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選べなかったもの

 雪を踏む音を数える。


 サク、サクッ、という、小気味よい音が一定のリズムで続く。

 歩幅は崩れず、速度も変わらない。その足運びは、歩兵の行進に酷くよく似ていた。


 もう春だというのに――……雪は季節を忘れたかのような潔さで降り続き、都市を白く塗り潰していく。

 視界を覆う白は、さきほどまで渦巻いていた激情や怨嗟を、まるで何もなかったように包み込み、均していった。


 シグルは、その中を歩いていた。


 急ぐでもなく、立ち止まるでもなく。

 ただ、ただ、前へ。


 雪を踏む音だけが、正確に耳へ届く。

 呼吸は乱れていない。視線も揺れない。

 背後の爆音や悲鳴は、遠くで鳴る別世界の出来事のようだった。


「HLC64-1030、待ちたまえ」


 声が、白い静寂を切り裂いた。


 男――CA機関隊、副隊長・ヒデノリ。

 相変わらず、形式名でシグルを呼ぶ。


 名前でも、階級でもない。ただの識別番号として。


 シグルは足を止めなかった。

 だが、次の一歩が――わずかに乱れた。


 それだけで、十分だった。


「……貴殿とは、別の形で出逢いたかった」


 その一言が落ちた瞬間、今度こそ、シグルの足が止まった。


 振り返らない。

 だが、雪を踏む音が途切れる。


 声の主は、隊長――シゲアキ。

 初めて顔を合わせた頃、彼はまだまだ青かった。

 現場に立つたび、言葉よりも先に表情が動く男で、理想と現実の狭間で、いつも何かを選び損ねていた。


 ――その彼が、今はここに立っている。


 副隊長のヒデノリと並び、司令塔から、揃って降りてきたという事実。


 それが意味するものは、あまりに明白だった。


 CA機関隊の庁舎は、すでに陥落した。

 指示を出す場所も、守るべき秩序も、もう“上”には存在しない。


 残っているのは、選択の結果と――その後始末だけだ。


 雪は変わらず降り続いている。

 だが、その白さはもう、浄化には見えなかった。


「シグル・ナガツキ――当該機体を、転覆罪、軍規違反ならびにテロ行為の容疑により、即時停止および回収とする」


 その言葉が落ちた瞬間、世界から音が消えた。

 雪を運んでいた風さえ、その宣告を恐れたかのように息を止める。


 シゲアキの声は、これまでと何ひとつ変わらない。

 怒りも、憎しみもない。

 ただ規定された手続きを、規定通りに読み上げる者の声音。


 それでも、シグルの内側は静かに凍り始めていた。


 手を伸ばせば届く距離に、隊長と副隊長が立っている。

 包囲――逃げ場はない。


 いや、違う。

 そもそも最初から、逃げるつもりなどなかった。


「……そうか。勝手にしてくれ」


 シグルはそう言って、ゆっくりと肩の力を抜いた。


「俺は逃げないさ」


 白く染まった両肩に、雪が降り積もっていく。

 冷たく、重い。

 だが、その重さに抗おうとは思わなかった。


 拘束。

 その言葉の重みが、静かに体へと染み込んでくる。


 抵抗する理由は、ひとつも浮かばない。

 それどころか――どこか、安堵すらあった。


 これが、報いなのだ。


 罪悪感でも、後悔でもない。

 ただ、あるべき場所へ戻っていく。

 そんな感覚だった。


「HLC64-1030……」


 再びヒデノリが口を開く。


 その声は、妙に穏やかだった。

 感情を削ぎ落とし、結果だけを確認するような声。


「これが最後だ。なぜ、反鉄道同盟と関係を持ち、その一味に荷担した?」


 事情聴取の体裁を取った、最後の警告。

 この場を越えるための“言い訳”を、彼は与えている。


 最後のチャンスだと。

 そう言外に匂わせながら。


 シグルは、ゆっくりと空を見上げた。


 厚い雲。

 容赦なく降り続く雪。


 その白の奥に、かつての記憶を探す。

 製造されたばかりの頃に見た夢。

 鉄道で、人々を幸せにしたいと願った日々。


 豪華な寝台特急を牽き、憧れの世界を走り抜けた時間。

