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忘却の神話 ~忘れられた神と青年の記録~  作者: 浦嶋亀タロー


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第一話 神がいる世界

 この世界では、神も死ぬ。

 人に忘れられ、信仰を失い、少しずつ姿を消していく神もいれば、まだ大勢の信者を残したまま、何者かに命を断たれる神もいる。 

 人々は神を敬う。

 神を守り、神に祈り、神の名を後世へ残そうとする。

 神が人を救うから。

 そして神が死ねば、人もまた無事では済まないから。

 この世界に、神は必要だった。

 少なくとも、誰もがそう信じている。

 ◇

「本日の実りも、デメテル様のお導きによるものです」

 街の中央広場に、神官の声が響いた。

 積み上げられた麦束の前で、農夫たちが一斉に頭を下げる。

 広場の奥には、黄金色の穂を抱く女神像が立っていた。


 豊穣神デメテル。


 遠い南方にある大神殿を本拠とし、この地方一帯で広く信仰されている女神だ。

 実物を見たことがある者は、この街にはほとんどいない。

 それでも人々は毎朝祈る。

 雨が降れば神のおかげ。

 作物が育てば神のおかげ。

 子どもが無事に生まれれば神のおかげ。

 不作になれば祈りが足りなかったから。

 疫病が流行れば、人々の信仰が弱まったから。

 そしてナラクが現れれば、神の加護から外れた者たちが悪いのだと神官は説く。

 便利なものだ、と俺は思う。

 何が起きても神の名前を出せば、話がまとまる。

「また、その顔してる」

 隣にいたミアが小声で言った。

 栗色の髪を肩の辺りで切りそろえた、よく笑う少女だ。胸元には、銀色の羽を模した小さな飾りを下げている。

 治癒神アスクレピオスの紋章だ。

「どんな顔だよ」

「神官様に喧嘩を売る前の顔」

「売らない」

「本当?」

「値段次第だな」

「やっぱり売る気じゃん」

 ミアが呆れたように息を吐く。

 広場では、収穫を終えた農夫たちが順番に神官から祝福を受けていた。

 その中に、腰の曲がった老人が一人いた。

 春先から毎日、夜が明けるより早く畑へ出ていた男だ。

 大雨の日に崩れた水路を直したのも、日照りの日に井戸から何十往復も水を運んだのも、俺は知っている。

 神官がその肩へ手を置いた。

「デメテル様の慈悲に感謝を」

「はい。今年も女神様のおかげで、立派な麦が採れました」

 違うだろ。

 その麦を育てたのは、あんただ。

 泥にまみれて働いたのも、腰を痛めても畑に出続けたのも、神じゃない。

 目の前にいる、その皺だらけの老人だ。

 俺が小さく舌打ちすると、ミアがこちらを見た。

「また神様の悪口?」

「言ってない」

「顔が言ってる」

「だったら俺じゃなく、顔に注意してくれ」

「そんなことばかり言ってると、今日こそ本当にどの神様からも選ばれないよ」

「それでいい」

 即答すると、ミアは少しだけ困った顔をした。

 今日、俺たちは十五歳になった者が神との契約を結ぶ《選神の儀》を受ける。

 人が神を選び、神もまた人を信者として選ぶ。

 双方の意思が一致すれば契約は成立し、人間は神の権能の一部を借りられるようになる。

 炎神と契約すれば、炎を操る力。

 風神と契約すれば、風を呼ぶ力。

 治癒の神と契約すれば、傷を癒やす力。

 授かる力の大きさには個人差がある。

 ただし、どれほど優れた契約者でも、人間が扱えるのは神の権能の一部にすぎない。

 ごくまれに、神の権能を限界まで引き出せる器を持つ人間が生まれるという。

 人々は彼らを《神覚者》と呼ぶ。

 歴史上に名を残した英雄の多くが神覚者だったと伝えられているが、俺にとっては遠い昔話だ。

 大切なのは、今日の儀式で契約できるかどうか。

 契約を結べれば、権能に応じた仕事へ就ける。

 強力な権能なら騎士や冒険者になれる。

 魔物やナラクの眷属を討つ討伐隊に入り、名を上げることだってできる。

 反対に、どの神とも契約できなかった者は《無印》と呼ばれる。

 権能を持たない。

 神に選ばれなかった。

 その事実だけで、まともな職に就くことすら難しくなる。

「レインは、どの神様と契約したいの?」

「誰とも」

「またそれ」

「事実だ」

「でも、契約できた方がいいに決まってるよ。ナラクが出たときだって、自分を守れるかもしれないし」

