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side story 3:走り続ける訳

 かつての整備場は、蒸し暑さと油の匂いに満ちた地獄だった。

 クーラーもなく、風も通らず、整備士たちは汗を垂らしながら巨大な機関車と向き合っていたという。

 

 だが今、彼らの拠点となっている機関庫は、旧電気機関車の車庫を再利用したものだ。

 人型の機関者は、かつての機関車ほど広大な設備を必要としない。

 その分、整備は効率化され、暑さや寒さによる負担も大きく軽減された。

 

 さらに機関者たちは、簡易的なメンテナンスを互いに行えるよう訓練を積んでいる。

 整備士の目が届きにくい箇所を補い、異常を早期に発見し、必要とあらば部品交換や調整も行う。

 それは単なる機械的合理性ではなく、仲間として身体を預け合うための技術だった。

 

 その結果、人間の整備士の負担は減り、機関者の稼働率は向上する。

 こうして鉄道は、以前にも増して安定した安全運行を保っている。

 

「――よし、メンテ完了」

 

 工具を静かに置いた機関者の動作は、無駄がなく、整備の一連の流れをそのまま延長したような滑らかさを持っていた。

 

 隣に立つ機関者も、人工皮膚の感触を確かめるように一度触れ、短く頷く。

 それは感情的な仕草ではなく、作業終了を確認するための単なる動作だった。

 

 薄暗い機関庫の照明が二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。

 冷えた金属の匂いと、微かに残る機械油の香りが混じる空気の中で、会話だけが静かに響いた。

 

「……ミゼロ、大丈夫か? 動きに違和感はないか?」

 

 無骨な声音だったが、点検項目をなぞる以上の気遣いが含まれている。

 

「異常なし、感覚センサーも正常。……それと、そのあだ名はやめてくれないかな」

 

 返事には軽い呆れが混じっていたが、拒絶の色はない。

 長く同じ機関庫にいた者同士の、慣れた距離感だった。

 

「はは、悪い悪い。……『シグル』、だったな。HLC64-1030。30だからミゼロ」

 

 番号を並べただけの呼び名なのに、口にすると不思議と柔らかく響く。

 

「……だから、それが嫌なんだってば。番号をそのまま呼ばれると、なんだか落ち着かない」

 

「細かいな。まあいいさ」

 

 機関者は肩をすくめ、笑い混じりに続けた。

 「昔はクーラーもなくて、人間の整備士は地獄だったらしいぞ。しかも、あんなでかい機関車相手だ。今とは比べものにならん」

 

 機関者は大きく息を吐き、笑い混じりに続けた。

 

「……で? ゲサンク、人の話ちゃんと聞いてた?」

 

 シグルの問いに、ゲサンクと呼ばれた機関者は肩をすくめるだけで、あえて曖昧にやり過ごす。

 

「なら、お前こそあだ名で呼ぶなよ。俺は――HLC81-139。1は何故か『ゲ』、3は『サン』、9は『ク』だ。お前と違って交流区間も直流区間もどっちも走れちまう、超絶エリート・スーパー・ハイパー・イケメンお兄さんだ。……改めてよろしくな?」

 

 シグルは思わず吹き出しそうになり、肩を揺らす。

 

「……その“スーパー・ハイパー・イケメンお兄さん”って、誰の話?」

 

「決まってるだろ」

 

 ゲサンクは胸を張り、親指で自分を指した。

 

「エリートイケメンお兄さんなら、ここにいるじゃないか」

 

 シグルは小さく笑った。その表情は穏やかで、どこか少しだけ影を落としている。

 

「まあ……君のことは認めてるよ。たまには役に立つみたいだし」

 

「“たまには”って何だよ!」

 

 ゲサンクは声を上げ、それからすぐに笑った。

 

 「ま、褒め言葉としてありがたく受け取っておいてやるぜ」

 

 軽口の応酬に、機関庫の冷えた空気がわずかに緩む。

 二人の間にあるのは、説明のいらない距離だった。

 

「それより……ミゼロ、いや――シグル」

 

 ふいに、ゲサンクの声の調子が変わる。

 

「最近、元気がねえように見える。言いたくないこともあるだろうが……愚痴ぐらいなら、ここに置いていけ」

 

 冗談めいた口調の奥に、かすかな気遣いが滲んでいた。

 

 シグルは一瞬、視線を逸らす。それから深く息を吐く。

 

 その瞳には、金属の冷たさだけではない、積み重なった疲労と、言葉にできない重さが沈んでいた。

 

