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暴走列車、交差する思惑

 ――シグルは、躊躇なく線路へ飛び降りた。

 着地と同時に、背部ユニットが唸る。

 金属が擦れ、機構が解放される。

 次の瞬間、パンタグラフが展開された。


 ばち、と火花が散る。

 架線を捉えた感触――電流が、流れ込む。

 遅延は、ない。

 全身の駆動系が一斉に目を覚まし、筋繊維のような精密モーターが唸りを上げた。


 脚部パーツが枕木を鋭く蹴り抜く。

 踏み込む。沈む。

 それでも、次の一歩で強引に引き戻す。

 加速。


 冷えきった春先の朝。

 吐き出した息は白く、すぐに風に裂かれて消えた。

 すぐ脇の道路から、甲高いクラクションが鳴り響く。

 異常に気づいた軽トラックが、騒ぎ立てている。

 視界の端で、人影が立ち止まる。

 ――遅い。


 時刻は午前八時過ぎ。

 ジャンクション駅へ向かうこの区間は、これから一気に人で膨れ上がる。

 止めるなら、今しかない。


 足元に広がるのは、霜を含んだ枕木と、粗く敷き詰められた砕石。

 踏み込むたびに、わずかに沈む。

 粒の細かいバラストが、力を逃がす。


「……チッ」


 舌打ちが漏れる。


「バラストの目が細けぇ……!」


 踏み込みが、わずかに鈍る。


「これじゃ、スピードが乗らねぇ!」


 それでも加速をやめない。

 砕石を蹴り上げるたび、火花のように飛び散る。

 線路の上を、一直線に駆け抜ける。

 その先――暴走する列車が、確かに“逃げている”。


 灰色の瞳が、その後尾を捉える。

 距離は、まだある。

 唸るような走行音が空気を震わせ、朝日に溶け込むそのシルエットがさらに加速していく。


「――おい、セイジ!」


 通信機へ、声を叩きつける。


「先行列車、次の駅に入ってるよな!?」


 返答は、一拍遅れて飛び込んできた。


「っ、それより先に輸送司令に上げたのか!? 防護無線は!?」


 セイジの声が、わずかに上ずる。

 混乱の中でも、口は訓練通りに動く。

 だが声の端に、拭いきれない未熟さが滲んでいた。


 それも当然だ。

 ダイヤ通りなら、すでに列車が入っている。

 逃げ場はない。

 このまま制御を失った列車が突っ込めば――“正面衝突”だ。

 

 シグルは、わずかに口元を歪める。


「もう、駅の緊急停止ボタンは押されてる――が、反応がねぇ」


「なんだって……!?」


 息を呑む音が、そのまま通信に乗る。


「落ち着け、セイジ」


 即座に叩き落とす。


「アカリが今、輸送司令と繋げてる。お前の役目は――」


 一歩、踏み込む。砕石が弾ける。


「俺の視界になれ」


 短い。だが、それで十分だった。

 命令ではない。

 “そうしろ”と身体に刻まれる類の声だ。


 暴走列車が、前方で唸る。

 嘲るように、さらに速度を上げる。

 パンタグラフが火花を散らし、先頭はカーブの向こうへ消えかけていた。


「……ッ!」


 舌打ちを噛み殺す。


「俺は勾配線区用だぞ……!」


 踏み込みが、ほんのわずかに鈍る。


「高速運転なんか、出来るか……ッ!」


 それでも止まらない。

 止めない。


 “追いつけない”と、“諦める”。

 その二つが同じ意味になる瞬間だけは――絶対に認めない。


 脚が悲鳴を上げる。

 それでも、前へ。

 距離は、まだ詰められる。


 暴走列車が向かう先――第2閉塞。

 シグルの視界、その遥か前方。

 信号灯が、見える。


「……あの信号……」


 一瞬、言葉が止まる。


「掲示がぶっ壊れてる……?」


 違う。

 直感が、それを否定する。


「――いや……違うな」


 目を細める。

 本来、あり得ない。

 閉塞信号は、誤作動すれば必ず“赤”に落ちる。

 それが鉄則だ。


 だが――“それすら起きていない”。

 光は、意味を失っている。

 信号として、機能していない。


「制御が……死んでる」


 短く、吐き捨てる。

 その瞬間。


 ――キィィィィィィイッ!!


