第4話 神都へ
朝日が昇り、アルトナの街を黄金色に染める。
石畳には朝露が残り、開き始めた露店からは焼き立てのパンの香りが漂っていた。商人たちは眠たげな顔で木箱を並べ、通りの向こうでは荷馬車の車輪が軋んでいる。
レインは旅支度を整え、街の門の前で一度だけ振り返った。た。
「……行くか」
荷物を背負い直し、レインは門をくぐった。
町の外では、フロネが朝露に濡れた草原へ腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。
町を囲む境界のせいで、中に入ることのできない彼女は、レインが戻ってくるまでここで待っていたのだ。
「待たせた」
「ううん」
フロネは立ち上がると、服についた草を軽く払った。
その時、門の方から慌ただしい足音が近づいてきた。
「お待たせ!」
大きな荷袋を背負ったミリアが、息を切らしながら駆け寄ってくる。
背中の荷袋は本人の身体よりも幅があり、地図や分厚い本、保存食らしき包みまで隙間なく詰め込まれていた。横には革筒が括りつけられ、後ろからは丸めた毛布が半分ほど飛び出している。
「……それ全部持ってくのか」
「もちろん。旅の命だからね」
「旅じゃなくて引っ越しだろ」
「必要なものしか入れてないよ」
そう言って胸を張った直後、荷袋の重みに引かれてミリアの上体が後ろへ傾く。
レインが慌てて腕を掴むと、ミリアは何事もなかったように咳払いした。
「……今のも計算のうちだから」
「何の計算だよ」
三人はそのまま街道へ出た。
アルトナの城壁が少しずつ遠ざかっていく。
舗装された道の両側には草原が広がり、朝の風が草の波を作っていた。空は高く、雲は薄い。旅の始まりとしては申し分のない天気だった。
しばらく歩いたところで、ミリアが荷袋から古びた地図を取り出した。
「まず目指すのはここ」
歩きながら器用に地図を広げ、中央付近を指差す。
「神都アルケイア。世界中の神殿を束ねる都市だよ」
「そんなに大きいのか」
「大きいなんてもんじゃないよ。神殿の数だけでも数え切れないし、神についての古い記録も集まってる。契約紋の写しや、昔の神話、失われた祭儀の記録まで保管されてるって話」
ミリアの声は次第に弾んでいく。
「一度は行ってみたかったんだよね。一般公開されてない書庫も多いけど、閲覧申請を出せる場所もあるし。もしかしたら、アルトナでは見つからなかった記録も――」
「落ち着け」
「落ち着いてるよ」
「地図、逆さまだぞ」
ミリアは足を止めた。
一度地図を眺め、無言でひっくり返す。
「……細かいことはいいの」
「道案内を任せて大丈夫か?」
「大丈夫。たぶん」
「今、たぶんって言ったな」
二人のやり取りを横で聞いていたフロネは、地図に書かれた神都の文字をじっと見つめていた。
「神都……」
レインが視線を向ける。
「知ってるのか?」
フロネは少し考えてから首を振った。
「分からない」
「何か思い出しそうとか?」
「思い出すというより……胸の奥がざわつく感じ」
指先で自分の胸元に触れる。
「神都には何かある。でも、全部じゃない。そんな気がする」
レインはそれ以上聞かなかった。
記憶を失ったフロネにとって、理由の分からない感覚は珍しいものではない。無理に答えを求めても、彼女を困らせるだけだ。
「なら、確かめに行けばいい」
「うん」
フロネは小さく頷いた。
◇
昼を過ぎた頃、街道は緩やかな森の中へ入った。
枝葉が日差しを遮り、気温が少し下がる。土の匂いが濃くなり、道の脇には名も知らない白い花が咲いていた。
先ほどまで地図を広げていたミリアは、今度は周囲の木々をしきりに見回している。
「何かあるのか?」
「この辺り、薬草が多いんだよ。旅の途中で使えそうなものがあれば採っておこうと思って」
そう答えながら、ミリアは道端に生えた細長い葉を摘み、匂いを確かめてから小袋へ入れた。
「本当に色々持ってるんだな」
「旅に出るなら準備は大事だからね。怪我をしてから薬がないって言っても遅いでしょ」
