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敗北の理由

 戦況は、極めて劣悪だった。

 怒号は怨嗟を呼び、悲鳴と咆哮が重なり合って視界を埋め尽くす。


 庁舎はすでに炎に呑まれ、広場では怒り狂った群衆と、それを押さえ込もうとするCA機関隊が正面から衝突し、混沌と化していた。


「……結局、こうなるのか」


 リュウジはへたり込んだまま、頭を抱えた。

 思考は言葉にならず、砕けたまま喉に詰まっている。

 嘲笑うかのように、至近距離で銃声と怒号が轟き続けた。


「――無力だ。何も守れない。誰も、救えない」


 その自覚だけが、胸の奥で冷たく広がる。


 ふと、視界に煤けたブーツが入った。

 黒いコートの裾が揺れた瞬間、冷えた声が鼓膜を打つ。


「おい」


 次の瞬間、襟首を掴まれた。

 抗う間もなく、身体が宙に浮く。

 視界が揺れ、世界が歪む。ただ、それに縋るしかなかった。


「立て、リュウジ」


 怒りでも、叱責でもない。

 感情を削ぎ落とした、命令。

 拒絶する余地は、最初からなかった。


 震える脚で、リュウジは立ち上がる。

 その目には恐怖と混乱が滲み、だが――逃げる色はない。


「こいつらを従わせられるのは、お前しかいないだろう。そんな体たらくでどうする。反鉄道同盟を率いているんだろう。情けない顔をするな」


 威圧的な声だった。

 それでも、その奥にほんの僅かな温度が混じっているのを、リュウジは感じ取ってしまった。


 涙が滲む。

 だが歯を食いしばり、震える脚に力を込める。


「……分かっている」


 “体たらく”――それは、激情に飲まれ、冷静さを失った今の自分自身だ。


 空気が、変わった。

 リュウジが放つ緊張が、群衆と機関隊の動きを止める。

 ざわめきが引き、静寂が降りた。


 リュウジは右手を掲げる。

 宣誓のようで、もっと切実な仕草。


「同志諸君。――ここは撤退だ。態勢を立て直す」


 言葉が槍となり、空気を裂いた。


「――撤退だぁ? 何言ってやがる! こいつらは人殺しだぞ! 甘ぇ考えの雑魚は引っ込んでろ!!」


 罵声。直後、拳が飛ぶ。

 鈍い衝撃。世界が白く弾けた。


 まるで、紙屑だった。

 リュウジはよろめき、崩れ落ちる。


 それでも――目は死ななかった。


「……オレは、逃げない」


 再び立ち上がる。

 瞳に宿るのは、燃え残った意志。


「聞いてくれ。今のままじゃ、何も変わらない。ここで全滅するのは、馬鹿げている」


 言葉は荒い。

 だが、嘘はない。


「今は耐えろ。耐えて、準備を整えるんだ。……必ず、機会は来る」


 その瞬間、閃光。

 砲撃。コンクリートが砕け、悲鳴が跳ねる。


 CA機関隊が盾を並べ、じりじりと距離を詰めてくる。

 圧力が、皮膚を押す。


「――退け! この戦いは、負けじゃない!」


 拳を握り締める。

 崩れ落ちる仲間と、飛び交う砲火が視界を焼く。


「知るか! 逃げろだと? リーダーなら責任取れよ!!」


 その一声が、引き金だった。


 怒声が連鎖し、群衆が動く。

 制御不能の奔流。


「待て! 行くな!!」


 差し出された手は、空を掴んだだけだった。

 圧倒的な混沌に、身体が縫い止められる。


「……ねえねえ、今どんな気持ち? ねえねえ、今どんな気持ち?」


 不意に、声が降る。嘲るように、楽しげに。


「ホンネのところを聞かせてよ!」


 ノワールだった。

 歪んだ笑みが、すぐそこにある。


「焚き付けるだけ焚き付けてさ。負けそうになったら、撤退? 尻尾切って逃げるんだ?」


 視線が、突き刺さる。


「……黙れ」


 喉が軋む。

 否定にならない言葉。


「だって事実でしょ〜? 解体だ革命だって叫んで、いざ権力握ったらこぉれぇ。弱者の論理を本気で掲げちゃってさっ。――滑稽だよね」