 無線機が、悲鳴を上げた。耳を劈く金属音。

 空気そのものが裂けるような、鋭いハウリング。


 思わず顔をしかめる間もなく、“声”が割り込んでくる。


『防護無線? 輸送指令?』


 軽い。

 場違いなほどに。


『なーにそれ、無効に決まってるじゃん?』


 笑いが混じる。

 耳障りなほど、楽しそうに。


『安心しなって。次の列車も、ダイヤ通りにちゃんと駅に停車してるよ』


 その一言が、空気を凍らせる。


 冗談ではない。

 だが、冗談のような軽さで告げられる。


 声は、確かに人のものだ。

 なのに――どこか決定的に、ズレている。


 温度がない。

 生きているはずの響きが、どこにもない。


 シグルの視界が、さらに先を捉える。

 遠く――ホームの影。

 そこに、立っている。黒いボロを纏った人影。


 ノワール。


「……てめぇか」


 低く、吐き捨てる。

 応じる声は、軽い。


『さっきから無駄に叫んでるけどさー』


 笑いを含んだまま、続ける。


『無線も、信号も、踏切も……全部、俺の“管轄内”』


 一拍。


『お前らの会話も、ぜーんぶ筒抜け』


 言葉が、やけに近い。


『こうして割り込めるのもさ――鉄道が“閉じたネットワーク”だからだよねー』


 その声に重なるように。

 視界の端、踏切が入る。

 だが――違和感。


 遮断機は、上がったまま。

 警報音も、鳴らない。

 通行を遮るものが、何もない。


 それでも。

 警報灯だけが、空虚に回り続けている。

 意味を失ったまま。


「……なんで……動作してないんだ……!?」


 セイジの声が、無線越しに裏返る。


「信号は青、踏切は開いたまま……制御が……完全に狂ってる……!」


 言いながら、自分で否定したくなるような内容。

 だが現実は、目の前にある。


 同時に――「だめっ!」


 アカリの声が割り込んだ。


「輸送司令、応答不能! 緊急停止ボタンも反応しない――完全に遮断されてる!」


 言い切る前に、息が詰まる。


「なんだと……」


 シグルの声が、低く落ちる。

 そこへ、ねっとりと絡みつく声。


『そうそう』


 楽しげに、肯定する。


『先行の列車も、ちゃんと駅に止まってるぜ。“ダイヤ通り”に、な』


 わざとらしく区切る。

 言葉のひとつひとつが、神経を逆撫でする。


『いいだろ? この状況』


 笑う。


『どっちが先に“動く”か――』


 一拍。


『前か。後ろか』


 含みを持たせたまま、続ける。


『それとも――先に潰れるのは、人間か』


 軽い。

 あまりにも軽い。


『……ああ、言い忘れてた』


 思い出したように、付け足す。


『ブレーキ? 効かねぇよ』


 くす、と喉の奥で笑う。


『止めたきゃ――力づくでやりなよ?』


 その瞬間。


 轟音が、すべてを塗り潰す。

 暴走列車が、踏切へと迫る。


 枕木が、視界を裂くように流れる。

 砕石が風を巻き上げ、弾丸のように跳ねる。


 距離が、消えていく。


 シグルは、ほんの一瞬だけ間を測り――踏み切った。


「オラァッ!」


 重心を落とす。

 脚部モーター、最大出力。

 地面が弾ける。


 次の瞬間、身体が空へ抜けた。

 狙うのは――最後尾、客車の屋根。


 風圧が一気にぶつかる。

 軌道がわずかに流れる。


 それでも、届く。

 指先が鋼板の縁を捉えた。


 ――掴む。

 全身を引き上げる。

 その刹那、列車がカーブへ突っ込む。

 車体が軋み、遠心力が容赦なく横へ引き剥がす。


 握力が悲鳴を上げる。

 だが、離さない。


 屋根のわずかな突起に足をかけ、ねじ伏せるように体勢を立て直す。


 ――乗った。

 背中のハッチがわずかに開く。

 パンタグラフが浅く伸び、架線をかすめる。