 希望と輝きで満ちていた、あの頃。


 ――だが、今の自分が見ているものは何だ。


 自ら踏み砕いた夢。砕け散った理想。引き裂かれた信念。歪みきった関係。


「……理由は簡単だよ」


 シグルは、小さく笑った。


「俺は――」


 言葉を探すように、瞼を降ろす。

 雪を踏む音が、ひとつ、静かに響いた。


 そして瞼を上げる。


「――待ってくれ!」


 その背は、見覚えがあった。

 憎悪と混乱に塗れ、怒号の中心に立っていたはずの輪郭。

 だが今、それは奇妙なほど静かだった。


 目の前に立った男――リュウジは、血と雪に濡れた脚を引きずりながら、ゆっくりと歩み出る。


 足取りは覚束ない。

 それでも、視線だけは逸れなかった。


「拘束するなら、オレだろう」


 声は掠れ、乾いている。

 乾ききっているからこそ、言葉の奥に滲む震えが隠れなかった。


「オレこそが反鉄道同盟の首謀者だ。オレこそが戦犯だ。だから……この機関者は、関係ない」


 雪を踏む音の合間に、わずかなしゃくり上げが混じる。

 それでも、言葉は途中で折れなかった。


「……お前は、黙っていろ」


 低く、しかしはっきりとした声が落ちる。


「そうやって、庇っているつもりなのか。シグル」


 シグルは目を閉じた。

 だが、その声は確かに受け取っている。


「その通りだ」


 短い返答。

 その瞬間、空間が水を打ったように静まり返った。


「オレは……全部、逃げてきた」


 リュウジは一歩、前に出る。


「現場にも立たず、戦場も知らず、理想だけを叫んで……あいつらの怒りと悲しみに、全て背乗りしてきた」


 それは、言い訳ではなかった。

 告解だった。


「本当の意味で戦ったことなんて、一度もない。それでも……今なら分かる」


 息を整え、言葉を選ぶ。


「責任を取るってことが、強さなんだって」


 その言葉に、シゲアキがわずかに眉を動かした。

 だが、何も言わない。


「なら、尚更だ」


 シグルが、低く言い放つ。


「責任ってのは、押し付け合うもんじゃない。自分で背負うもんだ。……お前に、その資格はない」


 拒絶。

 だがそこに、嫌悪はなかった。


「それに、もう手遅れだ」


 一拍置き、淡々と続ける。


「俺は生きすぎた。本来なら、とっくに廃車になってるはずの老耄だ。時代を舐めて、ここまでしゃしゃり出てきただけだ」


 冗談めいた口調。

 しかし、その瞳は一切笑っていない。


「だから、その老耄にケジメを付けさせろ」


 わずかに、口元が緩む。


「そうすりゃ、CA機関隊の面子も保てるだろ」


 静かな声だった。

 それでも、その“受容”が場の空気を決定的に変えた。


「これ以上、若造が背負い込む必要はねえ」


 シグルは背筋を伸ばす。

 直立不動。

 かつて訓練教本で見た、模範的な“拘束対象”の姿勢。


 その姿に、リュウジの顔が歪む。


「――いやだ……」


 掠れた声。

 拒絶は弱々しいが、確かにそこにあった。


「オレは……」


「リュウジ」


 目を合わせず、静かに遮る。


「少し黙っていろ。お前に、口を挟む権利はない」


 怒りでも、侮蔑でもない。

 そこにあったのは、深い疲労と――哀しさだった。


「これは、大人同士の話だ」


 そう告げて、シゲアキとヒデノリへ視線を向ける。


「そっちにも面子があるんだろう。老耄ひとり引き渡せば、それで済む話だ」


 事実を述べるだけの声。交渉ですらない。


 沈黙。やがて――「……わかった」ヒデノリが、小さく頷いた。


 その一言で、すべてが確定したかに見えた。


 ――パチ、パチ……。

 あまりにも場違いな拍手。


「ブラボー、とでも言えばいいのかな」


 黒いコート。黒い革手袋。そして黒いハットを目深に被った男。

 その口元だけが、緩やかに綻んでいた。


「いや、素晴らしい。まったく、感動的だね」


 その声に、誰もが身構える。


「……ミナト高官」


 その名を知らぬ者はいない。


 CA機関隊の後ろ盾たるフウカゲツ鉄道においても、意思決定の中枢に名を連ねる人物。