「自分を守るために、会ったこともない神へ頭を下げろって?」

「頭を下げるんじゃなくて、信じるの」

「会ったこともない相手を?」

 ミアが言葉に詰まる。

 少し意地悪な言い方だったかもしれない。

 だが、どうしても理解できなかった。

 姿を見たこともない。

 言葉を交わしたこともない。

 何を考えているのかも知らない。

 それなのに名前とご利益だけを聞いて、その神を一生信じると誓う。

 俺には、そんなことはできない。

「神を信じる人間を馬鹿にしてるわけじゃない」

「そう見えるけど」

「でも、考えることまで神に任せるのは違うだろ」

 ミアはしばらく黙ったあと、広場の女神像を見上げた。

「私はアスクレピオス様と契約したい」

「治癒神か」

「うん。お母さんみたいに、傷ついた人を助けられるようになりたい」

「それはいいんじゃないか」

「否定しないんだ」

「お前が決めたことだろ」

 ミアが目を丸くした。

 やがて、少しだけ笑う。

「レインって、神様は嫌いなのに、人が神様を信じるのは止めないよね」

「俺が決めることじゃないからな」

「変なの」

「お前に言われたくない」

 広場の鐘が鳴った。

 選神の儀が始まる合図だ。

 神殿へ向かう同年代の少年少女たちが、一斉に歩き始める。

 期待に満ちた顔。

 緊張した顔。

 何年も前から信仰する神を決めている者も多い。

 俺だけが、その流れから少し外れているように思えた。

 だが、不安はなかった。

 神に選ばれなくても構わない。

 俺は俺の力で生きる。

 その考えは、昔から変わっていない。

 ◇

 大神殿は、街のどこからでも見えるほど巨大だった。

 白い石柱が何十本も並び、その一本一本に異なる神の紋章が刻まれている。

 雷霆を握るゼウス。

 槌を掲げるトール。

 太陽を背負うアマテラス。

 知恵と戦いを司るアテナ。

 神話も土地も異なる神々が、祀られていた。

 中央には、天へ手を伸ばす人間と、その手を取る神を描いた彫像がある。

 その下には、神殿の教えが刻まれていた。

 ――人は神を信じ、神は人を導く。

 俺はその文章から目を逸らした。

 正面の壁には、古い壁画が飾られている。

 黒い雲。

 枯れ果てた大地。

 骨のように痩せた人々。

 そして、そのすべてを見下ろす巨大な影。

 《飢餓のナラク》を描いたものだ。

 百年以上前、一国を滅ぼしかけた厄災。

 その際、複数の神と神覚者たちが共闘し、ようやく討伐したと教えられている。

 ナラクは人類の敵。

 発見すれば神殿へ報告し、契約者たちが討つ。

 神々の意見が食い違うことはあっても、ナラクの討伐だけは全人類に共通する使命だった。

「次、ミア・アルネル」

 名を呼ばれたミアが、祭壇へ向かった

 神殿の中央には、淡い光を放つ円形の魔法陣が描かれている。

 その周囲には神官たちが立ち、上段には選神の儀を見届けるための神々が数柱座っていた。

 獣の皮をまとう狩猟神。

 大槌を抱えた鍛冶神。

 蛇の巻きついた杖を持つ、治癒神アスクレピオスの眷属神。

 名高い大神本人が各地の儀式へ現れることは少ない。

 多くの場合、その眷属や神官を介して契約は結ばれる。

 ミアが魔法陣の中央に立つ。

 神官が問いかけた。

「汝が信じる神を、その心に描きなさい」

 ミアが胸元の紋章を握る。

 次の瞬間、魔法陣から柔らかな白い光が立ち昇った。

 神殿内にどよめきが起こる。

「治癒神アスクレピオスが、汝の信仰に応えた」

 ミアの手の甲に、蛇の巻きついた杖を模した紋章が浮かぶ。

「契約は成立した。授かりし権能は――《小治癒》」

 拍手が起こった。

 ミアは自分の手を見つめ、心の底から嬉しそうに笑った。

 俺も素直に拍手をした。

 彼女が自分で望み、選び、手に入れた力だ。

 それを否定する理由はない。

 その後も儀式は続いた。

 小さな炎を授かる者。

 獣の脚力を得る者。

 土壌の状態を読み取る力を得る者。


 やがて俺の名が呼ばれる。

「レイン・クロード」

 神殿内が、わずかにざわついた。

「あれが神嫌いの」

「本当に儀式を受けに来たのか」

「契約する神なんているのか?」

 聞こえている。

 だが、わざわざ反応するほどのことでもない。

 俺は祭壇へ上がり、魔法陣の中央へ立った。

 正面の神官は、あからさまに不機嫌そうな顔をしていた。

