Demagoggy
走る。ただ走る。
呼吸は乱れているはずなのに、不思議と視界だけは冴えていた。
「考えるな」
考えた瞬間、足が止まる。
セイジの体は、訓練で叩き込まれた動作をなぞるだけの“機械”となっていた。
「……悪く思うなよ」
呟きは、誰に向けたものか分からない。
地面を蹴り、湿ったアスファルトの上を低く滑る。
銃口が持ち上がるより早く、引き金を引いた。
乾いた破裂音。
火花。弾丸が壁を抉り、跳ね返る。
怒号が上がるより先に、次の一発。
「――ッ!」
男の肩が跳ね、銃がアスファルトに転がる。
もう一人が引き金を引こうとした瞬間、その腕を撃ち抜いた。
ためらいは、なかった。
「――ああ。そうか」
自分はもう、「戻れない側」なんだと、セイジは理解していた。
数秒にも満たない攻防。
最後の一人が膝を折り、重たい音を立てて倒れる。
銃声が消えた。
残ったのは、焦げた空気と、耳鳴りだけ。
セイジは銃を下ろさない。
倒れた男たちを見下ろしながら、低く吐き捨てる。
「俺たちはな。命令だからって理由で、人を殺めるほど器用じゃない」
それは宣言でも、脅しでもない。
自分に言い聞かせる言葉だった。
背後で、荒い呼吸が聞こえる。
アカリだ。
彼女は立ち上がろうとして、膝をつき、歯を食いしばったまま声を絞り出す。
「……ごめん。私が、止められなかった」
セイジは振り返らない。
振り返ったら、きっと――顔に出る。
「違う」
短く言い切る。
「止める役目なんて、前線の人間には回ってこないさ。……最初から、俺たちが“止められる側”だったんだ」
ようやく、銃を下ろす。
その手が、わずかに震えているのを、アカリは見逃さなかった。
遠くで、また砲声が響く。
この場所だけが、異様な静けさに包まれていた。
「なあ、アカリ」
セイジは、ゆっくりと振り向く。
「これ、もう“任務”じゃ済まないぞ」
その目は、覚悟を決めた人間のそれだった。
恐怖も、怒りも、全部呑み込んだ先の色。
「……分かってるわ」
アカリは立ち上がり、痛む腕を押さえながら頷く。
二人の背後で、傾いたままの高級車が沈黙している。
今まさに、鉄道を守る者たちが、鉄道を捨てようとしていた。その皮肉だけが、異様なほどはっきりと胸に残る。
だが――その時だった。
「――アガぁッ!?」
衝撃は、予兆もなく訪れた。
セイジの身体が宙に持ち上がり、次の瞬間、視界が反転する。
鈍い音。骨に直接叩き込まれる衝撃。
アスファルトが背中を打ち、肺の空気が一気に吐き出された。
それと同時に――ぱち、ぱち、ぱち。
場違いなほど乾いた拍手が、静寂を裂いた。
「見事だった」
落ち着き払った声。
称賛の言葉でありながら、そこに温度はない。
「君達の洞察力、動作……どれも洗練されている。実に素晴らしい」
ゆっくりと、だが確実に距離を詰める足音。
その一歩一歩が、この場の主導権を完全に握っていることを示していた。
「よくぞここまで破壊してくれた。称賛に値するよ」
セイジは歯を食いしばり、痛む身体を引きずるようにして顔だけを上げる。
視界に映ったのは、長身痩躯の男だった。
高級スーツは埃一つ付いておらず、まるで別の場所から切り取られてきたかのように、この現場と噛み合っていない。
腰には、何気ない角度で吊るされた銃。
「アンタは……っ」
言葉が終わる前に、男は屈み込み、襟首を掴み上げた。
その動作は驚くほど軽く、力を誇示する素振りすらない。
「君たちは、私の期待を超えている」
間近で見る笑みは、穏やかで――だからこそ冷たい。
「この戦況での粘り、咄嗟の判断力。それに……あの連携。どれも即席で真似できるものではない」
まるで今までの銃撃も、負傷者も、すべてが“試運転”だったかのような口ぶり。
アカリは、その声を聞いた瞬間、全身が強張った。
視界が狭まり、耳鳴りがする。
心臓の鼓動だけが、異様に大きく響いていた。
「……ミナト、高官……」
言葉は喉まで来て、音にならずに沈む。
セイジを見る。
彼は宙づりにされたまま、一切の抵抗を見せない。
「だが安心したまえ」
男は楽しげに言った。
「全ては計画通りだ。私にとっては――そう、想定内さ」
その言葉が落ちた瞬間、アカリの思考は一斉に散った。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
だが四肢は、まるで地面に縫い止められたかのように動かない。
視界が、わずかにずれる。
自分が自分の身体から、半歩後ろに引き剥がされたような感覚。
浮遊感だけが、やけに鮮明だった。
「……あなたが、これを計画したと……言うんですか……?」
声になったのかどうかも、分からない。
それでも男――ミナトは、確かに聞き取ったようだった。
口角をわずかに上げ、軽く肩をすくめる。