「……ごめん、この前のことで」

 

 シグルの声は低く、かすかに揺れていた。

 だが逃げるような響きではない。

 言葉を選び、前に出るための震えだった。

 

「分かってるさ」

 

 ゲサンクは即答しなかった。一拍置いてから、短くそう言う。

 

「辛いなら、無理に話さなくていい」

 

 そう告げると、何も言わずに半歩だけ距離を詰める。

 肩が触れない程度の近さ。

 機関庫に満ちる低い駆動音の中で、二人は黙って並んだ。

 

 沈黙は長かったが、居心地は悪くなかった。

 言葉を重ねるよりも、状況を共有する方が早かったからだ。

 

「……誰かが悪いわけじゃない」

 

 やがて、ゲサンクがぽつりと口を開く。

 

「でもな、人間を刎ねちまったなら――理屈がどうであれ、世間の信頼が落ちるのは、避けられない」

 

 それは慰めでも、叱責でもなかった。ただの事実だった。

 だからこそ、その言葉は重く、シグルの胸の奥に、静かに沈んでいった。

 

 

「――……分かってる。分かりきってるんだよ」

 

 シグルは、ふと顔を上げた。

 それから先の十年は、贖罪の日々だった。

 

「だから、僕は“これ”を続けなければならない」

 

 声は静かだった。

 だが、そこに迷いはなかった。

 目を閉じ、肩にのしかかる重みを、自分から引き受けるように息を詰める。

 

 かさり、と軽い音がして、花びらが風に一弁舞った。

 小菊を中心に束ねられた花束。

 瑞々しさを保つそれは、しかし、持ち主にとっては、すでに形骸に過ぎないものだった。

 

 遠くの煙突から、細く煙がたなびいている。

 昼下がりの空気に、金属と油の匂いが、わずかに混じっていた。

 

「また来てたんですか」

 

 鋭いブレーキ音がして、自転車がシグルの目前で止まった。

 

「――もう、来ないでって言いましたよね」

 

 毎年、その日だけは必ず慰霊に現れるシグルに向けて、学ラン姿の少年は淡々と言い放つ。

 

 そこに怒りはない。苛立ちもない。

 ただ、すべてを諦め切った者だけが持つ、冷え切った光が宿っていた。

 

 シグルは振り返らない。

 花束を前に、視線だけを遠くの煙突へと残す。

 

「……そうだね」

 

 低く、掠れた声。

 弁解でも、反論でもなかった。

 事実をそのまま受け入れた、機械の応答に近い一言だった。

 

 少年は自転車を降り、慣れた手つきでスタンドを立てる。

 その仕草が、この場所が彼にとって“日常”であることを無言のまま語っていた。

 

「来たって、何も変わらないでしょう」

 

 淡々とした声。

 責める調子ですらないのが、かえって胸に刺さる。

 

「死んだら人は生き返らないし、例え貴方が苦しんでも、オレは別に救われない」

 

 シグルの指が、わずかに強張った。

 金属製の関節が、微かにきしむ。

 

「……分かってる」

 

 その短い返答に、十年分の時間が沈んでいた。

 

 少年は花束へと視線を落とす。

 小菊、スターチス、カーネーション、竜胆。過不足なく整えられた、瑞々しい仏花。

 

「それ、誰のためなんですか」

 

 問いというより、確認だった。

 

「……僕のためだ」

 

 少年は一瞬だけ目を伏せ、すぐに興味を失ったように顔を背ける。

 

「何それ、自分の墓前用に用意したって事ですか?」

 

 はっきりと、拒絶。

 

 風が吹き、花びらが一枚、アスファルトの上を転がった。

 

 シグルはゆっくりと立ち上がる。

 背中の影が伸び、少年の足元へと重なる。

 

「オレ、もうすぐ進学で地元を離れるから。だから――二度と来ないでください。目障りです。もう終わった事なんです。忘れてください」

 

 言い切りだった。

 

 沈黙。

 

 金網の向こうで、列車が低い唸りを残して通過する。

 どこにでもある、日常の音。

 

「それは、約束できない」

 

 シグルは即座に答えた。

 声は穏やかで、揺れがない。

 

「君が望まなくとも、僕は毎年来る」

 

 風が吹き、花びらがまた一枚、足元を離れていった。

 

「……なんなんだよ、それ」

 

 少年の声がかすれる。

 

「なんなんだよ、なあ? おかしいだろ!? オレは被害者なんだぞ!? そのオレがやめてくれって言ってるのに……こんなにも懇願してるのに……!」

 

