Spica
藍色の制服、揃いのケピ帽、白い手袋。
そして、忘れてはいけない機関者の腕章。
「――よし!」
鏡に映る自分の姿に、エリカは軽く気合を入れる。
「この制服を着ている限り、私は皆の希望でいなきゃいけないの」
インディゴトレインといえば、この国を代表する寝台列車。
藍色の車体に銀の帯。その姿は、多くの人々に愛されていた。
だが、インディゴトレインの輝かしい日々も、今や過去のもの。
目を閉じれば、乗客たちの拍手や笑顔、プラットフォームの歓声――その全てが鮮やかに蘇る。
だが、目を開ければ、そこには冷え切った現実だけが横たわっていた。
広く、冷え切った機関庫。
古びた整備道具と、散らかった部品の山。
エリカはぼんやりと天井を見上げていた。
鈍く光る鉄骨をぼんやり眺めながら、幾度目かの溜め息をつく。
「もう、すぐ」
その声はどこまでも乾いていて、あの頃の輝きなどない。
ぼろぼろになった彼女の向こうで、小さなガスランプがかすかに揺れている。
「……私は何を待っているのかしら」
低く漏れた呟きは、冷えた空気に溶けて消えた。
彼女はそっと手元に目を落とす。
古びた腕章が、その手の中で震えている。
それはかつて、エリカにとっての全て。
だが、その輝きはもうない。
「もう一度……」
言葉にはならなかった願いが、胸の奥で静かに疼く。
そして、その時が来た。
「……お迎えかしら」
カツン、カツンという、無機質な靴音が冷たい機関庫に響く。
そこには、真っ黒な影が立っていた。
「あな、た、は……」
死神が迎えにきたのだと、エリカは思った。
その胸元で、小さな銀色のバッジがきらりと光る。
「……ごめん、エリカさん。オレ、どうしても貴女と話がしたくて」
その瞬間、エリカは目をゆっくりと開けた。
「あら……廃車回送の牽引機、変わったの……」
「オレはセイジっていいます。どうしても、一度話をしたかったんです」
セイジの言葉に、エリカは一瞬息を呑んだ。
死神かと思っていたその人物が、ただの見知らぬ青年だったとは。
「やだ、こんな姿……誰にも、見られたく無かったのに」
エリカは自分のくたびれたボロ布に目を落とし、小さく呟いた。
「オレは、ロコモティ部の者です。貴女のスキャンダルの件は存じています。そこで、少しでもお力になりたくて来ました」
「何もないわ、私はただ――……」
「――こんな所で何をしている」
低く、冷酷な声。その響きは、場の空気を一瞬で凍りつかせた。
セイジは反射的に振り返る。そこには、大きな杖を携えた男が立っていた。
「……貴方は……」
エリカは思わず息を呑む。
だがセイジは怯える様子もなく、真っ直ぐシグルを見返していた。
シグルの眉がわずかに動く。
「お前……何でいるんだ。ここはお前の来る場所じゃないだろ」
その言葉に、セイジは思わず声を荒くした。
「すまん! オレはエリカさんと話がしたくて――」
「話だぁ? 仕事の邪魔すんじゃねぇよ」
シグルは冷たく吐き捨てるように言い、ゆっくりとセイジに歩み寄る。
「ここは、遊び場じゃない。お前みたいな甘ったれが来ていい場所じゃねぇんだよ」
セイジも負けじと声を張り上げた。
「……オレだって、遊びのつもりでここにいるんじゃない!」
シグルの口元に冷笑が浮かぶ。
「オレは……どうしても真実が知りたくてここに来た。例の報道、見たよ。あんなの放っておけるわけないだろ!」
「馬鹿やろう、部外者が何も知らねぇくせに、無闇に首突っ込むんじゃねえ!!」
シグルが一歩前に出る。その剣幕に、セイジは思わず後ずさった。
「お前には関係ねぇ話だ。大人しく帰れ。それとも――ここで俺にブチ殺される覚悟は出来てるのか」
その言葉には、ただの脅し以上の重みがあった。
しかし、セイジはなおも食い下がる。
「オレは……真実が知りたい。この組織の裏でそんな非道徳な行いがされてるなんて、納得いかないんだ!」