「剣は?」
「使えない」
あまりに即答だったので、レインは一瞬言葉に詰まった。
ミリアは気にした様子もなく、背負った荷袋の横を叩く。
「でも、何もできないわけじゃないよ」
革筒のように見えた部分から取り出したのは、短く折り畳まれた小型の弩だった。木製の本体には銀色の金具が組み込まれ、弦の近くには淡く光る石が嵌め込まれている。
「対ナラク用のクロスボウ。普通の矢より威力は低いけど、先端にナラクの身体を崩しやすい鉱石が使われてる。近くで戦うのは無理でも、援護くらいならできるよ」
「使ったことは?」
「訓練では」
「実戦は?」
「ない」
「大丈夫か?」
「だから練習したんだよ」
ミリアは少し不満そうにクロスボウを戻す。
「私だって、危険な場所へ行くことはあるんだから」
その言葉に嘘はないようだった。
剣を持って前へ出ることはできない。それでも、自分にできる備えはしている。
レインは改めて、ミリアがただ勢いだけで旅についてきたわけではないと気づいた。
森の中をさらに進む。
やがてフロネが足を止めた。
「どうした?」
「……静か」
レインも周囲へ耳を澄ませる。
確かに静かだった。
風は吹いている。枝葉も揺れている。
それなのに、先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声も、草むらを走る小動物の音も消えていた。
ミリアの表情が変わる。
「レイン」
「ああ」
レインは腰の剣へ手を掛けた。
次の瞬間、左手の茂みが大きく揺れた。
黒い影が飛び出す。
人に似た胴体。獣のように湾曲した腕。表面を覆う黒い皮膚は、光を吸い込むように濁っている。
ナラクの眷属。
一体だけではなかった。
正面の木の上から一体。右手の茂みからさらに一体。
三体が同時に飛びかかってくる。
「下がれ!」
レインは正面の一体を剣で受け止めた。
金属を引っ掻くような音が森へ響く。眷属の爪が刃の上を滑り、黒い火花が散った。
腕に重い衝撃が走る。
押し返そうと力を込めた、その横を二体目が通り抜けた。
レインには目も向けない。
真っ直ぐ、フロネへ向かっている。
「フロネ!」
「ナラクの眷属は神を優先して狙うの!」
ミリアが叫びながら荷袋を地面へ下ろす。
「神が近くにいると、人間より先にそっちを襲う!そういう習性があるの!」
ミリアは素早く留め具を外し、小型のクロスボウを取り出した。弦を引き、専用の短い矢を溝へ載せる。
構える。
引き金を引いた。
鋭い音とともに矢が飛び、フロネへ迫っていた眷属の肩へ突き刺さる。
眷属の身体がわずかに傾いた。
「今!」
レインは目の前の眷属を蹴り飛ばし、その反動で身体を回す。
横薙ぎに振るった剣が、矢を受けた眷属の胸を深く切り裂いた。
黒い身体が崩れ、霧のように散っていく。
だが、残る二体は止まらない。
一体がレインへ爪を振るい、もう一体は再びフロネへ回り込もうとする。
「させるか!」
レインは剣を返した。
正面の爪を受け止める。
重い。
足が土の上を滑り、身体がわずかに後ろへ押される。
その隙に、もう一体がレインの横を抜けた。
フロネまでの距離は近い。
追おうとするが、目の前の眷属が腕を振り下ろす。
受けるしかない。
剣と爪がぶつかる。
焦りで呼吸が乱れた。
視界が狭くなる。
目の前の一体と、フロネへ迫る一体。両方へ意識を向けようとするほど、身体がうまく動かなくなる。
(間に合わない)
剣を握る手に力が入りすぎている。
肩も固い。
足の位置も悪い。
自分でも分かるのに、直せない。
その時、右手の契約紋がかすかに熱を帯びた。
レインの頭に、契約した時に知った権能の名が浮かぶ。
自己支配。
(自分を支配する力……)
フロネは何も言わない。
助けを求めることも、命令することもない。
ただ、そこにいる。
(精神も、身体も)
(俺のものだ)
レインは一度、深く息を吸った。
焦りを消そうとするのではない。
焦っている自分を認識し、その上で呼吸を整える。
