表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却の神話 ~忘れられた神と青年の記録~  作者: 浦嶋亀タロー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/4

第4話 神都へ

朝日が昇り、アルトナの街を黄金色に染める。

石畳には朝露が残り、開き始めた露店からは焼き立てのパンの香りが漂っていた。商人たちは眠たげな顔で木箱を並べ、通りの向こうでは荷馬車の車輪が軋んでいる。

レインは旅支度を整え、街の門の前で一度だけ振り返った。た。

「……行くか」

荷物を背負い直し、レインは門をくぐった。

町の外では、フロネが朝露に濡れた草原へ腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。

町を囲む境界のせいで、中に入ることのできない彼女は、レインが戻ってくるまでここで待っていたのだ。

「待たせた」

「ううん」

フロネは立ち上がると、服についた草を軽く払った。

その時、門の方から慌ただしい足音が近づいてきた。

「お待たせ!」

大きな荷袋を背負ったミリアが、息を切らしながら駆け寄ってくる。

背中の荷袋は本人の身体よりも幅があり、地図や分厚い本、保存食らしき包みまで隙間なく詰め込まれていた。横には革筒が括りつけられ、後ろからは丸めた毛布が半分ほど飛び出している。

「……それ全部持ってくのか」

「もちろん。旅の命だからね」

「旅じゃなくて引っ越しだろ」

「必要なものしか入れてないよ」

そう言って胸を張った直後、荷袋の重みに引かれてミリアの上体が後ろへ傾く。

レインが慌てて腕を掴むと、ミリアは何事もなかったように咳払いした。

「……今のも計算のうちだから」

「何の計算だよ」

三人はそのまま街道へ出た。

アルトナの城壁が少しずつ遠ざかっていく。

舗装された道の両側には草原が広がり、朝の風が草の波を作っていた。空は高く、雲は薄い。旅の始まりとしては申し分のない天気だった。

しばらく歩いたところで、ミリアが荷袋から古びた地図を取り出した。

「まず目指すのはここ」

歩きながら器用に地図を広げ、中央付近を指差す。

「神都アルケイア。世界中の神殿を束ねる都市だよ」

「そんなに大きいのか」

「大きいなんてもんじゃないよ。神殿の数だけでも数え切れないし、神についての古い記録も集まってる。契約紋の写しや、昔の神話、失われた祭儀の記録まで保管されてるって話」