 政界にも深く食い込み、CA機関隊の運営にさえ強い影響力を持つ男だった。


「まさか、ここまで綺麗に駒が動いてくれるとは、私も思わなかったよ。実に素晴らしい」


 ジャリ、ジャリ――。

 シャーベット状の雪を踏み締めながら、ミナトはゆっくりと輪の中へ入ってくる。


「シグル・ナガツキ。君のような機関者がいると、話を進めやすい。礼を言おう」


 にこやかな笑み。

 だが、その奥にある温度は氷よりも冷たい。


「もっとも――ここで終わってしまうのは、少々惜しいと思わないかね」


 ミナトは肩を竦める。


「私は君と、もう少し話をしたいと思っていたところなんだ」


「……話だと?」


 シグルがわずかに眉をひそめた。


 対するミナトは動じない。

 コートの襟を整えながら、まるで茶会へ客を招くような口調で続ける。


「君の選択は、実に面白い。老躯に鞭打ち、矜持のためにすべてを捧げてきた。なんともドラマチックで、骨のある生き様じゃないか」


 嘲りではない。観察でもない。

 まるで、自ら演出した舞台を称賛するかのような口調だった。


「……それが何だ」


 シグルの声は低い。鋭い刃のように。


「端的に言おう。君には、まだ利用価値がある」


 ミナトは肩を竦める。


「そして、君のような逸材を易々と失うのは愚かだ」


 口元が、わずかに歪む。


「ならば、どうする。俺を生かしておいて、どう利用するつもりだ」


 問いは氷柱のように鋭く突き刺さる。

 だがミナトは意に介した様子もない。


「――そうだね。手始めに、シゲアキ君」


 突然名を呼ばれ、シゲアキが目を見開く。


「はっ! なんでしょうか」


「君、この場を“収める”自信はあるかな?」


「収める……ですか」


 シゲアキの視線がヒデノリへ向く。

 ヒデノリはわずかに唇を歪めただけで、何も答えなかった。


「迎撃、拘束……」


 ミナトの指が、ゆるやかに宙をなぞる。


「どれも手段としては悪くない。だが、いずれも後始末が必要になる」


 白い息を吐きながら、彼は続けた。


「君は、それを計算に入れているかい?」


「――それは」


「いや、いい」


 ミナトは遮る。


「もう起きてしまった事実を、今さら論じても仕方がない」


 片手を軽く振り、周囲へ視線を巡らせた。


「ここに至ってもなお、“命令”に従っている。やはり君は優秀だよ」


 感心したように頷く。


「そして――君。反鉄道同盟といったかな?」


 視線が、雪の上にへたり込むリュウジへ向けられる。


「立派だ。実に立派だよ」


 パチ、パチ。


「国に反旗を翻し、自らの信念のために立ち上がった」


 芝居じみた拍手が鳴る。


「仲間を集め、力を示し、世界を変えようとした。素晴らしいじゃないか」


 乾いた拍手の音だけが、雪に吸い込まれていく。


「君たちの理想がどのようなものであれ、それ自体は私の管轄外だ」


 ミナトは薄く笑う。


「その覚悟と行動力については、賞賛に値すると言っていい」


 一拍。そして。


「――だが」


 口元が歪む。今までの笑みとは異なる。

 それは嘲笑ですらない。何か、もっと根源的に歪んだものだった。


「誰が許可した?」


「許可……?」


 リュウジがかすれた声で繰り返した。


「そう」


 ミナトは静かに頷く。


「革命も、武装蜂起も、思想闘争も。すべてに正当性を与えるのは“こちら側”だ」


 その言葉は、雪よりも冷たく場に沈んだ。


「君たちは何も理解していない」


 容赦のない断定。


「誰がルールを定めると思う?」


 一歩。


「誰が勝者を決めると思う?」


 また一歩。

 ミナトの纏う空気が、目に見えぬ圧力となって周囲を押し潰していく。


「“社会”じゃない」


 吐き捨てるように言う。


「“歴史”でもない」


 声が低くなる。

 だが、その奥には得体の知れない熱が宿っていた。

 怒りなのか。苛立ちなのか。あるいは、もっと根本的な別の何かなのか。


「――“我々”が決めることだ」