胸の鼓動を数える。
一つ。
二つ。
肩の力を抜く。
強く握りすぎていた指を緩め、必要な分だけ剣の柄を握り直す。
足の裏へ意識を向ける。
身体の重心がどこにあるのか。次にどこへ動けば最も速いのか。
さっきまでばらばらだった感覚が、一つに繋がっていく。
眷属の爪が振り下ろされる。
今度は正面から受けなかった。
半歩だけ横へずれる。
爪が肩先を掠める。
そのまま身体を沈め、眷属の脇を抜けた。
目の前から敵が消えたわけではない。
だが、もう動きは見えていた。
レインは地面を蹴る。
フロネへ迫っていた眷属へ一気に追いつき、横から剣を振り抜いた。
黒い首が宙を舞う。
振り返る。
先ほどかわした眷属が、背後から飛びかかってくる。
レインは足を止めず、身体だけをひねった。
爪の軌道を見切り、剣の腹で受け流す。
大きく体勢を崩した眷属の胸へ、刃を真っ直ぐ突き込んだ。
一瞬の静寂。
黒い身体が崩れ、霧となって消える。
ミリアはクロスボウを構えたまま、目を見開いていた。
「……え?」
レインは剣を抜き、周囲を確認する。
新しい気配はない。
「終わったか」
「レインって……」
ミリアはまだ信じられないものを見るような顔をしていた。
「こんなに強かったっけ?」
「俺も、よく分からない」
レインは右手を見る。
契約紋に宿っていた熱は、もう消えていた。
ただ、さっきの感覚だけは身体に残っている。
精神を整え、身体を思い通りに動かす。
単に力が増したわけではない。
自分の中にあるものを、自分で引き出した。
それが自己支配という権能なのだと、レインは初めて自分なりに理解した。
「まだ来るかもしれない」
フロネの声で、レインは顔を上げる。
森の奥から、何か重いものが地面を踏みしめる音がした。
ずしん。
ずしん。
枝が折れ、低い唸り声が響く。
姿を現したのは、先ほどまでの眷属より一回り大きな異形だった。
太い腕。全身を覆う硬そうな黒い外殻。頭部には角のような突起が伸び、赤く濁った四つの瞳がフロネを捉えている。
「……大きい」
ミリアが息を呑む。
「群れを率いる大型個体。気をつけて。普通の眷属よりずっと強い」
「見れば分かる」
レインは剣を構え直した。
大型の眷属が地面を蹴る。
巨体に似合わない速度だった。
真正面から振り下ろされた腕を、レインは横へ跳んでかわす。
直後、地面が砕けた。
土と石が弾け、頬を掠める。
まともに受ければ、剣ごと押し潰される。
眷属は間を置かず、もう片方の腕を薙ぎ払った。
レインは身を低くする。
頭上を黒い腕が通り過ぎ、背後の木をへし折った。
「右!」
ミリアの声。
レインが飛び退くと、眷属の足が先ほどまで立っていた場所を踏み砕く。
距離を取ったミリアが矢を装填する。
引き金を引く。
矢は眷属の胸へ命中した。
だが、硬い外殻に弾かれ、浅く刺さっただけで止まる。
「硬すぎる……!」
眷属の四つの瞳がミリアへ向いた。
しかし、すぐに視線はフロネへ戻る。
神を優先して狙う習性。
大型個体も同じだった。
レインは眷属とフロネの間へ立つ。
「こいつは俺が止める。ミリアは隙を作ってくれ」
「分かった」
「フロネは下がれ」
フロネは何も言わず、数歩だけ距離を取った。
眷属が再び突進する。
レインは呼吸を整える。
先ほど掴んだ感覚を思い出す。
力を入れすぎない。
全部を一度に見ようとしない。
自分が今できる動きだけを選ぶ。
振り下ろされる右腕。
かわす。
続く左腕。
受け流す。
外殻の隙間を狙い、脇腹へ剣を滑り込ませる。
浅い。
黒い液体が散るが、致命傷には届かない。
眷属が怒りに任せて吠え、身体を大きく回転させる。
レインは吹き飛ばされ、地面を転がった。
肺から空気が抜ける。
「レイン!」
ミリアの声が遠く聞こえた。
起き上がろうとした瞬間、眷属はレインではなくフロネへ向きを変える。
ミリアが矢を放つ。
一発目は肩。
二発目は顔。
どちらも外殻に阻まれるが、四つある瞳のうち一つへ矢尻が掠った。