ミリアの声は次第に弾んでいく。

「一度は行ってみたかったんだよね。一般公開されてない書庫も多いけど、閲覧申請を出せる場所もあるし。もしかしたら、アルトナでは見つからなかった記録も――」

「落ち着け」

「落ち着いてるよ」

「地図、逆さまだぞ」

ミリアは足を止めた。

一度地図を眺め、無言でひっくり返す。

「……細かいことはいいの」

「道案内を任せて大丈夫か?」

「大丈夫。たぶん」

「今、たぶんって言ったな」

二人のやり取りを横で聞いていたフロネは、地図に書かれた神都の文字をじっと見つめていた。

「神都……」

レインが視線を向ける。

「知ってるのか?」

フロネは少し考えてから首を振った。

「分からない」

「何か思い出しそうとか?」

「思い出すというより……胸の奥がざわつく感じ」

指先で自分の胸元に触れる。

「神都には何かある。でも、全部じゃない。そんな気がする」

レインはそれ以上聞かなかった。

記憶を失ったフロネにとって、理由の分からない感覚は珍しいものではない。無理に答えを求めても、彼女を困らせるだけだ。

「なら、確かめに行けばいい」

「うん」

フロネは小さく頷いた。

昼を過ぎた頃、街道は緩やかな森の中へ入った。

枝葉が日差しを遮り、気温が少し下がる。土の匂いが濃くなり、道の脇には名も知らない白い花が咲いていた。

先ほどまで地図を広げていたミリアは、今度は周囲の木々をしきりに見回している。

「何かあるのか?」

「この辺り、薬草が多いんだよ。旅の途中で使えそうなものがあれば採っておこうと思って」

そう答えながら、ミリアは道端に生えた細長い葉を摘み、匂いを確かめてから小袋へ入れた。

「本当に色々持ってるんだな」

「旅に出るなら準備は大事だからね。怪我をしてから薬がないって言っても遅いでしょ」

「剣は?」

「使えない」

あまりに即答だったので、レインは一瞬言葉に詰まった。

ミリアは気にした様子もなく、背負った荷袋の横を叩く。

「でも、何もできないわけじゃないよ」

革筒のように見えた部分から取り出したのは、短く折り畳まれた小型の弩だった。木製の本体には銀色の金具が組み込まれ、弦の近くには淡く光る石が嵌め込まれている。

「対ナラク用のクロスボウ。普通の矢より威力は低いけど、先端にナラクの身体を崩しやすい鉱石が使われてる。近くで戦うのは無理でも、援護くらいならできるよ」

「使ったことは?」

「訓練では」

「実戦は?」

「ない」

「大丈夫か?」

「だから練習したんだよ」

ミリアは少し不満そうにクロスボウを戻す。

「私だって、危険な場所へ行くことはあるんだから」

その言葉に嘘はないようだった。

剣を持って前へ出ることはできない。それでも、自分にできる備えはしている。

レインは改めて、ミリアがただ勢いだけで旅についてきたわけではないと気づいた。

森の中をさらに進む。

やがてフロネが足を止めた。

「どうした?」

「……静か」

レインも周囲へ耳を澄ませる。

確かに静かだった。

風は吹いている。枝葉も揺れている。

それなのに、先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声も、草むらを走る小動物の音も消えていた。

ミリアの表情が変わる。

「レイン」

「ああ」

レインは腰の剣へ手を掛けた。

次の瞬間、左手の茂みが大きく揺れた。

黒い影が飛び出す。

人に似た胴体。獣のように湾曲した腕。表面を覆う黒い皮膚は、光を吸い込むように濁っている。

ナラクの眷属。

一体だけではなかった。

正面の木の上から一体。右手の茂みからさらに一体。

三体が同時に飛びかかってくる。

「下がれ!」

レインは正面の一体を剣で受け止めた。

金属を引っ掻くような音が森へ響く。眷属の爪が刃の上を滑り、黒い火花が散った。

腕に重い衝撃が走る。

押し返そうと力を込めた、その横を二体目が通り抜けた。

レインには目も向けない。

真っ直ぐ、フロネへ向かっている。

「フロネ!」

「ナラクの眷属は神を優先して狙うの!」

ミリアが叫びながら荷袋を地面へ下ろす。

「神が近くにいると、人間より先にそっちを襲う!そういう習性があるの!」

ミリアは素早く留め具を外し、小型のクロスボウを取り出した。弦を引き、専用の短い矢を溝へ載せる。

構える。

引き金を引いた。

鋭い音とともに矢が飛び、フロネへ迫っていた眷属の肩へ突き刺さる。

眷属の身体がわずかに傾いた。

「今!」

レインは目の前の眷属を蹴り飛ばし、その反動で身体を回す。

横薙ぎに振るった剣が、矢を受けた眷属の胸を深く切り裂いた。

黒い身体が崩れ、霧のように散っていく。

だが、残る二体は止まらない。

一体がレインへ爪を振るい、もう一体は再びフロネへ回り込もうとする。

「させるか!」

レインは剣を返した。

正面の爪を受け止める。

重い。

足が土の上を滑り、身体がわずかに後ろへ押される。

その隙に、もう一体がレインの横を抜けた。

フロネまでの距離は近い。

追おうとするが、目の前の眷属が腕を振り下ろす。

受けるしかない。

剣と爪がぶつかる。

焦りで呼吸が乱れた。

視界が狭くなる。

目の前の一体と、フロネへ迫る一体。両方へ意識を向けようとするほど、身体がうまく動かなくなる。

(間に合わない)

剣を握る手に力が入りすぎている。

肩も固い。

足の位置も悪い。

自分でも分かるのに、直せない。

その時、右手の契約紋がかすかに熱を帯びた。

レインの頭に、契約した時に知った権能の名が浮かぶ。

自己支配。

(自分を支配する力……)

フロネは何も言わない。

助けを求めることも、命令することもない。

ただ、そこにいる。

(精神も、身体も)

(俺のものだ)

