表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/21

虎落笛

 その駅に足を踏み入れた瞬間、月が雲に隠れ、闇があたりを呑み込んだ。

 

 ひゅう、と虎落笛が悲しげに鳴る。

 その音は夜風に乗り、人気のない構内の奥へと消えていった。


 そして次の瞬間。

 氷のように冷たい風が吹き抜け、揺らめく影とともに、周囲の空気が微かに歪む。

 

「俺はノワール。そして、こっちは『死神』さん……じゃなかった、シグル君!」

 

 ノワールが薄笑いを浮かべながら言う。

 ぼさぼさの髪に、白すぎる肌。鼻先に残る傷痕は、過去に刻まれた何かを物語っていた。


 だが、その歪んだ笑みが、そうした輪郭さえも曖昧に塗り潰している。

 

「……何が言いたい。失せろ」

 

 シグルが静かに答える。

 その声は、乾ききった金属のように淡々としていた。

 

 ホームの奥には、使われなくなった駅舎が暗がりに沈んでいる。

 割れた窓枠。剥がれ落ちたペンキ。木製の扉だけが、辛うじて形を留めていた。


「なあ、知ってるか? この駅、ひどい暴動があって廃れたんだ。鉄道員が業務を放棄したせいで列車が止まった――その途端、乗客が暴徒になって駅を襲ったんだよ」

 

「知っている。“人間が運ぶ”鉄道の限界を、国中が思い知った」

 

 シグルが闇の奥へ目を向ける。

 その瞬間、不意に列車の気笛が遠くから蘇るように響いた。

 

 だが、それも束の間。

 幻のように掻き消え、あとには夜の静寂だけが残される。

 枯れ草が風に揺れ、かさり、と乾いた音を立てた。

 

 ノワールは楽しげに頷き、天頂を指差す。

 

「切符売り場はぶっ壊され、火をつける奴まで出やがった。駅員はボコボコ、駅長はどっかに連れ去られてあの世行き。いやぁ、やりたい放題。いい時代だったなぁ、あははっ!!」

 

 欠けた月が雲間からわずかに顔を覗かせる。

 青白い光が、朽ちたホームの輪郭を静かになぞった。

 

 冷たく硬い空気が肌を刺す。

 どこからともなく漂う錆と、湿気を含む風が鼻先を掠めた。


「――湿った匂いがするな……じきに雨が降る」  シグルのストールが風で巻き上がる。


「そうともさ! 散々鉄道に甘えてきた連中が、くるくる掌返して不満を爆発させやがった! “車の方が便利だ”だの、“どうせ止まるなら要らない”だの……俺たち鉄道は時代遅れなんだとよ! 滑稽だよなぁ!?」

 

 夜空は厚い雲に覆われたまま、風だけが次第に勢いを増していく。

 吹き抜ける冷気は、いつしか人の嘆きにも似た響きを帯び始めていた。

 

 シグルが一歩を踏み出す。

 靴底が荒れたコンクリートを叩き、その乾いた音だけが、彼をこの夜に繋ぎ止めている。

 

「……皮肉なもんだな」

 

 短く落とされた言葉に、ノワールが肩を揺らした。

 

「皮肉だぁ? ……あぁ、そういう事か」

 

 相変わらず軽薄な笑みを浮かべたまま、ノワールはホームの先で口を開く。

 

「環境保護だの、渋滞解消だのって、今じゃ鉄道が見直されて、挙げ句の果てには鉄道社会にまで発展したって話だろ? いやぁ、ほんとお笑い草だよなぁ? 鉄道を見捨てた連中が、今度は助けてくださーい! だもんなぁ!」

 

 嘲るような声は風に攫われ、枯れ草を揺らし、ホーム屋根の錆びた縁を這って闇へと溶けていく。

 

 シグルは何も答えない。

 ただ杖を肩に担ぎ直し、振り返ることなく、冷え切った視線を闇の奥へ向けた。

 

 下り線ホームへ続く階段の先。

 青白い灯がぼんやりと滲み、その上に重なった月影が、足元へ歪な輪郭を落としている。

 

