐る恐るレインの額へ手を伸ばす。
「熱は……ないね」
「正気だ」
「森で頭を打った?」
「打ってないとは言えないけど、正気だ」
「神と契約したって、本気で言ってるの?」
「ああ」
「どの神様?」
「フロネ」
ミリアは記憶を探るように眉間へ皺を寄せた。
「知らない」
「俺も知らなかった」
「何を司る神様なの?」
「自己支配」
「……それ、神様の権能?」
「らしい」
「曖昧すぎない?」
「本人が一番曖昧なんだ」
説明すればするほど胡散臭くなっていく。
それでもミリアはレインの顔をじっと見つめ、嘘を言っているかどうかを見極めようとしていた。
「その神様は、どこにいるの?」
「町の外」
「どうして一緒に来なかったの?」
「来なかったんじゃない。入れなかった」
ミリアの表情が変わる。
「町に?」
「ああ。見えない何かに弾かれた」
「そんな話、聞いたことない」
「だから調べたい」
ミリアはしばらく黙っていた。
そして、地面に落とした籠を拾い上げる。
「分かった」
「信じるのか?」
「まだ半分くらい」
「半分も信じるのか」
「レインが、そんなすぐにばれる嘘をつくとは思えないから」
ミリアは歩き出した。
「教会へ行こう。シスター・エレナなら、古い資料を見せてくれるかもしれない」
アルトナの教会は、町の中心に建っている。
白い石を積み上げた建物で、正面には豊穣と癒やしを司る女神セレスの像が置かれていた。
町の人間の多くは、セレスを守護神として信仰している。
レインも幼い頃、何度かミリアに連れられて礼拝へ参加したことがあった。
もっとも、祈ったことはない。
神に願うくらいなら、自分でどうにかした方が早いと思っていたからだ。
今も、その考えが変わったわけではない。
ただ、自分の右手には神との契約紋が刻まれている。
人生というものは、本人の考えとは関係なく、時々とんでもない冗談を仕掛けてくるらしい。
教会へ入ると、祈りを終えた人々が帰るところだった。
祭壇の前で燭台を片づけていた女性が、ミリアに気づいて顔を上げる。
「ミリア。どうしたのですか?」
「シスター・エレナ。少し相談があって」
エレナは四十代ほどの修道女で、幼い頃からミリアの面倒を見てきた人物だ。
穏やかな笑みを浮かべていた彼女だったが、レインの姿を見ると表情を曇らせた。
「レイン、その怪我は?」
「森で少し」
「少しという姿ではありませんね」
「本人は少しだと言い張ってるんです」
「言い張ってはいない」
「似たようなものです」
エレナは深く息を吐いた。
「まず治療を」
「その前に、古い神の記録を見せてほしいんです」
レインが言うと、エレナの手が止まった。
「古い神の記録?」
「フロネという神を知りませんか」
「フロネ……」
エレナは小さく繰り返した。
その反応を見て、レインは期待した。
だが、彼女は首を横に振る。
「申し訳ありません。聞いたことがありません」
「自己支配を司る神です」
「自己支配……」
エレナはさらに考え込んだが、やはり心当たりはないようだった。
「神々の権能を記した神名録があります。ですが、教会に保管されているものは一般向けの写本です。名のある神しか載っていません」
「もっと古いものは?」
「地下書庫に、教会が建てられる以前の文献が残っています。しかし、保存状態が悪く、読めないものも多いですよ」
「見せてください」
エレナの視線が、レインからミリアへ移る。
ミリアは真剣な顔で頷いた。
「お願いします。かなり大事なことみたいなんです」
「理由を聞いても?」
レインは右手の手袋を外した。
手の甲に浮かぶ紋章を見た瞬間、エレナの顔から穏やかさが消えた。
円環の内側に、互い違いに走る複数の線。
中心には、閉じた瞳にも、一本の道にも見える意匠が刻まれている。
「契約紋……」
エレナは紋章へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「あなたが契約を?」
「はい」
「フロネという神と?」
「そうです」
「その神は、今どこに」
「町の外です。入れませんでした」