レインは一度、深く息を吸った。

焦りを消そうとするのではない。

焦っている自分を認識し、その上で呼吸を整える。

胸の鼓動を数える。

一つ。

二つ。

肩の力を抜く。

強く握りすぎていた指を緩め、必要な分だけ剣の柄を握り直す。

足の裏へ意識を向ける。

身体の重心がどこにあるのか。次にどこへ動けば最も速いのか。

さっきまでばらばらだった感覚が、一つに繋がっていく。

眷属の爪が振り下ろされる。

今度は正面から受けなかった。

半歩だけ横へずれる。

爪が肩先を掠める。

そのまま身体を沈め、眷属の脇を抜けた。

目の前から敵が消えたわけではない。

だが、もう動きは見えていた。

レインは地面を蹴る。

フロネへ迫っていた眷属へ一気に追いつき、横から剣を振り抜いた。

黒い首が宙を舞う。

振り返る。

先ほどかわした眷属が、背後から飛びかかってくる。

レインは足を止めず、身体だけをひねった。

爪の軌道を見切り、剣の腹で受け流す。

大きく体勢を崩した眷属の胸へ、刃を真っ直ぐ突き込んだ。

一瞬の静寂。

黒い身体が崩れ、霧となって消える。

ミリアはクロスボウを構えたまま、目を見開いていた。

「……え?」

レインは剣を抜き、周囲を確認する。

新しい気配はない。

「終わったか」

「レインって……」

ミリアはまだ信じられないものを見るような顔をしていた。

「こんなに強かったっけ?」

「俺も、よく分からない」

レインは右手を見る。

契約紋に宿っていた熱は、もう消えていた。

ただ、さっきの感覚だけは身体に残っている。

精神を整え、身体を思い通りに動かす。

単に力が増したわけではない。

自分の中にあるものを、自分で引き出した。

それが自己支配という権能なのだと、レインは初めて自分なりに理解した。

「まだ来るかもしれない」

フロネの声で、レインは顔を上げる。

森の奥から、何か重いものが地面を踏みしめる音がした。

ずしん。

ずしん。

枝が折れ、低い唸り声が響く。

姿を現したのは、先ほどまでの眷属より一回り大きな異形だった。

太い腕。全身を覆う硬そうな黒い外殻。頭部には角のような突起が伸び、赤く濁った四つの瞳がフロネを捉えている。

「……大きい」

ミリアが息を呑む。

「群れを率いる大型個体。気をつけて。普通の眷属よりずっと強い」

「見れば分かる」

レインは剣を構え直した。

大型の眷属が地面を蹴る。

巨体に似合わない速度だった。

真正面から振り下ろされた腕を、レインは横へ跳んでかわす。

直後、地面が砕けた。

土と石が弾け、頬を掠める。

まともに受ければ、剣ごと押し潰される。

眷属は間を置かず、もう片方の腕を薙ぎ払った。

レインは身を低くする。

頭上を黒い腕が通り過ぎ、背後の木をへし折った。

「右!」

ミリアの声。

レインが飛び退くと、眷属の足が先ほどまで立っていた場所を踏み砕く。

距離を取ったミリアが矢を装填する。

引き金を引く。

矢は眷属の胸へ命中した。

だが、硬い外殻に弾かれ、浅く刺さっただけで止まる。

「硬すぎる……!」

眷属の四つの瞳がミリアへ向いた。

しかし、すぐに視線はフロネへ戻る。

神を優先して狙う習性。

大型個体も同じだった。

レインは眷属とフロネの間へ立つ。

「こいつは俺が止める。ミリアは隙を作ってくれ」

「分かった」

「フロネは下がれ」

フロネは何も言わず、数歩だけ距離を取った。

眷属が再び突進する。

レインは呼吸を整える。