「……反鉄道同盟、ねぇ」

 

 シグルの呟きに、ノワールが言葉を被せる。

 

「車社会が終わるなんて思ってなかった、馬鹿どもの集まりに過ぎねぇっ!」

 

 その声は乾き切っていた。

 冷えた駅舎の壁に反響し、空気そのものを凍りつかせる。

 

 闇が深まるほどに、ノワールの声だけが異様な輪郭を帯びていく。

 あの軽薄な笑みすら、もはや何の緩衝材にもなっていなかった。

 

「老害どもは頭が硬くていけねぇ! これからの時代、車にしがみついてたって落ち目になるだけだってのによ!」

 

 哄笑が風の合間を裂いて響く。それは単なる嘲りではない。


 胸の奥で燻り続けていたものを吐き出すように、ノワールは大きく息を吸う。

 そして堰を切ったように、言葉を叩きつけた。

 

「レールをどこまでも敷いていこう! 廃線になった区間も、全部もう一度繋げよう! ……そう、この駅もなぁ!」

 

 ノワールの身体が、ふっとホームを滑るように跳ぶ。

 暗闇の向こうへ軽々と着地すると、振り返り、細く目を細めた。

 

「お前もそう思うだろ?」

 

 白い歯が、闇の中で不気味に覗く。

 

「……俺なんだからさ」

 

 シグルは、その姿へ向かって一歩を踏み出した。

 枯葉を踏む音だけが、静まり返った構内に響く。

 

 微かな物音すら呑み込む闇の中。

 そこに立つ黒衣の死神だけが、この寂れた駅に染み付いた過去を知っているようだった。

 

「それはどうかな」

 

 シグルが低く呟く。

 

「鉄道が見直されたとはいえ、車が普及したこの時代だ。赤字路線が、いつまで存続できるか」

 

 その言葉に、ノワールの唇がゆっくりと歪む。

 憎悪と歓喜が入り混じった、奇妙な笑みだった。

 

「ほぇ? 機関者がそれ言っちゃう? それ、自分を否定してるようなもんじゃない? ねぇ、だいじょぶそ?」

 

 そのやり取りは、まるで何度も繰り返されてきた問答の続きのようですらあった。

 

「……かつては、鉄道貨物が国を支えていた時代もあった」

 

 シグルは感情を交えず、ただ事実を並べる。

 

「だが、ストを境に、人は困らなくなった。長距離も短距離も、車だけで回ると知ったんだ。……あの時、鉄道は“過去の遺物”になった」

 

「そうかぁ……なら、この国も終わりだな」

 

 笑っている。

 だが、その声には怒りが滲んでいた。

 

「車社会が崩壊して、大企業も整備業者も潰れて、その果てには俺たち機関者まで消える。……さすがだねぇ、死神様」

 

 ノワールが、ゆっくりと首を傾ける。

 

「その高みから眺めてるつもりかい? 自分たちがインフラから消えていく様を、黙って見送るつもりなのか?」

 

 シグルは答えない。

 ただ杖の柄を握り締め、線路を挟んだ向こう側へ静かに歩み寄っていく。

 

 それは、まるで魂を刈り取る瞬間を待つ死神の足取りだった。

 

 ノワールの口元から笑みが消える。

 代わりに、その瞳へ鋭い殺意が宿った。

 張り詰めた空気が、限界まで軋む。

 

 その瞬間――遠くから、気笛が響いた。

 

 まるで二人を引き裂くような、どこか悲しげな音色だった。

 

 ノワールは、その気笛に一瞬だけ反応した。

 細められた瞳が、闇の向こうへ向けられる。

 

「……ああ、まだこんな世界にも、泣く奴がいるんだな」

 

 先ほどまでの嘲笑は消えていた。

 その声には、狂気の奥に沈んだ、微かな哀愁だけが残っている。

 

 闇に浮かぶ死神の姿は、黒に溶け込みながらも、その輪郭だけが異様なほど鮮明に浮かぶ。

 

 まるで彼岸から現れた使者のように。

 その存在だけが、夜の中で静かに際立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