エレナは目を見開いた。
「結界に拒まれたのですか?」
「たぶん」
「そんな……」
「何か知ってるんですか」
「いいえ。ただ、町を守る結界は、邪なるものや敵意を持つ眷属を退けるためのものです。神を拒むようには作られていません」
「じゃあ、フロネは邪神ってこと?」
ミリアの声に、レインは反射的に眉をひそめた。
「違う」
思った以上に強い声が出た。
ミリアが驚いたようにこちらを見る。
「少なくとも、あいつは俺を助けた。ナラクの眷属と戦うために力も貸した。邪神が何なのかは知らないけど、フロネは違う」
「……うん。ごめん」
「いえ、その可能性を考えるのは当然です」
エレナが静かに言った。
「ですが、決めつけるべきでもありません。記録を調べましょう」
教会の地下書庫は、祭壇脇の小さな扉から続く階段の先にあった。
エレナが鍵を開けると、冷えた空気と古い紙の匂いが流れ出てくる。
石造りの階段を下り、三人は細長い部屋へ入った。
壁一面に木製の棚が並び、その中には大小さまざまな書物が詰め込まれている。
表紙に神の名が刻まれたもの。
権能の系統ごとに分類されたもの。
各地の神話や、神殿の建立記録。
町の小さな教会に、これほど多くの本が保管されているとは思わなかった。
「この辺りが古い神名録です」
エレナが棚の一角を示す。
「ただし、年代によって記述が違います。同じ神が別の名で記されていることもあります」
「じゃあ、全部見るしかないな」
「全部って……」
ミリアが棚を見上げる。
そこには、背表紙の文字すら消えかけた分厚い本が何十冊も並んでいた。
「今日中には終わらないよ」
「フロネは外で待ってる」
「だからって急いで見つかるものでもないでしょ」
「見つかるまで探す」
レインが一冊目を抜き取ると、ミリアは呆れたように息を吐いた。
「昔から一度決めると本当に頑固」
「帰っていいぞ」
「誰が帰るって言ったの」
ミリアも隣の本を手に取った。
エレナは二人を見て微笑むと、傷んだ文献を扱うための布手袋と、卓上のランプを用意してくれた。
調査は想像以上に地道だった。
火を司る神。
水を司る神。
風、雷、戦、知恵、収穫、出産、病、死。
神々の数は、レインが思っていたより遥かに多かった。
一つの権能に複数の神がいる場合もあれば、一柱の神がいくつもの異名を持つ場合もある。
大陸全土で信仰される神もいれば、既に滅びた村でしか祀られていなかった小さな神もいた。
だが、フロネの名はない。
自己支配という権能も見つからない。
一冊。
二冊。
十冊。
時間だけが過ぎていく。
ランプの火が揺れ、地下書庫に紙をめくる音だけが響く。
「ないね」
ミリアが本を閉じた。
「こっちもない」
「次だ」
「少し休んだ方がいいよ。顔色悪いし」
「元からだ」
「そういう意味じゃない」
傷の痛みは徐々に強くなっていた。
緊張が解けたせいだろう。
それでもレインは次の本へ手を伸ばす。
フロネは自分のことをほとんど覚えていない。
いや、覚えていないというより、知らないことを受け入れすぎている。
千年もの間、誰にも名前を呼ばれず、一人で森にいた。
なぜそうなったのかを知ろうともせず。
それは彼女が気にしていないからなのか。
あるいは、気にしても仕方がないと諦めたからなのか。
レインには分からなかった。
ただ、町の外で一人待つ姿を思い出すと、ここで諦める気にはなれなかった。
「レイン」
ミリアが声を落とした。
「そのフロネって神様は、どんな人なの?」
「人じゃない。神だ」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
ページをめくる手が止まる。
「……変なやつだ」
「それだけ?」
「何を考えてるか分からない。自分のこともよく知らない。聞いても、分からないって言う」
「悪口ばっかりだね」
「でも、人に命令しない」
ミリアは黙って続きを待った。
「俺が何を選んでも、止めない。助けを求めても、神なら普通、自分を信じろとか、従えとか言うものだと思ってた」
「フロネ様は言わないの?」
