第二話 神を憎むもの
ワクワクしますよね。こういうの
湿った土の匂いが鼻をくすぐる。昨夜、神と契約を交わしたというのに、世界は何一つ変わっていないように見えた。
「本当に契約したんだよな?」
「した。」
フロネは迷いなく答える。その声だけが、この契約が夢ではないことを証明していた。
「昔、一人だけ契約したことがある。」
レインは足を止める。
「……千年以上前。」
「千年?」
「だから細かいことは覚えてない。」
「それ、参考になるのか……?」
「たぶん、ならない。」
二人は思わず苦笑する。しかし、その空気は森の異変によって一瞬で消え去った。
風が止む。葉擦れが消える。鳥の鳴き声が途絶える。静寂ではない。森全体が何かを恐れて息を潜めているような、不自然な沈黙だった。
「来る。」
黒い獣が木々を砕いて姿を現す。赤黒い瞳はフロネだけを見据えていた。
『……神。』
『殺す。』
レインは剣を抜くより先にフロネの手を引いた。
「走るぞ!」
二人は森の奥へ駆ける。背後では巨木が乾いた音を立てて折れ、破片が雨のように降り注ぐ。枝が頬を裂き、木の根が何度も足を奪おうとする。
肺は焼けるように苦しい。それでも呼吸はすぐに整った。恐怖で乱れそうになるたび、不思議と身体が正しい呼吸を思い出していく。
「これが……権能?」
「権能は魔法じゃない。」
フロネは息を乱さず答える。
「君自身を、君が扱いやすくなるだけ。」
「それだけでこんなに違うのか。」
「まだ始まり。」
眷属が大きく跳び、二人の前へ着地する。地面が揺れ、土煙が舞う。
レインは本能のまま後退しかける。しかしそこで踏み止まる。
怖い。逃げたい。膝が震える。それでも恐怖に命令されるまま動けば、次の一撃で終わる。
「怖いなら、そのままでいい。」
フロネが静かに言う。
「怖いことと、恐怖に支配されることは違う。」
その言葉を聞いた瞬間、レインは深く息を吸う。視界の端に倒れかけた巨木、ぬかるんだ地面、崖へ続く斜面が映る。
勝つ方法ではない。生き残る方法を探す。
「あそこまで誘い込む。」
「君が決めること。」
レインは頷き、眷属へ向かって石を投げつけた。黒い獣は咆哮し、その挑発に乗るように一直線に追ってくる。
黒い獣は地を蹴るたびに土を抉り、巨木を紙細工のようになぎ倒して迫ってきた。その速度は異常だった。レインは振り返るたび、距離が縮まっていることを悟る。
「追いつかれる……!」
「そのまま走って。」
フロネの声は不思議なほど落ち着いていた。
レインは荒くなりかけた呼吸を意識する。吸う。吐く。吸う。吐く。胸を焼くような苦しさは残る。それでも呼吸は崩れない。
「これが自己支配……。」
「まだ入口。」
獣の咆哮が森を震わせる。爪が背後を薙ぎ、髪が数本宙を舞った。
死が首筋を撫でる。
恐怖で足が止まりそうになる。
『逃げろ。』
本能が叫ぶ。
だが、その叫びに従うだけでは生き残れない。
フロネは前だけを見て言った。
「恐怖を消そうとしないで。」
「じゃあどうすればいい!」
「恐怖ごと前へ進む。」
その言葉を聞いた瞬間、レインはもう一度深呼吸した。
視界が少しだけ広がる。
右にはぬかるみ。左には大岩。その先には傾いた巨木。さらに奥には急斜面。
勝てる場所ではない。
だが、戦える場所は選べる。
「あの倒木まで誘う。」
「うん。」
フロネは短く頷くだけだった。
レインはわざと速度を落とした。眷属との距離が一気に縮まる。
獣は好機と見たのか、大きく跳躍する。
「今だ!」
レインは横へ転がり込み、眷属の爪を紙一重でかわす。背後で倒木が砕け散る。
まだ足りない。
獣は止まらない。
レインは石を拾い、崖とは逆方向へ投げた。
視線が一瞬だけ逸れる。
その隙に斜面を駆け上がる。
雨で柔らかくなった地面へ眷属が飛び込むと、大きく体勢を崩した。
「今……!」
レインは倒れかけた大木へ体当たりする。
みしり、と嫌な音が鳴る。
一度では倒れない。
もう一度。
肩が悲鳴を上げる。
三度目でようやく幹が傾いた。
巨木が唸りを上げて倒れ、眷属を押し潰す。
黒い獣はなおも起き上がろうともがく。
レインの足は震えていた。
剣を握る手も震えていた。
逃げたい。
それでも。
恐怖に命令されるまま背を向ければ、また追われるだけだ。
息を整える。
肩の力を抜く。
剣先だけを見つめる。
「知恵も。」
フロネが静かに呟く。
「勇気も。」
「全部、自分。」
レインは一歩踏み出した。
身体能力が劇的に上がったわけではない。
だが、震えは止まり、狙いだけはぶれなかった。
剣は黒い獣の喉元へ吸い込まれるように伸びる。
鈍い感触。
次の瞬間、眷属の身体は黒い霧へと崩れ始めた。
森に静寂が戻る。
レインはその場に膝をつき、大きく息を吐いた。
「……勝った。」
その声には安堵よりも、生き延びたという実感だけが滲んでいた。
黒い霧は風に溶けるように消え、森には静寂だけが残った。耳鳴りのように響いていた心臓の鼓動だけが、レインに自分がまだ生きていることを教えてくれる。
膝をついたまま肩で息をするレインに、フロネは静かに近づいた。
「立てる?」
「……なんとか。」
剣を杖代わりに立ち上がる。全身が重い。それでも足は震えながら前を向いていた。恐怖は消えていない。ただ、それに飲まれてもいなかった。
「これが自己支配……なのか。」
「ほんの入口。」
フロネは倒れた巨木へ視線を向ける。
「自分を支配する力は、筋力を増やすためだけじゃない。呼吸も、判断も、勇気も、自分のもの。」
レインはその言葉を反芻する。力を得たのではない。恐怖の中でも『選ぶ』余裕を得たのだ。
「神殿は、どうして神を守るんだ。」
その問いに、フロネは少しだけ黙り込んだ。
「神が死ぬと、権能は世界に溢れる。」
「溢れる?」
「本来、神は権能の器。器が壊れると、権能は契約者へ流れ込む。」
「それで……。」
「壊れる。」
短い言葉だった。しかし、その重さは十分すぎるほど伝わった。
「だから神殿は神を守る。神を守ることは、人を守ることでもある。」
レインは空を見上げる。先刻まで無印と蔑まれていた自分が、今は神と並んでたっている。その事実だけでも十分に異常だった。
二人は、再び歩き出す。
まだ知らない。これは一体の眷属との戦いではなく、世界そのものが静かに軋み始める前触れだった。