 拳が金網を叩き、金属が乾いた悲鳴を上げた。

 

「――そうじゃない」

 

 シグルは淡々と訂正する。

 

「単なる要望さ。それが、加害者である僕に残された唯一の償いだから」

 

 その声音には、説得も謝罪もなかった。

 何度も繰り返してきた結論を、読み上げているだけだった。

 

「それでいい。君が苦しむ権利は、正当だ」

 

 少年の拳が、固く握り込まれる。

 視線が鋭く、まっすぐにシグルを射抜いた。

 

「……意味が分からねぇよ」

 

 吐き捨てるように言う。

 

「なんで、そんなことが平然と言えるんだよ」

 

 シグルは一瞬、視線を落とした。

 

「分からなくていい」

 

 その一言で、空気が決定的に断たれた。

 

 少年の手が震える。

 次の瞬間、ズボンのポケットを探り、無造作に取り出されたのは小さな刃――カッターナイフ。

 

 空気が、目に見えて冷える。

 

 シグルは身構えなかった。

 逃げる素振りも、防ぐ動作もない。

 ただ、静かに刃先を見つめていた。

 

「じゃあ、ここで殺してやるよ」

 

 少年の声は、怒鳴り声ではなかった。

 

「そうすれば、毎年墓参りなんてしなくて済むだろ?」

 

 相手は機械。

 小さな刃では、致命傷にもならない。

 それでも――向けられた殺意は、確かにそこにあった。

 

「……それが、償いになるのなら」

 

 容赦なく、少年の腕が振られる。

 

 銀色の閃光。

 それは憎しみではなかった。

 

 絶望だ。

 

 それを断ち切るために、彼に残された最後の手段だった。

 

 鼻梁をかすめる一線。

 ほんのわずかに引かれた、越えられない境界。

 赤い不凍液が、血のように滲んだ。

 

 痛みは、なかった。

 機械の身体に、痛覚など最初から搭載されていない。

 

 それでも――そこにあるはずのない感情が零れていく様に、何かが深く、軋んだ。

 

 少年が後ずさる。

 唇を噛み、喉の奥で、声にならない呻きを漏らしていた。

 

「お前さえいなければ……」

 

 嗚咽に近い声が、途中で途切れる。

 

「こんな惨めな思い、しなくて済んだのに」

 

 風が吹き、その言葉を攫っていく。

 

「……嫌いだ。鉄道なんて」

 

 震える吐息。

 

「みんな、いなくなればいいのに」

 

 シグルは答えなかった。

 

 ただ、鼻梁から流れ落ちる赤い不凍液を、そっと拭う。

 拭っても、拭っても、溢れてくると分かっていながら、手を止められなかった。

 

 それは痛みではない。

 けれど――確かに、何かが裂けた痕だった。

 

 シグルは、ゆっくりと顔を上げる。

 目の前にあったはずの少年の姿は、もうない。

 

 ただ、震える背中だけが、住宅地の方へ遠ざかっていくのが分かった。

 

『……嫌いだ。鉄道なんて』

 

 絞り出すような叫びが、耳の奥にこびりつく。

 振り払えないまま、残響だけが残る。

 

 ――その通りだ、とシグルは思う。

 

 この身体に残るのは、いつだって血のような不凍液と、拭いきれない償いの重さばかりだ。

 

「……それでいい」

 

 漏れた声は、ひどく虚ろだった。

 まるで、自分とは無関係な台詞を、どこか遠くから読み上げているように。

 

「君の苦しみは正当だ。その憎しみも……全部」

 

 だが、本当は違う。

 憎まれたところで、救われる命はない。

 どれほど罵られても、許される過去など存在しない。

 

 ただ――犯した罪の重さだけが、今日もまた、鉄路の上に積み重なっていく。

 

 ***

 

「あれ? シグル、鼻筋に傷なんか作ってどうした?」

 

 その声がかかるまで、気づかなかった。

 

 顔を上げると、工具箱を抱えたゲサンクがこちらを見下ろしている。

 

「こりゃあ、結構派手にやられてるな。まあ、機関者の顔面なんて、もともと飾りみたいなもんだが」

 

 そう言いながらも、手は迷いなく動く。

 工具箱を脇に置き、代わりに治療用パックを開く仕草はやけに手慣れていた。

 

「どこで作った? またガキ共に嫌がらせでも受けたか? あいつら、本当に懲りねぇな」

 

 軽口とは裏腹に、処置は丁寧だった。

 