「言わない。『君が決めること』って、そればっかりだ」
「変わった神様」
「ああ」
レインは右手の紋章を見た。
「だから、契約した」
ミリアの視線が横顔に刺さる。
「神様なんて必要ないって言ってたのに?」
「今もそう思ってる」
「矛盾してない?」
「神だから選んだんじゃない」
フロネに告げた言葉が蘇る。
「フロネだったから選んだ」
ミリアは目を瞬かせた後、ふっと微笑んだ。
「そっか」
「何だよ」
「何でもない」
ミリアは再び本へ視線を落とした。
その後も調査を続けたが、手がかりは見つからなかった。
棚にあった神名録をほとんど確認し終えた頃には、地上から鐘の音が聞こえてきた。
夜の到来を知らせる鐘だ。
「これで最後です」
エレナが残された一冊を確認し、首を横に振った。
「ここにもフロネという名はありません」
「そうですか……」
ミリアが肩を落とす。
レインは何も言わず、積み上げた本を見つめた。
あれほど多くの神が記されているのに、フロネだけがいない。
ただ無名だったというだけなのか。
信者がいなければ、記録にも残らない。
そう考えれば不自然ではない。
だが、フロネにはかつて契約者がいた。
千年以上前。
その時代から存在している神が、何の痕跡も残していないことなど、本当にあり得るのだろうか。
「……そういえば」
エレナが呟いた。
「まだ何かあるんですか?」
「神名録ではありません。教会が建てられた際、地中から出てきた古い木箱があります」
「中身は?」
「文献が一冊。ただ、文字があまりに古く、誰にも読めませんでした。保存状態も悪いため、別の場所に保管しています」
「見せてください」
レインは即座に言った。
「期待はしないでください。神々の記録かどうかすら分かりません」
「それでもいい」
エレナはしばらく迷っていたが、やがて書庫の最奥にある小さな扉を開けた。
そこは物置に近い場所だった。
崩れた祭具や、使用されなくなった燭台。鼠に齧られた木箱。
エレナはその一番奥から、両手で抱えられるほどの箱を引き出した。
表面は黒く変色し、金具には赤錆が浮いている。
「発見されたのは、百年以上前です」
埃を払いながら、エレナが言った。
「この教会の地下を広げた際、さらに古い石壁の中から見つかったそうです」
「石壁の中?」
「誰かが隠したのではないか、とも言われています」
錆びついた留め具を外す。
蓋が開くと、中には布で何重にも包まれた一冊の本が入っていた。
革張りの表紙はひび割れ、触れただけで崩れそうになっている。
題名はない。
かつて何かが刻まれていた形跡はあるが、表面を削り取られていた。
三人は慎重に本を机へ運んだ。
エレナが薄い板を差し込みながら、ゆっくりと表紙を開く。
最初の数ページは、文字が完全に消えていた。
紙そのものも黒ずみ、端が欠けている。
「やっぱり、読めないね」
ミリアが残念そうに言った。
「まだだ」
一枚ずつ、慎重にめくっていく。
意味の分からない古代文字。
欠けた地図。
円形に並んだ神々らしき影。
どれも何を表しているのか判断できない。
そして、本の中央付近。
エレナがページをめくった瞬間、レインの呼吸が止まった。
そこには文字ではなく、一枚の挿絵が描かれていた。
一人の青年と、一柱の少女。
二人は向かい合い、互いの右手を重ねている。
青年の髪や顔立ちは、長い年月で色が褪せ、はっきりとは分からない。
しかし、少女の姿は見間違えようがなかった。
腰まで伸びた淡い髪。
華奢な身体。
静かに青年を見つめる瞳。
「……フロネ」
レインの口から、無意識に名前が漏れた。
「この子が?」
ミリアが絵へ顔を近づける。
「今、町の外にいる神様?」
「ああ」
「本当に?」
「間違いない」
絵の中のフロネは、今より少しだけ表情が柔らかく見えた。
青年を見つめる瞳には、確かな信頼が宿っている。
そして、重ねられた二人の手の上には、一つの紋章が描かれていた。
レインは自分の右手を見る。
円環。
交差する線。
中心に刻まれた、閉じた瞳のような意匠。
寸分違わない。
「同じ……」
ミリアも気づいた。