先ほど掴んだ感覚を思い出す。

力を入れすぎない。

全部を一度に見ようとしない。

自分が今できる動きだけを選ぶ。

振り下ろされる右腕。

かわす。

続く左腕。

受け流す。

外殻の隙間を狙い、脇腹へ剣を滑り込ませる。

浅い。

黒い液体が散るが、致命傷には届かない。

眷属が怒りに任せて吠え、身体を大きく回転させる。

レインは吹き飛ばされ、地面を転がった。

肺から空気が抜ける。

「レイン!」

ミリアの声が遠く聞こえた。

起き上がろうとした瞬間、眷属はレインではなくフロネへ向きを変える。

ミリアが矢を放つ。

一発目は肩。

二発目は顔。

どちらも外殻に阻まれるが、四つある瞳のうち一つへ矢尻が掠った。

眷属がわずかに顔を背ける。

「こっち!」

ミリアはさらに荷袋から小さな筒を取り出し、地面へ投げた。

筒が割れ、白い煙が一気に広がる。

眷属の足が止まる。

「対ナラク用の刺激煙! 長くは効かない!」

「十分だ」

レインは立ち上がった。

痛みはある。

息も苦しい。

それでも、身体の状態は分かる。

動けないほどではない。

痛みで焦る必要もない。

自分の身体を把握し、動かせる範囲で最善を選ぶ。

煙の中へ踏み込む。

眷属の姿は見えない。

だが、足音と唸り声の位置は分かる。

右から腕が飛んでくる。

レインは剣を斜めに構え、力を正面から受けずに流した。

腕が地面へ叩きつけられる。

その瞬間、外殻の繋ぎ目が開いた。

「そこだ!」

ミリアの矢が飛ぶ。

銀色の矢尻が外殻の隙間へ突き刺さる。

眷属が大きく身を震わせた。

レインはその矢を目印に、剣を両手で握る。

一歩。

踏み込む。

刃を矢の刺さった隙間へ深く突き入れ、そのまま横へ切り広げた。

眷属の咆哮が森を揺らす。

振り回された腕がレインの肩を掠めたが、剣は離さない。

さらに一歩踏み込み、全身の力を刃へ乗せる。

黒い外殻が割れた。

刃が奥まで届く。

巨体が揺れ、ゆっくりと膝をついた。

最後に四つの瞳がフロネを捉える。

だが、その腕が届くことはなかった。

大型の眷属は黒い霧となり、風に溶けるように消えていった。

煙が薄れていく。

レインはしばらく剣を構えたまま動かなかった。

完全に気配が消えたことを確かめ、ようやく息を吐く。

「今度こそ、終わったな」

ミリアもクロスボウを下ろした。

「たぶん」

「そこでたぶんはやめろ」

緊張が解けたのか、ミリアはその場へ座り込んだ。

「だって、初めてだったんだもん。あんなに大きいの」

「初めてでよくあれだけ動けたな」

「準備してきたからね」

ミリアは少し誇らしげに言い、すぐに荷袋を開いた。

「それより肩、見せて。さっき当たってたでしょ」

レインの肩には、眷属の腕が掠めた跡が赤く残っていた。

ミリアは薬草をすり潰した軟膏と布を取り出し、手際よく傷を処置する。

「でも、本当に驚いた」

包帯を結びながら、ミリアがもう一度レインを見る。

「途中から急に動きが変わったよね。あれもフロネさんの権能?」

レインは右手の契約紋へ視線を落とした。

「たぶん」

「レインまでたぶんって言った」

「まだ分かったばかりなんだよ」

レインは少し考え、言葉を選ぶ。

「自己支配は、自分の精神と身体を自分で支配する力なんだと思う。恐怖を消すとか、急に力を増やすとかじゃない。焦ってるなら焦ってると分かった上で、自分で整える。身体も、自分の意思で一番動きやすい状態にする」