 両腕を広げる。

 まるで愚かな観客へ真実を示す演者のように。

 そして深く息を吐いた。


 その瞬間だった。

 何かが切り替わる。

 今まで貼り付いていた笑みが剥がれ落ちる。


 あるいは。

 本性を覆っていた仮面が。


「くだらん」


 吐き捨てるように、シグルが呟いた。


「単なる理想論だ。世間はお前の意思で動くものじゃない」


 一拍置く。


「それに――」


 視線が鋭く突き刺さる。


「この戦いが終われば、すべて帳消しにできるとでも思ったか?」


 空気が凍る。

 氷の刃のような言葉だった。

 ミナトの表情に、わずかな揺らぎが走る。

 驚愕でも、怒りでもない。ただ純粋な、苛立ち。


「ほう」


 軽く鼻を鳴らし、ミナトは一歩だけ後ろへ体を引いた。


「いや、素晴らしい。君を機関者にしておくのは実にもったいない」


 薄い笑みを浮かべる。


「ぜひ私の側に欲しい人材だ」


「……誰がお前なんかの命令を聞くかよ」


 シグルの声は低い。だが揺らがない。

 その瞬間だった。


「そうそう」


 ミナトは、ふと思い出したように言った。


「君たちに見せておきたい“女の子”がいてね」


 視線が、瓦礫へ向く。


「――アカリ……ッ!?」


 瓦礫の影。

 雪に沈むように、女が倒れていた。

 茶色のショートヘアは泥に濡れ、肩が浅く、断続的に上下している。


「アカリ――!」


 シグルが一歩踏み出す。

 その瞬間。


「動くな」


 静かな声。

 それだけで、空気が凍りつく。


 シグルの足が止まった。ミナトは動かない。

 ただ、そこに“結果”だけを置くように言葉を続ける。


「その娘は反乱分子だ」


 更に一言。


「CA機関隊の所属でありながら、上官命令を無視し、武装蜂起に加担した」


 確認するように。


「そうだろう?」


 ゆっくりと視線が巡る。

 逃げ場のない確認。


「さらに、そこの反乱分子と行動を共にしていた」


 一瞬の間。


「つまり、分かるかね?」


「どういう腹積もりだ。揺動狙いか、それとも人質か」


 低く、シグルが問う。


「勘違いはしないでほしいね」


 ミナトは微笑む。


「私はただ、忠告をしているだけだよ」


「忠告だと?」


 苛立ちが、わずかに声を割る。


「そう」


 ミナトは頷く。


「君の行いが、何を生み、何を壊すのか。一度冷静に考えてみるといい」


 一拍。

 空気が重く沈む。


「それが、“君一人の問題”で終わると、本当に思っているのか?」


 指先が、ゆるやかに雪上の女へ向く。


「そこにいる彼女を含め、君の周囲の人間たち。彼らがどう扱われるか――考えたことはあるかい?」


「――ッ」


 シグルの拳が、わずかに軋む。


「安心したまえ」


 ミナトは軽く手を振る。


「今はまだ、生かしておくつもりだ」


 微笑みは崩れない。


「だが」


 声が落ちる。温度が一段下がる。


「もし君が“道理”を欠いた選択をするなら――」


 そこで言葉が途切れる。

 ミナトの唇が、ゆっくりと動く。


 その瞬間――シグルが動いた。

 一歩ではない。踏み込みですらない。

 そこにあったのは、ただ一閃の圧だった。


 “死神”の鎌が、正確無比に弧を描く。


 その刃は、単なる道具ではない。

 意志に応え、死を現実へ引きずり出すためのものだ。


 次の瞬間、ミナトの首が緩やかな放物線を描く。


 雪を溶かし、赤が散る。

 雪舞う荒野に、過去の亡霊はついに姿を現した。

 “死神”は、確かに存在したのだ。


「――ッ!」


 首を失った身体が、ゆっくりと傾ぐ。

 どさり、と鈍い音が落ちた。


 ミナト高官の身体は、そのまま雪へ沈むように横たわる。

 白の上に、赤が広がっていく。

 ゆっくりと。確実に。


 静寂。音が、消えた。


「――シグル」


 世界が止まったような錯覚の中で、名残雪だけが降り続けていた。

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