「レインの契約紋と、まったく同じだよ」
「ああ」
偶然ではない。
この絵は、フロネがかつて契約したという人間との契約を描いたものだ。
千年以上前の、たった一人の契約者。
「この人が、前の契約者……?」
青年の顔に目を凝らす。
だが、肝心の部分だけ汚れが広がり、表情は読み取れなかった。
挿絵の下には古代文字が書かれている。
その大半は擦れ、黒い染みと混ざり合っていた。
エレナがランプを近づける。
「完全には読めません。今の神聖文字より古い形式です」
「少しも?」
「似た形の文字なら……これは、おそらく『契約』です」
エレナが一つの文字を指差す。
「こちらは『神』。ですが、名前に当たる部分は削れています」
「フロネの名前は書かれてないんですか」
「書かれていた可能性はあります。しかし、今は読めません」
名前のあったと思われる箇所だけ、不自然なほど傷んでいた。
経年劣化なのか。
それとも、誰かが意図的に消したのか。
今の段階では判断できない。
レインは次のページへ手を伸ばした。
紙が破れないよう、指先に力を入れず、ゆっくりとめくる。
次の挿絵を見た瞬間。
地下書庫の空気が変わった。
そこにもフロネが描かれていた。
だが、先ほどとはまるで違う。
巨大な神殿。
天井まで届く白い柱。
その中央で、フロネは両腕を鎖につながれていた。
首を垂れ、膝をついている。
周囲には、人の姿をした何柱もの神々。
顔は黒く塗り潰されている。
彼らは半円状に並び、中央のフロネを見下ろしていた。
契約の挿絵にあった穏やかさは、どこにもない。
これは儀式ではない。
裁きだ。
「……何、これ」
ミリアの声が震えた。
レインは答えられなかった。
フロネの足元には、折れた何かが転がっている。
剣にも見える。
神像の一部にも見える。
背景の壁には、複数の人影が描かれていたが、その部分は激しく損傷していた。
そして、絵の下に記された文章。
先ほど以上に擦れている。
エレナは時間をかけ、一文字ずつ確認した。
「ここは……『罪』」
地下書庫に、その言葉だけが落ちる。
「こちらは『神殿』だと思います」
「他には?」
「この部分は……『追放』。おそらく」
罪。
神殿。
追放。
断片的な三つの言葉。
それだけで、絵が持つ意味は十分すぎるほど伝わってきた。
「フロネ様は……何か罪を犯したの?」
ミリアが尋ねる。
「分からない」
レインは絵を見つめたまま答えた。
「この絵だけじゃ、何も」
「でも、鎖につながれてる」
「ああ」
「神様たちに裁かれてるように見える」
「ああ」
「それで、町に入れないのも……」
「決めつけるな」
低い声が出た。
ミリアが口を閉じる。
レイン自身も、なぜ苛立ったのか分からなかった。
文献に残された挿絵は、明らかにフロネが何らかの裁きを受けたことを示している。
町の結界に拒まれたことと無関係とは思えない。
だが、絵に描かれた一場面と、読めない文字の断片だけで、フロネを罪人だと決めることには強い抵抗があった。
森での彼女を知っている。
何も命じず、何も強制せず、最後までレイン自身に選ばせた神。
そんな彼女が、神々に裁かれるほどの何をしたのか。
「レイン」
ミリアが静かに呼ぶ。
「ごめん」
「……いや。俺も悪かった」
エレナは挿絵を見ながら、深刻な表情を浮かべていた。
「このような記録は初めて見ました」
「教会にも残ってないんですか」
「神が罪を犯し、神々によって裁かれたという伝承自体は存在します。しかし、通常であれば神名も罪状も記録されます。これほど意図的に情報が欠けている文献は……」
「意図的?」
「断定はできません」
エレナは削れた箇所へ触れないよう、指を浮かせる。
「ですが、紙の傷み方が均一ではありません。特に、名が記されていたと思われる場所と、この挿絵の一部だけが深く削られています」
フロネの顔。
青年の顔。
神殿に集まった者たち。
そして、文章の重要な部分。
そこだけが、長い年月の劣化では説明できないほど傷つけられていた。
「誰かが消した……?」
ミリアが呟く。
「そうかもしれません。あるいは、この文献を守るために、名を伏せた可能性もあります」