セイジの声が響き渡る。
シグルは思わず目を逸らした。
「お前に分かるのかよ、コイツがどれだけ人間に奉仕して来たかを。使い潰されて、ようやく放り出されたってのに、まだ人間に縋り付いてる滑稽さを」
「――滑稽なんかじゃない!!」
セイジの叫びが機関庫を揺らした。
「この人は“自分で決めた”んだ! オレたちの誰よりも、エリ――」
「――――馬鹿野朗ッッ!!」
まるで地の底から響くような怒号だった。
その威圧感に、思わずセイジは言葉を失う。
「選んだ? 自分で決めた? 冗談だろう。コイツが選んだのは、単なる延命だ。人間に媚びる事で“次”があると思い込んでるだけだ」
その言葉がエリカだけに向けられたものには聞こえなかった。
「……セイジさん、ありがとう。シグルの言っている事は正しいわ。私は死ぬのが嫌だから、人間に媚びて延命を選んだだけ」
その言葉に、セイジは静かに拳を握りしめた。
「そら見ろ。機関者とて人間と同じでゴマを擦る」
シグルの言葉は残酷だった。
そんな緊迫した空気を和らげるように、今度はエリカが口を開く。
「嬉しいな、こうやって私の為に会いに来てくれるなんて。もう少し綺麗な格好で出迎えられれば良かったんだけど……」
その笑顔がかえって痛々しかった。
「エリカさん……」
セイジはエリカの方を敢えて見なかった。
シグルが一歩前に踏み出す。
「そこを退け、セイジ。そろそろ仕事だ、邪魔するなら殴るぞ」
それでも、セイジは退かなかった。
「させるかよ――!!」
シグルは鼻で嗤った。
「哀れだな、人間は」
その挑発的な言葉に、セイジは一瞬カッとなった。
しかし、すぐに息を深く吸い、冷静さを取り戻す。
「そうだな、オレは馬鹿だよ。愚かで、何も分かってない。だけど、オレが馬鹿だとしても、誰かを想う気持ちに偽りはない! ただ黙って見てるだけなんて出来ないんだッ!!」
シグルの目が、僅かに揺れる。しかし、それも一瞬の事だ。
セイジを見据えたまま無言で杖を振り上げる。
「やめて、シグル……」
エリカはその光景を見て、慌ててセイジを庇おうと身体を動かした。
しかし、ボロボロになったその身体は言うことを聞かず、その場に呆気なく倒れ込んでしまうだけだった。
その姿を見たシグルは、わずかに眉を寄せ、呆れたようにため息をついた。
そして、振り下ろされた杖は――乾いた音を立てて床へ転がるだけだった。
「……興が醒めた。お前、ヒトの仕事の邪魔が得意か。なら、次はきちんと下準備くらいしとけ」
シグルは冷たく舌打ちを放つと、地面に転がった杖を拾い上げた。
「もう、いいの。わたし」
セイジは咄嗟にエリカを抱き上げ、そのままシグルに歩み寄った。
「 ……頼む、シグル」
シグルは驚いたように目を見開いたが、無言でエリカを受け取る。
その手つきは驚くほど丁寧だった。
「哀れだな……どんなに栄光を背負えど、鉄の塊に過ぎない」
シグルは静かに視線を下ろし、エリカの顔を見つめた。
その表情は、かつて見たことのないほど穏やかだった。
「Spica Express……北はマツラギ、南はラダカ」
星明かりの下を駆ける藍色の車体が、脳裏を過ぎった。
「俺は……忘れてたよ。お前が、あの夜空を駆けたことを」
そして、シグルは柔らかい口調でそっと呟いた。
「僕は、最後に君の顔が見れて嬉しいよ。エリカちゃん」
その言葉が響いた瞬間、エリカの瞳が僅かに開いた。
「機関者の最後なんて、ただの廃棄物扱いだ。葬儀もなければ墓もない。人間みたいに大事にされることなんかねぇ」
だが、少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「でも……エリカは違った。お前は最期まで人間らしかったよ」
シグルは振り返らず、そのまま歩き出す。
向かう先にあるのは、役目を終えた機関者の墓場がある。
エリカは、最後まで微笑んでいた。