 ゲサンクの視線が、シグルの鼻先に留まる。

 白い人工皮膚を割くように、赤い筋が一線、走っている。

 

「……嫌いだと」

 

 ぽつりと、こぼす。

 

「鉄道が」

 

 ゲサンクの手が、ぴたりと止まった。

 

「……おいおい。お前、また行ったのかよ。だから言っただろ。行くなって」

 

 呆れ混じりの声を漏らしながらも、作業は再開される。

 滲んだ不凍液を拭い取り、傷口を確認して――そして、また手を止めた。

 

 機関者には自己修復機能がある。

 この程度の裂傷なら、放っておいても問題はない。

 

 だが、物理的な傷より、厄介なものがあることを、ゲサンクは知っている。

 

「なあ、シグル」

 

 低く、諭すような声。

 

「いくらお前が完璧主義だからってさ。許してもらえなかったからって、子どもまで“自分の裁判”に付き合わせるな」

 

 その言葉が、鋭く胸を刺した。

 

「……わかってる」

 

 抑揚のない返事に、ゲサンクは顔をしかめる。

 

「そういうとこだぞ」

 

 長い付き合いだ。

 だからこそ、わかってしまう。

 無理をしている時ほど、シグルの表情は動かない。

 

 だから、シグルは沈黙を選んだ。

 何を言えばいいのか、わからなかったから。

 

「……シグル。今日は休め」

 

 有無を言わさぬ声音だった。

 

「僕はただの車両だ。どうせ配給輸送しか取り柄がない。でも、もう――鉄路に、僕の居場所なんてない」

 

 短い沈黙のあと、ため息。

 今度ははっきりと、呆れの混じった音だった。

 

「まったく……これだから、お前は」

 

 頭をかく音がして、ゲサンクは続ける。

 

「いちいち真面目に受け取るから、分が悪くなるんだ。お前は優秀だし、欠けたら困る」

 

 シグルは視線を落としたまま、静かに言う。

 

「……僕のことなんて、みんな、どうでもいいと思ってるよ」

 

「そんな訳ねぇって。現場だって、ちゃんと分かってる。口には出さねぇさ。……けどな」

 

 ゲサンクの声が、少しだけ低くなる。

 

「お前が被害者の身内にまで、ちゃんと向き合ってるのは、俺はずっと見てきた。少なくとも――俺はな」

 

 予想外の言葉だった。

 だからこそ、胸の奥に、重く沈んだ。

 

「それにさ」

 

 少し照れたように、肩をすくめる。

 

「平坦区間しか走れねぇ俺らからしたら、お前みたいな勾配線区用の機関者は命綱だ。頼りにしてるんだぜ、本当に」

 

 ただ、その一言だけで救われた気がした。

 けれど同時に、深い絶望も芽生えた。

 

 自分が――どれだけ走り続けても、そこから“赦されて降りる日”は来ないのだという事実。

 それは諦観にも祈りにも似ていて、逃れようのない暗い重力となって胸に沈んだ。

 

「……お前は、嫌いなのか?」

 

 ふと、ゲサンクがそう尋ねる。

 

「何が?」

 

「鉄道が、さ」

 

 シグルの視線が、ゆっくりと空へ向いた。

 薄く吐いた息がたなびく。

 

「どうだろう」

 

 少し考えてから、肩をすくめる。

 

「考えたこともなかったや」

 

 それは逃げでも、誤魔化しでもなかった。

 ただ、初めから選択肢として存在しなかっただけだ。

 

「そういう、君はどうなのさ」

 

 問い返され、ゲサンクは一瞬だけ言葉を詰まらせる。

 

「……分からない」

 

 吐き出すような短い返答。

 

「そもそも、機関者は鉄路から逃げられない運命だろ。それこそ、自壊でもしない限りな」

 

「それは……ありえない」

 

 反射的に、きっぱりと言い切った。

 冗談めかした響きで語られるその可能性を、考えとして受け入れることすら拒むように。

 

 鉄路から外れること。

 それは自由ではなく、終わりを意味する。

 

 シグルは再び視線を落とし、鼻梁に残る違和感を指先でなぞった。

 人工皮膚の下で、赤い不凍液が静かに循環している。

 

 逃げることも、壊れることもできない。

 だからこそ――走り続けるしかない。

 

 それが、機関者として与えられた、ただ一つの生き方だった。

これ書いてる時、まだゲサンク生きてたんだよなぁ

どっちも元ネタは鬼籍に入っちまったけど

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