虎落笛
その駅に足を踏み入れた瞬間、月が雲に隠れ、闇があたりを呑み込んだ。
ひゅう、と虎落笛が悲しげに鳴る。
その音は夜風に乗り、人気のない構内の奥へと消えていった。
そして次の瞬間。
氷のように冷たい風が吹き抜け、揺らめく影とともに、周囲の空気が微かに歪む。
「俺はノワール。そして、こっちは『死神』さん……じゃなかった、シグル君!」
ノワールが薄笑いを浮かべながら言う。
ぼさぼさの髪に、白すぎる肌。鼻先に残る傷痕は、過去に刻まれた何かを物語っていた。
だが、その歪んだ笑みが、そうした輪郭さえも曖昧に塗り潰している。
「……何が言いたい。失せろ」
シグルが静かに答える。
その声は、乾ききった金属のように淡々としていた。
ホームの奥には、使われなくなった駅舎が暗がりに沈んでいる。
割れた窓枠。剥がれ落ちたペンキ。木製の扉だけが、辛うじて形を留めていた。
「なあ、知ってるか? この駅、ひどい暴動があって廃れたんだ。鉄道員が業務を放棄したせいで列車が止まった――その途端、乗客が暴徒になって駅を襲ったんだよ」
「知っている。“人間が運ぶ”鉄道の限界を、国中が思い知った」
シグルが闇の奥へ目を向ける。
その瞬間、不意に列車の気笛が遠くから蘇るように響いた。
だが、それも束の間。
幻のように掻き消え、あとには夜の静寂だけが残される。
枯れ草が風に揺れ、かさり、と乾いた音を立てた。
ノワールは楽しげに頷き、天頂を指差す。
「切符売り場はぶっ壊され、火をつける奴まで出やがった。駅員はボコボコ、駅長はどっかに連れ去られてあの世行き。いやぁ、やりたい放題。いい時代だったなぁ、あははっ!!」
欠けた月が雲間からわずかに顔を覗かせる。
青白い光が、朽ちたホームの輪郭を静かになぞった。
冷たく硬い空気が肌を刺す。
どこからともなく漂う錆と、湿気を含む風が鼻先を掠めた。
「――湿った匂いがするな……じきに雨が降る」 シグルのストールが風で巻き上がる。
「そうともさ! 散々鉄道に甘えてきた連中が、くるくる掌返して不満を爆発させやがった! “車の方が便利だ”だの、“どうせ止まるなら要らない”だの……俺たち鉄道は時代遅れなんだとよ! 滑稽だよなぁ!?」
夜空は厚い雲に覆われたまま、風だけが次第に勢いを増していく。
吹き抜ける冷気は、いつしか人の嘆きにも似た響きを帯び始めていた。
シグルが一歩を踏み出す。
靴底が荒れたコンクリートを叩き、その乾いた音だけが、彼をこの夜に繋ぎ止めている。
「……皮肉なもんだな」
短く落とされた言葉に、ノワールが肩を揺らした。
「皮肉だぁ? ……あぁ、そういう事か」
相変わらず軽薄な笑みを浮かべたまま、ノワールはホームの先で口を開く。
「環境保護だの、渋滞解消だのって、今じゃ鉄道が見直されて、挙げ句の果てには鉄道社会にまで発展したって話だろ? いやぁ、ほんとお笑い草だよなぁ? 鉄道を見捨てた連中が、今度は助けてくださーい! だもんなぁ!」
嘲るような声は風に攫われ、枯れ草を揺らし、ホーム屋根の錆びた縁を這って闇へと溶けていく。
シグルは何も答えない。
ただ杖を肩に担ぎ直し、振り返ることなく、冷え切った視線を闇の奥へ向けた。
下り線ホームへ続く階段の先。
青白い灯がぼんやりと滲み、その上に重なった月影が、足元へ歪な輪郭を落としている。
「……反鉄道同盟、ねぇ」
シグルの呟きに、ノワールが言葉を被せる。
「車社会が終わるなんて思ってなかった、馬鹿どもの集まりに過ぎねぇっ!」
その声は乾き切っていた。
冷えた駅舎の壁に反響し、空気そのものを凍りつかせる。
闇が深まるほどに、ノワールの声だけが異様な輪郭を帯びていく。
あの軽薄な笑みすら、もはや何の緩衝材にもなっていなかった。
「老害どもは頭が硬くていけねぇ! これからの時代、車にしがみついてたって落ち目になるだけだってのによ!」
哄笑が風の合間を裂いて響く。それは単なる嘲りではない。
胸の奥で燻り続けていたものを吐き出すように、ノワールは大きく息を吸う。
そして堰を切ったように、言葉を叩きつけた。
「レールをどこまでも敷いていこう! 廃線になった区間も、全部もう一度繋げよう! ……そう、この駅もなぁ!」
ノワールの身体が、ふっとホームを滑るように跳ぶ。
暗闇の向こうへ軽々と着地すると、振り返り、細く目を細めた。
「お前もそう思うだろ?」
白い歯が、闇の中で不気味に覗く。
「……俺なんだからさ」
シグルは、その姿へ向かって一歩を踏み出した。
枯葉を踏む音だけが、静まり返った構内に響く。
微かな物音すら呑み込む闇の中。
そこに立つ黒衣の死神だけが、この寂れた駅に染み付いた過去を知っているようだった。
「それはどうかな」
シグルが低く呟く。
「鉄道が見直されたとはいえ、車が普及したこの時代だ。赤字路線が、いつまで存続できるか」
その言葉に、ノワールの唇がゆっくりと歪む。
憎悪と歓喜が入り混じった、奇妙な笑みだった。
「ほぇ? 機関者がそれ言っちゃう? それ、自分を否定してるようなもんじゃない? ねぇ、だいじょぶそ?」
そのやり取りは、まるで何度も繰り返されてきた問答の続きのようですらあった。
「……かつては、鉄道貨物が国を支えていた時代もあった」
シグルは感情を交えず、ただ事実を並べる。
「だが、ストを境に、人は困らなくなった。長距離も短距離も、車だけで回ると知ったんだ。……あの時、鉄道は“過去の遺物”になった」
「そうかぁ……なら、この国も終わりだな」
笑っている。
だが、その声には怒りが滲んでいた。
「車社会が崩壊して、大企業も整備業者も潰れて、その果てには俺たち機関者まで消える。……さすがだねぇ、死神様」
ノワールが、ゆっくりと首を傾ける。
「その高みから眺めてるつもりかい? 自分たちがインフラから消えていく様を、黙って見送るつもりなのか?」
シグルは答えない。
ただ杖の柄を握り締め、線路を挟んだ向こう側へ静かに歩み寄っていく。
それは、まるで魂を刈り取る瞬間を待つ死神の足取りだった。
ノワールの口元から笑みが消える。
代わりに、その瞳へ鋭い殺意が宿った。
張り詰めた空気が、限界まで軋む。
その瞬間――遠くから、気笛が響いた。
まるで二人を引き裂くような、どこか悲しげな音色だった。
ノワールは、その気笛に一瞬だけ反応した。
細められた瞳が、闇の向こうへ向けられる。
「……ああ、まだこんな世界にも、泣く奴がいるんだな」
先ほどまでの嘲笑は消えていた。
その声には、狂気の奥に沈んだ、微かな哀愁だけが残っている。
闇に浮かぶ死神の姿は、黒に溶け込みながらも、その輪郭だけが異様なほど鮮明に浮かぶ。
まるで彼岸から現れた使者のように。
その存在だけが、夜の中で静かに際立っていた。