「守るため?」
「記録を残すこと自体が危険だったのなら、すべてを書き残すことはできません」
誰が。
何から。
何を守ろうとしたのか。
新しい疑問が増える。
真実に近づいたはずなのに、目の前にはさらに深い霧が広がっていた。
「この本、借りられますか」
レインが尋ねると、エレナは首を横に振った。
「教会の外へ持ち出すことはできません。少し動かしただけでも崩れる可能性があります」
「フロネに見せたい」
「町へ入れないのでしたね」
「はい」
エレナは考えた後、紙と木炭を用意した。
「挿絵を写しましょう。完全に同じにはできませんが、特徴は残せます」
三人で手分けし、二枚の挿絵を紙へ写した。
契約する青年とフロネ。
鎖につながれ、神殿で裁かれるフロネ。
契約紋もできる限り正確に描き写す。
作業を終えた頃には、夜の鐘が鳴り終わっていた。
エレナはレインの傷を簡単に手当てし、持ち出せない文献を再び布で包んだ。
「この記録については、私も調べてみます」
「お願いします」
「ただし、気をつけてください」
エレナは真剣な目をレインへ向けた。
「神の過去を探るということは、その神を裁いた存在の過去にも触れるということです」
「神殿のことですか」
「それすら、今は分かりません」
答えのない忠告だった。
それでも、胸の奥に重いものが残った。
教会を出ると、夜風が熱を持った身体を冷やした。
「本当に町の外にいるの?」
ミリアが尋ねる。
「ああ」
「私も行く」
「もう遅いぞ」
「ここまで聞いて、会わずに帰れるわけないでしょ」
「明日でもいい」
「その神様を一人で待たせてるのは誰?」
正論だった。
二人は夜の町を抜け、門へ向かった。
夜間は門が閉じられているが、レインのみがしる抜け道があった。
城壁の外は暗い。
街道を照らすのは月明かりだけだった。
昼間、フロネを残した大木へ近づく。
少女は、そこにいた。
幹へ背を預け、膝を抱えて座っている。
眠っているようにも見えたが、レインたちの足音が近づくと、ゆっくり顔を上げた。
「遅かった」
「悪い」
「日が沈んだ」
「見れば分かる」
「二回沈むかと思った」
「そこまでは待たせてない」
フロネの視線がミリアへ移る。
「その人は?」
「ミリア。俺の幼馴染だ」
「ミリア……」
フロネは名前を確かめるように繰り返した。
ミリアは少し緊張した様子で一歩前へ出る。
「初めまして。ミリアです」
「フロネ」
「はい。聞いてます」
「レインは、私のことを何て言ってた?」
「変な神様だって」
「おい」
「それから、人に命令しない神様だって」
フロネはレインを見る。
「変?」
「否定はしない」
「そう」
不満があるのかないのか分からない反応だった。
ミリアはしばらくフロネを見つめていた。
恐れや畏敬というより、存在を確かめるような眼差しだった。
「本当に、神様なんですね」
「たぶん」
「たぶん?」
「神だと言われてきた」
「本人もよく分かってないんだ」
レインが補足すると、ミリアは困惑した顔をした。
「聞いてたより曖昧な神様だった……」
「だから言っただろ」
「でも」
ミリアは町の方を振り返る。
「本当に入れないんですか?」
「うん」
「結界に触れると?」
「押し返される」
「痛くは?」
「少し」
レインは初めて聞いた。
「痛いのか。言ってなかった」
「聞いてない」
「そう」
フロネは何でもないように答える。
町へ入ろうとした時、一歩だけ試してすぐに諦めたのは、単に慣れているからではない。
何度も拒絶され、その痛みを知っていたからなのだろう。
「文献を見つけた」
レインは写し取った紙を取り出した。
「お前らしい神が描かれてた」
フロネが立ち上がる。
最初に、契約の挿絵を見せた。
青年とフロネが向かい合い、手を重ねている絵。
フロネは紙を受け取り、しばらく動かなかった。
その目が、青年の姿をなぞる。
契約紋を見つめる。
そして、自分自身の顔へ移る。
「この人が、千年前の契約者か?」
レインが尋ねた。
フロネはすぐには答えなかった。
夜風が髪を揺らす。
