motor
踏切の警報音が、夜の静寂を鋭く引き裂く。
通過した列車は闇の彼方へ遠ざかり、轟音だけが余韻のように細く尾を引いていた。
その最後尾を、幼い少年の視線がいつまでも追い続ける。
「ほら、あれが寝台特急『つきかげ』! かっこいいよね!」
少年の瞳は、憧れと夢で眩しいほどに輝いていた。
だが、その夢を掴むことは、結局一度も叶わなかった。
リュウジは目を閉じ、古びた畳の上へ力なく身を沈める。
家の中は底冷えするほど寒く、暖房はまともに機能していない。
隙間風が壁の継ぎ目を鳴らし、天井裏では何かが走り回る。
それでも。
どれだけ耳を塞ごうと、あの音だけは消えてくれなかった。
あの日の踏切。
耳障りな警報音。
鉄の塊が通過していく轟音。
脳裏に焼きついた記憶は、錆びた釘となって深く突き刺さったまま、いつまでも離れない。
「――もう、やめてくれ……」
リュウジは心の中で叫び続けていた。
やめろ。忘れさせてくれ。もう聞かせるな、と。
だが、現実はそんな願いを許してはくれない。
瞼を閉じるたび、あの日の光景が何度でも蘇る。
両親に手を引かれ、リュウジは踏切へ連れて行かれた。
母が、「もう一度『つきかげ』を見たい」と口にしたからだ。
踏切が鳴る。
客室の明かりが夜闇を裂く。
迫り来る鉄の巨体。
そして次の瞬間。
両親は、何も言わないまま線路へ身を投げた。
忘れもしない――寝台特急『つきかげ』。
その列車を牽引していたのが、機関者・シグル。
それからというものの、リュウジは親戚の家を転々と渡り歩くことになる。
だが、居場所を変えても、心を埋めるものは何ひとつなかった。
哀れみ。
厄介払い。
腫れ物に触るような視線。
いつしかリュウジは、自分の殻へ閉じこもるようになっていった。
外界を拒み、他人との関わりを断ち、自分自身すら押し殺して生きる。
孤独だった。
苦しかった。
それでも、誰とも関わらなければ傷つかずに済む。
そこだけが、彼にとって唯一の安息だった。
――その日までは。
「……さん、――ジさーん! あー、また暖房つけっぱ! 灯油なくなっちゃうっすよー!」
ドカドカと、遠慮の欠片もない足音が部屋に響き渡る。
リュウジがゆっくり目を開けると、視界に飛び込んできたのは、金髪にサングラスという、いかにも胡散臭い風貌の青年だった。
「だから布団で寝ろって言ってるじゃないっすかー! オレがいないと、本当に何もできないっすよねぇ、リュウジさん」
青年――ケンタは、呆れたように肩を竦める。
だが、その口調の端々には、妙に馴れ馴れしい気安さが滲んでいた。
もっとも、リュウジにとっては耳障りな雑音でしかない。
彼は何も答えず、重たい身体を起こすと、そのまま朝食の準備へ取り掛かった。
「――で、最近どうなんすか? 活動の方は」
反鉄道同盟。
大層な名を掲げてはいるが、やっていることは単純だ。
鉄道を憎み、壊し、否定する。
そして、その中心にいるのが、リュウジその人だった。
「ノワールの捜索に行き詰まってるよ。全国に散らばってる同志たちにも協力を呼びかけてるが……まるで手がかりがない」
淡々と語るその目には、拭いきれない疲労と困惑が滲んでいた。
かつて燃えるように宿っていた怒りは、今はもう薄れている。
残っているのは、この終わりの見えない責め苦から、どうにか逃れる術を探すような陰だけだった。
その言葉を聞き、ケンタはニッと口元を歪める。
「オレ、実はこの前、沿線でノワール見かけたんすよ」
「――な!?」
それを先に言え。
リュウジは心の中で舌打ちした。
だが、ケンタの語る“ノワール”の姿は、リュウジの記憶にあるものとは、どこか噛み合っていなかった。
あの異様な存在感。
人とも機関者ともつかない、底知れない不気味さ。
少なくとも、ケンタの話ぶりから受ける印象は、それとは大きく違っていた。
「……それは本当にノワールだったのか? 俺の記憶が正しければ、あいつは黒いボロ切れで顔を覆っていたはずだ」
ケンタが以前目撃したという“ノワール”の特徴。
それは、リュウジの知る不気味な怪人像とは、あまりにもかけ離れていた。
「いやぁ、布が風で煽られて、顔と頭が結構見えたんすよ」
ケンタは身振りを交えながら続ける。
「ボサボサの白髪で、顔の半分が真っ黒。で、残ったもう半分の顔が……あの『死神』にそっくりだったんすわ」
その言葉を聞いた瞬間。
リュウジの脳裏に、あの機関者の姿が鮮明に蘇る。
寝台特急『つきかげ』。
踏切。
鉄の轟音。
そして、何もかもを奪っていった“死神”。
胸の奥で燻っていた怒りと憎悪が、再び黒々と燃え上がっていく。
そんな感情を見透かしたように、ケンタは口元を吊り上げた。
「で、オレはこう考えたってわけっすよ」
一拍置いて。
「シグルとノワールって、同一存在なんじゃねぇかって」
その言葉が、胸の奥を鋭く貫いた。
怒りなのか。
憎しみなのか。
それとも、もっと別の感情なのか。
リュウジには、もう自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、ケンタのあの陽気な笑顔を見ていると、気が狂いそうになるということだけだった。
「……どういう根拠だ」
冷え切った声が、静かな部屋に落ちる。
リュウジは目を伏せたまま、ちゃぶ台の上で拳を強く握り締めた。
白くなった指先に、青い血管が浮かび上がっている。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ、リュウジさん」
ケンタは気にも留めた様子もなく、軽く肩を竦める。
だが、その目はどこか愉快そうだった。
リュウジの反応そのものを、面白がっているようにさえ見える。
「ノワールを見た時、オレ思ったんすよ。『あの白髪のボサボサ頭、シグルじゃん!』って」
ケンタは笑い混じりに続ける。
「まあ、黒いボロ布なんか被ってたし、顔半分真っ黒でクソ怖かったっすけど。でも、もう半分の顔は妙に整っててさぁ。……なんつーか、あの無表情な感じ? シグルとそっくりだったんすよね」
「――言葉を慎め」
低く吐き捨てられた声に、ケンタの動きが一瞬だけ止まった。
「……あー、ごめんっす。でもさぁ、これって、かーなーり! 大事な情報じゃないっすか?」
リュウジは答えなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がる。
心臓が嫌になるほど脈打っていた。
胸の奥が、締め付けられるように痛む。
ノワールとシグルが同一存在だとしたら。
それはつまり、自分の両親を奪った“死神”こそが、自分たちの追い求めていた存在だったということになる。
「……俺が確認する」
吐き出された声は、凍りつくほど冷たかった。
だが、その奥底では、煮え滾るような感情が荒れ狂っている。
ケンタは薄く笑い、面白がるように頷いた。
「待ってるっすよー」
その軽い声を背中に受けながら、リュウジは家を飛び出した。
外は冷え切っていた。
顔に当たる風が容赦なく熱を奪っていく。
それでも、心と身体だけは異様なほど熱かった。
胸の奥で燃え続ける、この煮え滾る怒り。
それこそが、今の自分を突き動かす原動力なのだと。
だが、その怒りを、どこか他人事のように見つめている自分がいることにも、気づいていた。