「つまり、レイン自身が使う権能?」

「ああ。フロネが俺を動かすんじゃない。俺が自分を動かす」

ミリアは興味深そうに契約紋を見る。

「変わった権能だね」

「そうかもな」

レインがフロネを見ると、彼女は静かにこちらを見つめていた。

「何か違ったか?」

「ううん」

フロネは小さく首を振る。

「レインがそう思ったなら、それでいいと思う」

それ以上は何も教えなかった。

夕暮れまでに森を抜けた三人は、街道から少し離れた場所で野営を始めた。

ミリアが集めた枯れ枝へ火をつけ、簡単なスープを作る。保存食の硬いパンも、温かい汁につければ少しは食べやすくなった。

昼間の戦闘のせいか、三人の間には疲れた沈黙が流れていた。

最初に眠ったのはミリアだった。

毛布へくるまり、荷袋を枕代わりにしている。本人は本が潰れないように工夫したと言っていたが、どう見ても寝心地は悪そうだった。

レインは焚き火の番をしながら、剣の刃を布で拭いていた。

向かい側に座るフロネは、揺れる火をじっと見つめている。

「昼のこと、気にしてるのか?」

フロネは少し迷ってから頷いた。

「ナラクが神を狙うのは普通だって、ミリアは言ってた」

「そうらしいな」

「でも、私がいなければ、レインもミリアも襲われなかったかもしれない」

「神都へ行くって決めたのは俺たちだ」

レインは剣を鞘へ戻した。

「それに、ナラクがいる世界で旅をするなら、いつかは戦う。今日じゃなくても同じだ」

フロネは返事をせず、焚き火へ小枝を一本投げた。

火の粉が小さく舞う。

しばらくして、彼女は静かに口を開いた。

「もし神都へ行って、記憶を全部取り戻して……私が本当に悪い神だったら」

レインは炎を見つめたまま答える。

「その時は、その時考える」

「怖くないの?」

「何が?」

「私の過去が」

レインは少し考えた。

怖くないと言えば嘘になる。

アルトナで見つけた古い記録には、鎖に繋がれたフロネの姿が描かれていた。

『罪』『神殿』『追放』。

残された断片が良い意味を持つとは思えない。

それでも、断片だけで今のフロネまで決めつけることはできなかった

「記録に何が書いてあっても、それだけで全部決めるつもりはない」

レインは顔を上げる。

「誰かが決めた善悪じゃない。俺が見て、俺が考える」

フロネはしばらくレインを見つめていた。

やがて、その表情が少しだけ緩む。

「ありがとう」

それだけ言って、彼女は焚き火へ視線を戻した。

夜は静かに更けていった。

翌朝。

三人が再び街道を進んでいると、後方から馬車の音が近づいてきた。

道の端へ寄る。

現れたのは、黒塗りの車体に金色の装飾が施された豪華な馬車だった。二頭の白馬が引き、扉には盾を模した紋章が刻まれている。

神都へ向かう貴族か、高位の神官だろう。

馬車が三人の横を通り過ぎる。

窓際に座っていた白髪の老人が、何気なく外へ目を向けた。

その視線がレインの右手で止まる。

契約紋。

老人の目がわずかに細くなった。

「……その紋章は」

思わず漏れた声に、レインも右手を見る。

「何か知ってるのか?」

馬車は速度を落とした。

老人は改めて紋章を見つめる。

神に仕える者として、これまで数え切れないほどの契約紋を見てきた。

火を司る神。水を司る神。戦い、豊穣、旅、癒やし。

神都に登録された紋章の多くは、形だけなら記憶している。

だが、レインの右手に刻まれた紋章だけは、どの神にも結びつかなかった。

知らない。

見落としているだけかもしれない。

地方で細々と信仰される神なら、記録が少ないこともある。

それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。

老人はすぐに穏やかな笑みを作る。

「いえ、失礼しました。珍しい紋章でしたので」

「そうか」

「旅のご無事を」

馬車は再び速度を上げ、三人を追い越していく。

老人は窓から離れ、座席へ深く腰を下ろした。

しばらく黙ったまま考えた後、御者へ声をかける。

「神都へ急いでくれ」

「承知しました」

「次の宿場には日が落ちる前に入りたい」

馬車はさらに速度を上げた。

その夜。

老人は宿の一室で、小さな祭壇を前に膝をついていた。

祭壇に置かれているのは、盾を抱いた人の姿を象った銀の像。

老人が契約する守護神の姿だった。

「我が守護神よ」

両手を組み、深く頭を垂れる。

「本日、街道にて見覚えのない契約紋を持つ者と遭遇しました」

言葉を続ける。

若い男であったこと。

同行者に神と思われる少女がいたこと。

紋章の形が、神都で見たどの記録にも当てはまらなかったこと。

報告を終えると、部屋は再び静寂に包まれた。

老人は頭を垂れたまま待つ。

やがて、祭壇の銀像から淡い光が溢れた。

胸の奥へ、直接声が響く。

――神殿へ報告せよ。

それだけだった。

理由は語られない。

だが、老人は疑問を口にしなかった。

神がおっしゃった。

それだけで十分だった。

「承知いたしました」

光が消える。

老人は立ち上がると、机へ向かい、神都の神殿へ送る報告書を書き始めた。

見知らぬ契約紋。

名も知らぬ神。

ただそれだけの報告が、やがて神都全体を動かすことになる。

そのことを、街道を進むレインたちはまだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