「たぶん」
「覚えてないのか」
「契約したことは覚えてる」
「相手の顔は?」
「……よく見えない」
絵の損傷のことではない。
記憶の中の顔が、という意味なのだろう。
「どんな人だった?」
ミリアが優しく尋ねた。
「強かった」
「前にもそう言ってたな」
「でも、力が強いんじゃない」
フロネは紙を見つめたまま言う。
「自分を、最後まで見失わなかった」
「名前は?」
長い沈黙。
「思い出せない」
声に感情はほとんどなかった。
けれど、紙を持つ指がわずかに強くなった。
レインはそれ以上聞かなかった。
代わりに、二枚目の紙を差し出す。
「もう一つある」
フロネは紙を受け取った。
神殿の中央。
鎖につながれ、神々に囲まれた自分自身。
その絵を目にした瞬間。
フロネの呼吸が止まった。
紙が指先から滑り落ちかける。
「フロネ?」
レインが手を伸ばすより早く、フロネは額を押さえた。
小さな身体がふらつく。
「おい!」
レインが肩を支える。
触れた身体は、ひどく冷たかった。
「大丈夫ですか?」
ミリアが反対側から支えようとする。
フロネは何も答えない。
閉じた瞼の奥で、何かを見ているようだった。
燃えるような光。
白い柱。
遠くで響く誰かの声。
金属の擦れる音。
それらが断片となって、フロネの中を通り過ぎている。
「……違う」
かすかな声が漏れた。
「何が違う」
「分からない」
「今、何か見えたのか」
「声……」
「誰の」
「分からない」
フロネは苦しそうに息を吸う。
その瞳が開く。
普段の静けさはなく、明らかな動揺が浮かんでいた。
「私が……」
続きを言おうとして、唇が震える。
「私が、選んだ」
「何を?」
「分からない」
再び、同じ言葉。
だが今度は、それを口にすること自体が苦しそうだった。
フロネは落ちた紙を拾う。
鎖につながれた自分を、黙って見つめる。
「文献には、『罪』『神殿』『追放』って言葉が残ってた」
レインは隠さず伝えた。
「お前は、神殿で何かの裁きを受けた。だからノラガミになって、町にも入れないのかもしれない」
「……そう」
「何か覚えてないか」
フロネは首を横に振った。
「ごめん」
「謝るな」
「思い出せない」
「お前のせいじゃない」
「でも、君は知りたい」
「ああ」
「私は答えられない」
「だったら、一緒に探せばいい」
言ってから、レイン自身が驚いた。
最初は、名前だけ分かればいいと思っていた。
契約した神が何者か。
その程度の確認だったはずだ。
だが今は違う。
歴史から名を消された神。
かつて一人の人間と契約し、神殿で裁かれ、千年もの間放置された神。
フロネ自身が知らない過去を、このまま見なかったことにはできなかった。
「この町にある記録は、あれだけだった」
レインは続ける。
「もっと大きな神殿へ行けば、別の文献があるかもしれない」
「大きな神殿……」
「ああ。神殿都市なら、ここより古い記録も残ってるはずだ」
フロネはしばらく黙っていた。
「行きたい?」
「俺が聞いてる」
「君が決めること」
「今はお前が決めろ」
フロネの目がわずかに見開かれた。
レインは逃げ道を塞ぐように、真っ直ぐ彼女を見る。
「お前は、自分の過去を知りたいのか」
自己支配の神は、誰かに選ばせる。
答えを与えない。
命令もしない。
だが、それは彼女自身が選ばなくていいという意味ではない。
長い沈黙の末、フロネは手の中の絵へ目を落とした。
「怖い」
初めて聞く言葉だった。
レインは息を呑む。
「思い出したら、今の私じゃなくなるかもしれない」
フロネは静かに続けた。
「絵の中の私は、罪を犯した神かもしれない。誰かを傷つけたかもしれない」
「かもしれないだけだ」
「うん」
「今のお前が何をしたかは、俺が見てる」
「……うん」
「それでも怖いなら、怖いまま決めろ」
フロネが顔を上げる。
「お前が言ったんだろ」
レインは右手を握る。
「怖くても進むと決めること。それも自己支配だって」
フロネはしばらくレインを見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「覚えてた」