 受けた電流が、冷却系を押し上げ、駆動ユニットに余裕を作る。


 持つ。

 まだ、いける。

 シグルはそのまま走り出した。

 屋根の上。


 足元には通風機――ベンチレーターが等間隔に並ぶ。

 一つ一つを踏み台に、リズムを刻む。


 風が刃のように叩きつける。

 振動が足場を揺らし、視界に錆びた塗膜や砂塵が跳ね上がる。


 それでも――前へ。

 この先にいる。

 “あの機関者”が。


 止める手段は、もうこれしかない。


『動かずに、その場でお待ちください!』


 車内アナウンスが、必死に繰り返される。

 車掌室からだ。


 その声に重なるように、ざわめきが膨らむ。

 床越しに伝わる振動と、抑えきれない不安。

 誰かが立ち上がりかける。誰かが制止する。


 ――遅い。

 屋根の上にいるシグルには、もう届かない。

 風。

 振動。

 それだけが、世界のすべてだった。


「――ッ……!」


 列車が再びカーブへ叩き込まれる。

 身体が、横へ持っていかれる。

 脚部サスペンションが悲鳴を上げる。

 駆動モーターに、過負荷。

 それでも、止まらない。


 視界の端に、赤黒く錆びたベンチレーター。

 次の一歩。それを踏む。

 ぐらつく。持っていかれる。

 だが、押し戻す。重心を、前へ。


「あと……どれくらいだ」


 短く、吐く。

 無線が震える。


『車両は六両編成……!』


 セイジの声。

 さっきよりは、持ち直している。


『でも、その屋根から機関者までは距離がある……! 追いついても、“接触”できる保証は――』


「黙ってろ!」


 叩き切る。

 風を裂いて、声が飛ぶ。


「間に合うかどうかじゃねぇ!」


 一歩。

 さらに、踏み込む。


「“そこしかねぇ”んだよ!」


 足場が揺れる。

 風が叩きつける。

 それでも。


「止める方法が――!」


 そのときだった。

 風の裂け目に、別の声が混じる。


『――お前は、なぜそこまでやるのさ?』


 ノワール。

 さっきまでの嘲りとは違う。どこか、値踏みするような響き。


『お前一人が壊れたって、世界は回る』


 淡々と、事実だけを並べる。


『なぜそこまで他人のために自分を削れる?』


 一拍。


『……それとも、何か見返りでもあるのかよ』


 風が叩きつける。


 シグルは、答えない。

 ただ――走る。足場が揺れる。

 それでも、前へ。

 やがて、唇がわずかに動いた。


「……理由、か」


 吐き出すように。

 きれいな言葉じゃない。


「別に、立派なもんじゃねぇ」


 一歩。

 踏み込む。


「放っといたら、目の前で死ぬだろ」


 短く、言い切る。

 そして、ほんの少しだけ声が落ちる。


「……それを見過ごせるほど、器用じゃねぇんだよ」


 風に紛れる。

 だが、確かに届く。


「もう誰も犠牲にしたくねぇ――」


 それは、答えじゃない。

 理屈でもない。

 ただの、意地だ。

 それでも――揺るがない。


 暴走列車はなおも速度を上げる。

 前方には先行列車――ここで止まらなければ――衝突は、不可避。


 だが、この屋根の上には。

 “止めるために走る者”がいる。

 その身を駆動させているのは、電力でも油圧でもない。


 ――過去だ。

 取りこぼしたもの。

 止められなかったもの。

 それらすべてを、引きずったまま。

 それでも、前へ進む。


 そして――風の中に、異物が混じった。


「ッ――!」


 屋根の先。黒が、蠢く。

 影の塊が、ゆっくりと人の形を成し――“立つ”。

 夜の底から這い出したような歪んだシルエット。

 黒いボロ。フードの奥で、裂けたような唇が嗤う。


「ようこそ、舞台袖へ。待ってたよ」


 その声は、無線ではない。

 風に乗り、直接、耳へ滑り込む。

 ノワール。そう名乗った存在が、そこに“いる”。