「レイン・クロード。汝はこの場が、神々への敬意によって成り立っていることを理解しているか」

「一応は」

「一応ではない」

「理解しています」

 答えると、神官は鼻を鳴らした。

「汝が信じる神を、その心に描きなさい」

 俺は目を閉じた。

 当然、誰の姿も浮かばない。

 ゼウス。

 トール。

 アテナ。

 アマテラス。

 アスクレピオス。

 どれも名前と逸話を知っているだけの相手だ。

 信仰とは、もっと個人的なものではないのか。

 少なくとも、儀式で選べと言われて選ぶものではない。

 沈黙が続く。

 魔法陣は光らない。

 神官のため息が聞こえた。

「何をしている。いずれかの神へ祈りを捧げなさい」

「信じていない神に祈るんですか?」

「契約を望むなら当然だ」

「望んでません」

 神殿内が静まり返った。

 神官のこめかみが引きつる。

「では、なぜここへ来た」

「十五歳になった者は全員参加だと聞いたので」

「神々を愚弄するつもりか!」

 怒声が響いた。

 魔法陣の周囲にいた神官たちが、一斉に俺を睨む。

 上段にいた神々の反応はさまざまだった。

 不快そうに眉を寄せる者。

 面白そうにこちらを見る者。

 最初から関心すら示さない者。

 俺は目の前の神官を見返した。

「愚弄してません」

「ならば祈れ!」

「信じてもいないのに祈る方が、よほど失礼じゃないですか」

「貴様……!」

「もうよい」

 上段から声がした。

 獣の皮をまとった狩猟神が、退屈そうに頬杖をついている。

「その者に信仰の意思はない。神もまた、その者を望んではいない」

 神官が頭を下げる。

「しかし――」

「契約は双方の意思によって成る。それを曲げれば、選神の儀そのものを否定することになるぞ」

 神官は口を閉ざした。

 狩猟神は俺へ目を向ける。

 その視線に温かさはない。

 ただ、獲物の性質を見極めるような目だった。

「契約は不成立だ。それだけのこと」

 その言葉と同時に、祭壇の光が完全に消えた。

 神官が冷たい声で告げる。

「レイン・クロード。汝を選ぶ神は存在しない」

 周囲から小さな笑い声が聞こえた。

「やっぱりな」

「神に見放されたんだ」

「無印か」

 俺は祭壇を降りた。

 別に構わない。

 最初から望んでいなかった。

 それなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。

 神に選ばれなかったことが悔しいのではない。

 俺をろくに見てもいない者たちに、価値を決められたことが気に入らなかった。

 神に選ばれない人間。

 ただそれだけで、周囲は俺を失敗作のように見る。

「レイン」

 儀式を終えたミアが駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

「何が」

「契約……」

「最初からする気なかっただろ」

「でも」

「お前は契約できたんだ。喜んどけ」

 ミアは何か言いたそうにしていた。

 だが、俺はそれ以上話さず、神殿を出た。

 白い石段を降りる。

 頭上では、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。

 ◇

 家へ帰る気にはなれなかった。

 無印になった者を街の人々がどう見るのか、俺は知っている。

 哀れみ。

 嘲笑。

 あるいは、神から見放された不吉な人間を見るような目。

 だから日が落ちるまで、街の外を歩くことにした。

 北門を抜け、森へ続く道を進む。

 この辺りには弱い魔物が出るが、街からそれほど離れなければ問題ない。

 子どもの頃から何度も来た場所だ。

 森の中は静かだった。

 枝葉の隙間から夕日が差し込み、地面に長い影を作っている。

 俺は落ちていた枝を蹴り飛ばした。

「汝を選ぶ神は存在しない、か」

 誰にも聞かれないよう、小さく呟く。

 別に選ばれたくなどなかった。

 それでも、あの言い方は腹が立つ。

 まるで神に選ばれなければ、人として価値がないかのようだった。

「神がそんなに偉いのかよ」

 返事はない。

 当然だ。

 ところが、少し歩いたところで妙な光が見えた。

 木々の奥。

 獣道から外れた場所に、淡い青白い光が揺れている。

 魔物かもしれない。

 あるいはナラクの眷属が放つ瘴気かもしれない。

 そう思いながらも、俺は光の方へ足を向けた。