「忘れるほど前じゃない」
「そう」
少女は二枚の絵を重ね、胸元へ抱えた。
「知りたい」
小さくても、確かな言葉だった。
「私が何を選んだのか。どうして忘れたのか」
「ああ」
「それから」
フロネは町の城壁を見る。
「どうして、入れないのか」
レインは頷いた。
「決まりだな」
「待って」
ミリアが声を上げた。
二人が振り向く。
「何で、当たり前みたいに二人だけで出発しようとしてるの?」
「二人だけとは言ってない」
「でも、私のこと忘れてたでしょ」
「危険だぞ」
「だから?」
「森ではナラクの眷属に襲われた。次も同じとは限らない。神殿の過去まで関わってるなら、もっと危険になる」
「分かってる」
「分かってない」
「レインよりは分かってる」
「何を根拠に」
「一人で森に入って、死にかけて帰ってきた人に言われたくない」
痛いところを突かれ、レインは黙る。
ミリアは一歩前へ出た。
「私も行く」
「どうしてだ」
「放っておいたら、レインはまた何も言わずに消えるから」
「それだけか」
「それだけでも十分でしょ」
ミリアはフロネを見る。
「それに、私も知りたいんです。フロネ様が、本当はどんな神様なのか」
「様はいらない」
「じゃあ、フロネ」
「うん」
「私は神話や古い文字なら、レインより読めます。教会にも知り合いがいるし、旅の役には立てると思います」
フロネはレインへ顔を向けた。
「どうする?」
「俺に聞くな」
「君の幼馴染」
「本人が決めたなら、俺が止めることじゃない」
ミリアが得意そうに笑う。
「決まりだね」
「ただし、危なくなったら逃げろ」
「それはレインも同じ」
「俺は戦う」
「私も必要なら戦う」
「お前、戦えるのか?」
「護身用の術くらいは使えるよ」
「初耳だ」
「レインが教会の話を聞かなかっただけ」
確かに、興味がなかった。
ミリアは幼い頃から教会に通い、治癒や守護の神術を学んでいる。本人が戦うところを見たことはないが、まったくの足手まといというわけでもないらしい。
「出発はいつにするの?」
「早い方がいい」
「じゃあ、明日は無理」
「何でだ」
「旅の準備。食料も必要だし、地図もいる。レインはどうせ剣一本で出るつもりだったでしょ」
「……」
「図星」
ミリアは呆れたように笑った。
「明後日の朝。南門前に集合。それまでに、目的地も決めよう」
「神殿都市なら、王都に近い聖都アルケイアが一番大きい」
「遠いよ。歩いたら一か月以上かかる」
「なら、途中の町で情報を集める」
「うん。それが現実的だと思う」
二人が旅程について話し始める横で、フロネはもう一度、契約の挿絵を見つめていた。
千年前の青年。
今のレインと同じ紋章。
失われた名前。
裁かれる自分。
記憶は戻らない。
胸の奥に残るのは、理由の分からない痛みだけだった。
けれど、今は一人ではない。
「レイン」
「何だ」
「ありがとう」
あまりにも突然で、レインは眉をひそめた。
「まだ何も分かってないぞ」
「それでも」
フロネは紙を胸へ抱いたまま言う。
「探すと決めてくれた」
「違う」
「違う?」
「決めたのはお前だ」
レインは町の門へ背を向ける。
「俺は、隣を歩くだけだ」
フロネはその言葉を聞き、静かに頷いた。
夜空には雲がなく、無数の星が輝いていた。
町の中では、人々が神へ祈りを捧げている。
豊穣を。
健康を。
幸福を。
その祈りが届く場所のすぐ外で、一柱の神が、自分自身の過去を知るために歩き出そうとしていた。
かつて誰と契約したのか。
何を選んだのか。
何の罪を犯したのか。
なぜ歴史から名前を消されたのか。
答えは、まだ遥か遠い。
だが、道は始まった。
それがどこへ続いているのかを、この時の三人はまだ知らなかった。
そして教会の地下。
再び木箱へ収められた古文書の最後のページで、誰にも読まれなかった一行が、ランプの消えた闇の中に残されていた。
文字は削れ、ほとんど失われている。
ただ、その末尾に刻まれた一つの言葉だけが、奇跡的に形を留めていた。
――神殺し。
それを知る者は、まだ誰もいない。