「……俺も、すっかり“顔”が割れてんだな」


 シグルは迷わない。

 ベンチレーターを飛び越え、前へ。

 金属屋根が軋む。風がコートを叩く。

 だが、ノワールは動かない。

 ただ、薄ら笑いを浮かべたまま――そこに立つ。


「乗客まで巻き込む必要がどこにある」


 一歩、詰める。


「答えろ!」


 怒声が風を裂く。

 ノワールは首を傾け、愉しげに肩をすくめた。


「巻き込んだ? まさか」


 くす、と笑う。


「“招いた”だけさ」


 一歩も動かない。


「最前列で――終演を見届けてもらうためにね」


 その意味を掴むより早く。

 ノワールの腕が、すっと持ち上がる。

 黒が、伸びる。


 ――鎌。

 黒光りする巨大な刃。

 柄には赤黒い導線が絡みつき、脈打つように微かに揺れる。

 三日月状の刃が、風を裂いた。


「君は俺で、僕はお前だ」


 軽い口調。だが、その一言が。

 シグルの内側に、食い込む。


「機関者でも、人間でもない」


 ノワールの笑みが、わずかに深くなる。


「だから――触れるのさ」


 一言だけ。

 それで十分だった。

 信号。基盤。“秩序”そのもの。

 すべてが、ねじ曲げられている理由。

 理解が、追いつく。

 背筋を、冷たいものが這う。


「てめぇ……何が目的だ……」


 問いが、最後まで届く前に。

 ――来る。


 閃光。空気を裂く、鋭い金属音。

 ノワールの鎌が、迷いなくシグルの喉元を薙ぐ。


 しかし――シグルの身体が、わずかに沈む。

 重心を落とす。

 鎌の軌道が、頬先を掠める。

 紙一重。

 そのまま流すように、背部のハッチがわずかに開いた。


 ――来る。瞬間。

 細い閃光が、掌へ吸い寄せられる。

 収束。形成。


 銀色の杖、“追放”――形式名《FKG-DWZ-α01》。

 本来は霜取り用の作業杖――パンタグラフ型の工具。


 だが今は、違う。

 振り抜く。構えは、ない。

 そのまま――反撃。

 “追放”が一直線に、ノワールの腹部を貫くように突き込まれる。


 ――バチバチッ!

 衝突。紫電が、爆ぜる。

 電流が刃となって走り、接触点から外側へ弾け飛ぶ。

 ノワールの身体が、大きく弾かれる。

 後退。屋根を滑る。

 それでも――落ちない。


 止まらない。むしろ。笑う。

 愉悦が、深くなる。

 裂けた口元が、さらに歪む。


「いいねぇ……それだよ」


 楽しげに、息を漏らす。

 まるで。この衝突そのものを、待っていたかのように。


「さぁ、カウントダウンだ。あと何分で列車同士が“キス”すると思う?」


「……ふざけんな!!」


 シグルは“追放”を構え直す。

 だが――握った手が、わずかに震える。

 風のせいじゃない。

 目の前の存在が、“違う”。

 機関者としての直感が、警鐘を鳴らし続けている。


「人間でも、機関者でもない……」


 一歩、詰める。


「なら、お前は一体――何者なんだ」


 その問いに。

 ノワールの笑みが、ふと消えた。

 フードの奥。冷ややかな光を宿した眼が、まっすぐに射抜く。


「だーからさ」


 軽い。

 だが、温度がない。


「さっきも言ったろ」


 一拍。


「君は俺で、僕はお前」


 風が、二人の間を裂く。


「それ以上でも、以下でもない」


 そして。

 わずかに、声が落ちる。


「……ただ、一つだけ」


 その瞬間。輪郭が、揺らぐ。

 ノワールの姿が、霧のように崩れた。

 視界から、消える。

 ――どこだ。遅れて、声だけが残る。


「“人間”が鉄路を壊す」


 背後。それとも、頭上。位置が定まらない。


「だから――さ」


 すぐ傍で、囁く。


「俺は、その手助けをしてるだけさ」


 風が、抜ける。気配が、散る。

 耳元で囁くような声。

 直後――キィィィィィィィィィィィイッ!!