 草をかき分け、斜面を下る。

 その先には、小さな祠があった。

 屋根は半分崩れ、柱には蔦が絡みついている。

 石造りの祭壇には苔が生え、何を祀っていたのかを示す紋章すら削れて見えなくなっていた。

 長い間、誰も訪れていないのだろう。

 そして、その祭壇の上に一人の少女が座っていた。

 歳は俺と同じくらいに見える。

 薄い銀色の髪が腰まで伸び、風もないのに静かに揺れている。

 白い服はところどころ汚れ、素足には小さな傷がいくつもあった。

 神殿で見た神々のような豪華さはない。

 むしろ、何日も森をさまよっていた旅人のように見えた。

 ただ、その身体はわずかに透けていた。

「……誰だ」

 声をかけると、少女がゆっくり顔を上げた。

 灰色の瞳が俺を映す。

「人間」

「見れば分かる」

「そう」

「お前は誰だって聞いてる」

 少女は少し考え込んだ。

 自分が誰なのかを思い出そうとしているようにも見えた。

「神」

 やがて、少女は言った。

「……は?」

「私は、神」

 今日一日で、もう神は見飽きている。

 だが、目の前の少女は神殿にいた神々とはまるで違う。

 神威と呼ばれる圧力もなければ、眷属や信者もいない。

「神には見えないな」

「よく言われる」

「神なら、こんなところで何してる」

「消えるのを待ってる」

 あまりにも淡々とした答えだった。

「消える?」

「信仰がないから」

 少女は自分の透けた手を眺める。

「神は、信仰によって存在する。誰かが名前を呼び、誰かが祈り、誰かが必要としてくれることで、この世界に形を保てる」

「それは知ってる」

「信者がいなくなれば、弱くなる。姿を保てなくなって、最後には消える」

「じゃあ、お前は……」

「ノラガミ」

 その言葉を聞き、俺は無意識に一歩下がった。

 ノラガミ。

 信者をすべて失った神。

 人々から忘れられ、神殿からも居場所を失った存在。

 子どもの頃から何度も聞かされてきた。

 ノラガミには近づくな。

 言葉を交わすな。

 決して信仰してはならない。

 信仰に飢えたノラガミは人を惑わせ、無理やり契約を結び、魂を奪うことさえある。

 中には消滅への恐怖から正気を失い、人間を襲う神もいるという。

 そのため、発見されたノラガミは神殿へ報告することが義務づけられている。

 危険だと判断されれば、神官や契約者によって討伐される。

「怖い?」

 少女が尋ねた。

「少しは」

「正直」

「人を襲うのか」

「襲わない」

「無理やり信者にする?」

「しない」

「魂を奪ったりは」

「そんなことできない」

「じゃあ、神殿で教わった話は何なんだ」

「そういうノラガミもいる」

 少女は否定しなかった。

「信仰を失うのは、神にとって死ぬのと同じ。怖くなって、何でもする神もいる」

「お前は怖くないのか」

「怖い」

 即答だった。

 灰色の瞳に、ほんの少しだけ感情が揺れる。

「消えたくはない」

「なら、信者を探せばいいだろ」

「探した」

「見つからなかった?」

「信じてもらえなかった」

「何の神なんだ」

 少女は少しだけ口を閉ざした。

 やがて、静かに答える。

「自分を律すること」

「……地味だな」

「うん」

 本人も否定しなかった。

「火を出せるわけでもない。雨を降らせるわけでもない。傷を治すことも、豊作を約束することもできない」

「それじゃ信者も集まらないか」

「人は、欲しいものをくれる神を信じるから」

 その声には、恨みも怒りもなかった。

 ただ、事実を述べているだけだった。

 だからこそ、少し胸に残った。

 神というものは、もっと傲慢な存在だと思っていた。

 自分を信じて当然だと思い、人間へ祈りを求める。

 神殿にいた神々も、俺を選ばなかったことを少しも気にしていなかった。

 だが、この少女は違う。

 消えることを恐れているくせに、それでも俺へ手を伸ばそうとはしない。

「お前、名前は」

 少女がこちらを見る。

「本当の名前は長いから」

「じゃあ短くしろ」

「……フロネ」

「本名か?」

「今は、そう呼んで」

 妙な答えだった。

 だが、追及する気にはならなかった。

「フロネ。俺はレイン」

「知ってる」

「なんで」

「神殿の声が、少しだけ聞こえたから」

 今日、俺を選ぶ神はいないと告げられた声。

 その言葉を思い出し、眉をひそめる。

「笑いたきゃ笑え」