「困ったな。私はそんなこと、一言も言っていないはずだが」
芝居がかった調子すらなく、淡々と。
「この騒動を起こしたのは、反鉄道を掲げる連中だろう。非情で、短絡的で……実に分かりやすい。むしろ我々は被害者だ。違うかね?」
あまりに自然な物言いだった。
まるで、最初からそういう“事実”しか存在しないかのように。
「我々の敵は、鉄道を否定し、技術革新を妨げる者共だ。そして――」
一拍、間を置く。
「君達は、その愚かな連中に利用された」
「……なに、を、言って……」
掠れた声が割り込む。セイジだ。
襟首を掴まれたまま、歯を食いしばり、ミナトを睨み上げている。
「利用された? 私達が……?」
「そうだとも」
ミナトは首を傾げる。
怒りも警戒も、そこにはない。
ただ“説明”をする者の顔だった。
「反鉄道同盟は混乱を必要としていた。原因を作り、恐怖を煽り、CA機関隊――ひいては鉄道そのものに疑念を抱かせる。そのための“象徴”が必要だったのだよ」
銃を持つ手が、わずかに動く。
それだけで、場の空気が引き締まる。
「君達は優秀だ。だからこそ都合が良かった。正義感があり、行動力があり、結果を出す。……内部から瓦解させるには、最適な駒だ」
「……そんなの、デマよ……」
アカリの喉から、かろうじて声が零れ落ちる。
ミナトは小さく頷いた。
「そうとも、デマゴギー。だがね――」
その視線が、アカリを正確に射抜く。
「人は“理解できる物語”を信じる。真実かどうかは、その次だ」
言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。否定したい。
だが、頭のどこかが――理屈として“通っている”と認識してしまう。
「もし君達が、もう少し早く反鉄道同盟に接触していたなら……」
ミナトは、わざとらしく思案する仕草を見せた。
「この混乱に巻き込まれず、本当の“敵”と向き合えたかもしれない。もっとも――」
薄く、笑う。
「それを言うのは、少々傲慢かもしれんがね」
その言葉は、刃よりも鈍く、確実に心を削っていった。
認めたくはない。
それでも――否定するための材料が、どこにも見当たらなかった。
「君達は、よくやった。十分に戦った」
労うようでいて、線を引く声。
ミナトはゆっくりとセイジから手を離した。
投げ捨てるでもなく、突き放すでもない。
ただ、使い終えた道具を机に戻すような静かな動作だった。
「だが、もう終わりだ。CA機関隊は既に決定を下している。君達の処遇についても、ね」
銃口は上がらない。
代わりに、彼らに向かって静かに一礼した。
それは敬意ではなく、幕引きだった。
観客に向けた、最後の挨拶。
「君達には相応の評価をしよう。だからこそ――速やかに“撤退”してほしい」
季節を忘れた雪が、はらはらと舞い落ちる。
音を吸い込むような沈黙が、足元に積もっていく。
呼吸ひとつが、やけに重い。
その瞬間、アカリは理解した。
これは敗北ではない。強制的に“終わらされた”のだ。
目の前の男は、この戦争を作業として扱っている。
手順があり、効率があり、損益がある。
――本当の戦争とは。
誰かの人生を、最初から“計算”に入れないことだ。
「どのみち、表は既に火の海だ」
ミナトの声は、嫌に穏やかだった。
「味方が死に、敵が死に、怨嗟が次の怨嗟を呼ぶ。それを人は地獄と呼ぶ。……実に非効率だ」
ふっと、彼は笑う。
それは微笑みというには、あまりに中身のない音だった。
「さあ、選びたまえ」
今度は、はっきりと。
「ここで終わりにすることも出来る。無事に生きて帰りたいのなら、撤退しろ」
掲げられた手は、依然として宙にある。
だがそれが、誰を指しているのかは分からない。
「ただし――撤退すれば、CA機関隊に戻ることは出来ない。分かっているね?」
沈黙が落ちる。
風の音だけが、世界を繋ぎ止めていた。
「――俺は……」
セイジが口を開く。
その唇が、わずかに震えているのを、アカリは見た。
「俺は……知りたい」
「ほう?」
「ミナト高官。あんたが、本当は何のためにここに来たのかを」
「知りたい、だと?」
ミナトの笑みが、僅かに深くなる。
眼鏡越しの視線が、今度はアカリを掠めた。
「知ったところで、何も変わらない。いや――知らない方が、幸せな真実というものもある」
だが、セイジは目を逸らさなかった。
アカリも、黙ったままその横顔を見つめる。
逃げない、という沈黙。引かない、という意思。
ミナトは、その意味を理解したようだった。
「……なるほど」
低く、息を吐く。
「やはり君達は、最後まで“厄介”だ」
ミナトは、靴音を響かせながらゆっくりとアスファルトを踏みしめる。
雪を踏み潰すその足取りは、まるで――次の“工程”に移る者のものだった。