 車輪とレールが悲鳴を上げる。

 金属が、泣いている。


 次の瞬間、列車全体に横から殴られたようなGが走った。


 車体が、歪む。揺れる。跳ねる。

 ポイント切替。


 たったそれだけの現象が、世界を裏返した。


「はっ――!?」


 踏ん張る前に、遅い。重心が剥がれる。

 身体が空へ投げ出された。


 視界が反転する。上と下が崩れる。

 風が、刃になる。

 背中が焼ける。熱い。速い。


 地面が迫る。逃げ場はない。

 だが――シグルは、迷わない。


 膝を引く。身体を丸める。

 “落ちる”じゃない。“受ける”に変える。

 ネコみたいに、しなやかに。

 重力と回転を、一瞬で読み切る。


 砕石が視界に飛び込む。

 衝突寸前。


 ――そこで。

 身体が、先に動いていた。

 着地。

 衝撃を殺すように、線路脇へ滑り込む。

 砕石が弾ける。


 理解が、遅れて追いつく。

 まだ終わってない。


「――ッ!」


 バラストに手をついた瞬間、全身を突き上げるような負荷が襲う。

 それでも、折れない。


 ついた息の隙間から、鋭く声が漏れる。


「……なんで……止まった……?」


 息を乱したまま、シグルは砕石の上で身体を支える。

 ゆっくりと顔を上げた。


 目の前。列車は、そこにある。


 脱線もない。座屈もない。

 ただ――“置かれている”。

 線路の上に、不自然なほど静かに。


 車止めには届いていない。

 あと数メートル。

 ほんの紙一重。

 それだけ残して、止まっていた。


「……“わざと”避けた、のか……?」


 誰に向けたでもない声。答えはない。

 あるのは、異様な静けさだけだ。


 まるで。

 誰かが“そうなるように書き換えた世界”を見ているようだった。


「……一体、何が起きた」


 シグルは立ち上がる。

 そのまま、先頭へ歩を進めた。


 客車の前方。焦げた匂い。

 かすかな静電気の残滓。


 空気が薄い。音がない。風さえ、遠い。

 ただその一角だけが、時間から切り離されている。


 ――見てはいけない。

 その確信だけが、静かに脳裏に残る。


「……ノワール」


 名前を落とす。その瞬間。

 風が、わずかにざわめいた。影が揺れる。背後から、声。


「止まれて良かったね、“死神”さん?」


 軽い。軽すぎる。


「まるで君が、そう願ったからみたいだ」


 息が、詰まる。

 シグルは喉の奥の何かを飲み下す。

 乾いた呼吸。そして、低く落とす。


「……願いだと?」


 一歩、振り向く前に。空気が、わずかに重くなる。


「黙れ」


 振り返る動作は、遅い。

 まるで過去そのものを、手繰り寄せるように。


 シグルは“追放”を掲げる。

 それは、ただの工具ではない。

 静まり返った世界に、異物のように刻まれる――覚悟。


 ……どこかで分かっていたのだろう。片道切符を手渡された瞬間から。

 胸の奥で、何かが鈍く疼く。答えは、ずっとそこにあった。


 だからこそ。

 冷たく沈んだ瞳の奥に、わずかな光が戻る。


 振り下ろす。迷いも、痛みも。

 全て、断ち切るために。


 だが――空を裂いたのは、音だけだった。

 手応えは、ない。


「――またね、シグル」


 声だけが残る。


「次はもっと……楽しい場所でやろうじゃないか」


 芝居の幕を引くように。

 ノワールの気配が、霧のように消える。


 そこにはもう、何もない。

 列車の沈黙だけが残る。


 風が吹く。

 すべてを剥ぎ取るような、冷たい午前の風が。


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