「笑わない」

「神に見放された人間だぞ」

「違う」

 フロネは静かに首を振った。

「君が、神を選ばなかった」

 俺は言葉を失った。

 今日、誰もそんなふうには言わなかった。

 神官も。

 周囲の人間も。

 神々さえも。

 俺は神に選ばれなかった。

 神に見放された。

 価値がなかった。

 誰もがそう決めつけた。

 だが、この消えかけたノラガミだけは、俺が選ばなかったのだと言った。

「……変な神だな」

「よく言われる」

 そのとき、フロネの身体が大きく揺らいだ。

 輪郭が薄れ、向こう側の祭壇が透けて見える。

「おい」

「もう時間みたい」

「消えるのか」

「たぶん」

 フロネは祭壇から降りた。

 細い足が地面に触れる。

 だが、その身体は今にも夜の闇へ溶けてしまいそうだった。

「契約すれば助かるのか」

 俺が尋ねると、フロネはすぐには答えなかった。

「たぶん」

「なら、どうして言わない」

「何を?」

「契約してくれって」

「君は、神が嫌いなんでしょう」

「そうだけど」

「なら、私が頼んでも困る」

「消えるんだぞ」

「それでも、君が決めること」

 フロネは穏やかな顔で言った。

「信仰は、奪うものじゃないから」

 神なら導け。

 神なら命じろ。

 神なら信じさせろ。

 この世界の誰もが、そう思っている。

 だが、目の前の神は何も命じない。

 助けを求めることすらしない。

 消えかけているくせに、俺の意思を優先する。

「……権能は」

「え?」

「お前と契約したら、どんな力を使える」

 フロネはわずかに目を見開いた。

 そして、短く答える。

「自己支配」

「それだけ?」

「それだけ」

「どんな能力だ」

「自分を支配する能力」

「説明になってない」

「それ以上はいえない」

 頼りない。

 派手さもない。

 何ができるかも分からない。

 今日、神殿で見た神々と比べれば、あまりにも弱そうな神だった。

 それでも。

 俺を価値のない人間と決めつけなかった。

 神を信じないという俺の考えを、否定しなかった。

 そして、消える間際まで俺の選択を奪わなかった。

「一つ確認する」

「何?」

「契約したら、お前を崇めないといけないのか」

「崇めなくていい」

「毎日祈るとか」

「必要ない」

「命令には従えと?」

「命令しない」

「じゃあ、何を求める」

 フロネは少し考えた。

「君が、自分で選ぶこと」

 その答えを聞いて、俺は手を差し出した。

「なら契約する」

「……神が嫌いなのに?」

「今も嫌いだ」

「私は神」

「知ってる」

「矛盾してる」

「神だから契約するんじゃない」

 俺は、透け始めた彼女の手をつかんだ。

 触れた手は冷たかった。

「お前が、お前だから選ぶ」

 フロネの灰色の瞳が、大きく揺れる。

「それでいいの?」

「俺が決めた」

 しばらくの沈黙。

 やがてフロネは、ほんの少しだけ笑った。

「うん」

 握った手の間から、淡い光があふれ出す。

 光は腕を伝い、胸の奥へ流れ込んだ。

 熱くはない。

 痛くもない。

 ただ、自分の身体の隅々まで、初めて意識が届いたような奇妙な感覚がした。

 心臓の鼓動。

 肺へ流れ込む空気。

 指先を巡る血。

 まぶたの動き。

 筋肉の収縮。

 まるで今まで他人のものだった身体が、ようやく自分のものになったようだった。

 右手の甲に、見たことのない紋章が浮かび上がる。

 円の中に一本の縦線。

 それを囲むように、途切れた輪が描かれていた。

 フロネの輪郭が、少しずつ濃くなっていく。

 消えかけていた身体が、確かな形を取り戻していく。

「契約、成立」

 フロネが呟いた。

「これで俺は、お前の信者か」

「たぶん」

「たぶん?」

「ひさしぶりだから、よく分からない」

「神だろ、お前」

「ノラガミだから」

 まったく頼りにならない。

 だが、不思議と後悔はなかった。

 その夜。

 神を嫌う少年は、一柱の神を選んだ。

 誰からも選ばれなかった少年と。

 誰からも信じられなくなった神。

 二人の契約を知る者は、まだどこにもいない。

 この出会いが、やがて神と人間の関係そのものを揺るがすことになるなど。

 このときの俺たちは、まだ何も知らなかった。

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