眷属がわずかに顔を背ける。
「こっち!」
ミリアはさらに荷袋から小さな筒を取り出し、地面へ投げた。
筒が割れ、白い煙が一気に広がる。
眷属の足が止まる。
「対ナラク用の刺激煙! 長くは効かない!」
「十分だ」
レインは立ち上がった。
痛みはある。
息も苦しい。
それでも、身体の状態は分かる。
動けないほどではない。
痛みで焦る必要もない。
自分の身体を把握し、動かせる範囲で最善を選ぶ。
煙の中へ踏み込む。
眷属の姿は見えない。
だが、足音と唸り声の位置は分かる。
右から腕が飛んでくる。
レインは剣を斜めに構え、力を正面から受けずに流した。
腕が地面へ叩きつけられる。
その瞬間、外殻の繋ぎ目が開いた。
「そこだ!」
ミリアの矢が飛ぶ。
銀色の矢尻が外殻の隙間へ突き刺さる。
眷属が大きく身を震わせた。
レインはその矢を目印に、剣を両手で握る。
一歩。
踏み込む。
刃を矢の刺さった隙間へ深く突き入れ、そのまま横へ切り広げた。
眷属の咆哮が森を揺らす。
振り回された腕がレインの肩を掠めたが、剣は離さない。
さらに一歩踏み込み、全身の力を刃へ乗せる。
黒い外殻が割れた。
刃が奥まで届く。
巨体が揺れ、ゆっくりと膝をついた。
最後に四つの瞳がフロネを捉える。
だが、その腕が届くことはなかった。
大型の眷属は黒い霧となり、風に溶けるように消えていった。
煙が薄れていく。
レインはしばらく剣を構えたまま動かなかった。
完全に気配が消えたことを確かめ、ようやく息を吐く。
「今度こそ、終わったな」
ミリアもクロスボウを下ろした。
「たぶん」
「そこでたぶんはやめろ」
緊張が解けたのか、ミリアはその場へ座り込んだ。
「だって、初めてだったんだもん。あんなに大きいの」
「初めてでよくあれだけ動けたな」
「準備してきたからね」
ミリアは少し誇らしげに言い、すぐに荷袋を開いた。
「それより肩、見せて。さっき当たってたでしょ」
レインの肩には、眷属の腕が掠めた跡が赤く残っていた。
ミリアは薬草をすり潰した軟膏と布を取り出し、手際よく傷を処置する。
「でも、本当に驚いた」
包帯を結びながら、ミリアがもう一度レインを見る。
「途中から急に動きが変わったよね。あれもフロネさんの権能?」
レインは右手の契約紋へ視線を落とした。
「たぶん」
「レインまでたぶんって言った」
「まだ分かったばかりなんだよ」
レインは少し考え、言葉を選ぶ。
「自己支配は、自分の精神と身体を自分で支配する力なんだと思う。恐怖を消すとか、急に力を増やすとかじゃない。焦ってるなら焦ってると分かった上で、自分で整える。身体も、自分の意思で一番動きやすい状態にする」
「つまり、レイン自身が使う権能?」
「ああ。フロネが俺を動かすんじゃない。俺が自分を動かす」
ミリアは興味深そうに契約紋を見る。
「変わった権能だね」
「そうかもな」
レインがフロネを見ると、彼女は静かにこちらを見つめていた。
「何か違ったか?」
「ううん」
フロネは小さく首を振る。
「レインがそう思ったなら、それでいいと思う」
それ以上は何も教えなかった。
◇
夕暮れまでに森を抜けた三人は、街道から少し離れた場所で野営を始めた。
ミリアが集めた枯れ枝へ火をつけ、簡単なスープを作る。保存食の硬いパンも、温かい汁につければ少しは食べやすくなった。
昼間の戦闘のせいか、三人の間には疲れた沈黙が流れていた。
最初に眠ったのはミリアだった。
毛布へくるまり、荷袋を枕代わりにしている。本人は本が潰れないように工夫したと言っていたが、どう見ても寝心地は悪そうだった。
レインは焚き火の番をしながら、剣の刃を布で拭いていた。
向かい側に座るフロネは、揺れる火をじっと見つめている。
「昼のこと、気にしてるのか?」
フロネは少し迷ってから頷いた。
「ナラクが神を狙うのは普通だって、ミリアは言ってた」
「そうらしいな」
「でも、私がいなければ、レインもミリアも襲われなかったかもしれない」