 胸が、締め付けられる。

 言葉が、正しいからだ。


「……オレは……」


 喉が詰まる。

 言葉が、崩れる。


「現場に、立ったこともない。テロも、起こしてない。……やったのは、全部あいつらだ。オレは……見てただけだ」


 声が、震える。


「戦う勇気もない。……ただの、弱虫だった」


 その叫びは、夜空に溶けて消えた。 否定しようがなかった。 だからこそ、受け止めるしかないのだ。


「今更、懺悔しても意味がないことは分かっている。それでも……それでも……」


 その先は、言葉にならなかった。

 声は喉で砕け、空気に溶ける前に消えた。


 リュウジには分かっている。

 ここで祈ったところで、戦場で人が死ぬ運命は変わらない。

 目を逸らすことも、なかったことにすることもできない。


 それでも――胸の奥で、何かがわずかに芽吹いた。


 小さく、脆く、踏めば消えてしまいそうなもの。

 それでも、確かに“在った”。


「戦場で、人は死ぬ……。こんなこと、二度と起こしてはいけない」


 震える唇を噛みしめ、リュウジは一歩を踏み出す。

 その瞳に宿るのは、後悔だけではない。

 過去を背負ったまま、それでも前に進むという決意だ。


 もう、傍観者ではいられない。

 逃げも、言い訳も、許されない場所に来てしまった。


 瓦礫の向こうに揺れる群衆の影が、

 ほんのわずか、色を取り戻したように見えた。


「――まあ、分かっているさ」


 ノワールが、静かに笑った。

 そこに先ほどまでの嘲りはない。

 まるで、同じ傷を知る者を前にしたような、乾いた微笑だった。


「俺たちが一番よく知っているのは、敗北の味だ。死ぬより辛い、地獄の痛みをな」


 低く、落ち着いた声で続ける。


「それでもなお、立ち上がる奴がいる。……それが、本当の“英雄”だ」


 その言葉は、胸の奥に沈み込んだ。

 リュウジが信じてきたものが、完全な虚構ではなかったと――……誰かに肯定された気がした。


 ノワールは、ただの敵ではないのかもしれない。

 同じ世界で、同じ地獄を踏み抜いてきた存在。

 その事実が、ほんの一瞬だけ、心を温めた。


 リュウジは目を閉じる。

 過去も、現在も、惨劇も。すべてを抱えたまま、進むために。


「――撤退だ! 早く、逃げろ!!」


 走る。

 理由はない。ただ、走る。


 崩壊する広場を駆け抜ける足音が、虚しく反響する。


 埃と鉄錆、血と炎が混ざった酸味のある空気が鼻腔を突く。

 吸うたびに、胸が締めつけられる錯覚に襲われた。


 広場は、すでに地獄だった。

 砲撃の余韻で壁が崩れ、瓦礫と粉塵が視界を塞ぐ。

 銃声が四方で弾け、怒号と悲鳴が絡み合って空気を裂く。


 走る。ただ、必死に。


 だが、心は追いついていない。

 感情が切り離されたまま、脚だけが前へ出る。


「逃げろ! 全員、西へ! 急げ!!」


 飛び交う声。

 仲間のはずの声が、ひどく遠い。


 違う。

 もう、何も分からなかった。


 敵も、味方も、同じ色に溶けていく。

 戦場とは、そういう場所だと――どこかで聞いた、薄い記憶がよぎる。


『――オレは、一体何をしている……?』


 疑問が浮かぶ。

 だが、立ち止まれない。

 止まった瞬間、撃たれるだけだ。


 視界が歪む。膝が笑う。


 その時だった。


「……っ!」


 足がもつれ、身体が前に投げ出される。

 肩から地面に叩きつけられた。


 血と、砲撃で溶けた雪が混じった土。

 割れたコンクリートの破片が、背中に突き刺さる。


 痛みだけが、現実だった。


 顔を上げる。

 そこは、炎に包まれた広場の中心。


 瓦礫と燃え盛る残骸が視界を塞ぎ、熱風が肌を焼き、煙が目に染みる。


 ――まだ、生きている。


 それだけが、確かだった。

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