「神都へ行くって決めたのは俺たちだ」
レインは剣を鞘へ戻した。
「それに、ナラクがいる世界で旅をするなら、いつかは戦う。今日じゃなくても同じだ」
フロネは返事をせず、焚き火へ小枝を一本投げた。
火の粉が小さく舞う。
しばらくして、彼女は静かに口を開いた。
「もし神都へ行って、記憶を全部取り戻して……私が本当に悪い神だったら」
レインは炎を見つめたまま答える。
「その時は、その時考える」
「怖くないの?」
「何が?」
「私の過去が」
レインは少し考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
アルトナで見つけた古い記録には、鎖に繋がれたフロネの姿が描かれていた。
『罪』『神殿』『追放』。
残された断片が良い意味を持つとは思えない。
それでも、断片だけで今のフロネまで決めつけることはできなかった
「記録に何が書いてあっても、それだけで全部決めるつもりはない」
レインは顔を上げる。
「誰かが決めた善悪じゃない。俺が見て、俺が考える」
フロネはしばらくレインを見つめていた。
やがて、その表情が少しだけ緩む。
「ありがとう」
それだけ言って、彼女は焚き火へ視線を戻した。
夜は静かに更けていった。
◇
翌朝。
三人が再び街道を進んでいると、後方から馬車の音が近づいてきた。
道の端へ寄る。
現れたのは、黒塗りの車体に金色の装飾が施された豪華な馬車だった。二頭の白馬が引き、扉には盾を模した紋章が刻まれている。
神都へ向かう貴族か、高位の神官だろう。
馬車が三人の横を通り過ぎる。
窓際に座っていた白髪の老人が、何気なく外へ目を向けた。
その視線がレインの右手で止まる。
契約紋。
老人の目がわずかに細くなった。
「……その紋章は」
思わず漏れた声に、レインも右手を見る。
「何か知ってるのか?」
馬車は速度を落とした。
老人は改めて紋章を見つめる。
神に仕える者として、これまで数え切れないほどの契約紋を見てきた。
火を司る神。水を司る神。戦い、豊穣、旅、癒やし。
神都に登録された紋章の多くは、形だけなら記憶している。
だが、レインの右手に刻まれた紋章だけは、どの神にも結びつかなかった。
知らない。
見落としているだけかもしれない。
地方で細々と信仰される神なら、記録が少ないこともある。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。
老人はすぐに穏やかな笑みを作る。
「いえ、失礼しました。珍しい紋章でしたので」
「そうか」
「旅のご無事を」
馬車は再び速度を上げ、三人を追い越していく。
老人は窓から離れ、座席へ深く腰を下ろした。
しばらく黙ったまま考えた後、御者へ声をかける。
「神都へ急いでくれ」
「承知しました」
「次の宿場には日が落ちる前に入りたい」
馬車はさらに速度を上げた。
その夜。
老人は宿の一室で、小さな祭壇を前に膝をついていた。
祭壇に置かれているのは、盾を抱いた人の姿を象った銀の像。
老人が契約する守護神の姿だった。
「我が守護神よ」
両手を組み、深く頭を垂れる。
「本日、街道にて見覚えのない契約紋を持つ者と遭遇しました」
言葉を続ける。
若い男であったこと。
同行者に神と思われる少女がいたこと。
紋章の形が、神都で見たどの記録にも当てはまらなかったこと。
報告を終えると、部屋は再び静寂に包まれた。
老人は頭を垂れたまま待つ。
やがて、祭壇の銀像から淡い光が溢れた。
胸の奥へ、直接声が響く。
――神殿へ報告せよ。
それだけだった。
理由は語られない。
だが、老人は疑問を口にしなかった。
神がおっしゃった。
それだけで十分だった。
「承知いたしました」
光が消える。
老人は立ち上がると、机へ向かい、神都の神殿へ送る報告書を書き始めた。
見知らぬ契約紋。
名も知らぬ神。
ただそれだけの報告が、やがて神都全体を動かすことになる。
そのことを、街道を進むレインたちはまだ知らなかった。




