009
「は? 菜々緒?」
「何? どういうこと? ナナはどうして消えちゃったの!?」
突如として消えた菜々緒の身体。目の前の現象に理解が追い付かない二人は、困惑した様子で仁志を見上げた。
「どうしてって、可愛そうだから介錯したんだが?」
「介錯!? ふざけるな! お前は! お前は、お前は菜々緒の顔を踏み潰した!」
「だから、殺せば異界の外で復活するから。悪戯に苦しませるくらいなら殺して戻した方が良いと思ったの。それに、ヒスった記憶もリセットされるから丁度良いでしょ」
立ち上がって怒りを見せる連に、仁志は冷静に道理を説く。
「ほら。菜々緒さんのことは事故だったんだ。誰も悪くないよ。研修に戻ろう」
「悪くない!? ふざけるなよ! 菜々緒を殺しといて悪くないだと!」
だが、興奮している連に仁志の言葉は届かない。仁志は困ったように頬を掻いた。
殺したとは言っても、異界内で死んだだけだ。今頃は異界に入った後の記憶を全て失った状態で復活している。つまり、菜々緒の主観では何も起こっていないに等しい。奇妙な話だが、仁志の殺人に被害者は存在せず、故に法的に一切の問題はない。
助かる見込みのない痛みと苦しみから解放したとさえ言え、いっそのこと人道的な処置だったと言って良いだろう。このような異界内での介錯は珍しいことではなく、むしろ推奨されると座学講習でも講師が説明していた。実際、講師兼監督役である恋歌は止めなかったことからも、仁志の行動は正しい。
まあ、確かに異界初日の生徒にはショッキングな出来事ではあるかもしれない。錯乱するのも無理はないことだろう。逆に言えば、初日から正確な行動を連発する仁志は、異界
に適性があると言えるだろう。
「しかも! 虫けらみたいに頭を踏み潰した!」
「確実な手段として選んだだけだよ」
まだ異界のルールに馴染んでいない同級生の叫びに、仁志は苦笑いで応える。頭を狙ったのは痛みを感じる脳を最初に取り除くことで苦しみから解放する意味があった。それに医療行為? とは言え、女子の胸に触るのは躊躇われたので心臓を潰す選択肢もない。残るは喉だが、窒息は意外と苦しいと聞く。頭を踏み潰したのは、仁志にとって極めて人道的判断であり、非難される言われはない。
「って言うか、虫けらって言うなよ。犬畜生とか、猫畜生って聞いたら気分悪いだろう? 『虫けら』にも同じ侮蔑のニュアンスがあると思うんだよな」
それよりも、連の発言は元昆虫少年としては受け入れ難いものがあった。『虫けら』呼びは著しく生命の平等性を欠く、人間上位を前提とした発言だ。コンプラ的に相応しい物とは言えなないだろう。
「お前、頭おかしいんじゃないのか?」
そんな仁志の指摘は虚しく、連の発言は更なる危険な領域に突入する。常識的に考えて『頭おかしい』は対面する人間に言って良い言葉ではない。爽やかでミントの香りがしそうな連がそんな発言を繰り返すとは、相当精神的に参っているのだろう。
しかし勘違いしてはいけない。この発言が連の本性と言うわけではないのだ。同級生が酷い痛手を負い、目の前で消え去ったと言う非日常の衝撃に混乱しているだけ。風邪を引いていればベストの走りが出来ないのと一緒で、平常でない状態の発言を本心や性根と思うのは間違っているのだ。
「調子が悪いのは君だろう? 少し休んだ方が良いよ」
時間を置けば連も冷静になるだろう。そう判断した仁志は連に背を向け、バリバリと虫の死骸を喰らうベルゼルガの元へ戻ることにした。ほぼほぼ初対面の自分が傍にいても落ち着かないだろうと言う判断である。
ナイス判断に思えたが、それは結果的に間違いだった。
「お前のせいで! 菜々緒が死んだんだろうが!」
「あ。危ないよ」
絶叫する連と、平坦な美玲の声。
今度は何だよ? と仁志が呆れた表情で振り返ると、鬼の形相と化した連が何処からか取り出した槍を突き出す所が見えた。
本当に危ないじゃん! もっとテンション上げて言えや鬼塚! と仁志が内心でブチ切れる同時、左の脇腹が信じられないくらいの熱が灯った。その熱は奇妙で、固く動じない冷たさを中心に持っており、遅れて鋭い痛みが走った。
本能的に仁志の視線は自身の脇腹へと移り、案の定、視線の先では脇腹に槍の刃が突き刺さっていた。
「ふざっ――」
産まれて初めて体験する激しい痛みと生命の危機に、脳内に大量の化学物質が溢れ出す。
アドレナリン。ノルアドレナリン。コルチゾール。
β-エンドルフィン。エンケファリン。ダイノルフィン。
その他、諸々の化学物質に仁志の魔力が反応。窮地を生き抜くために、より強く、より早く、より狂暴に、変異が発生する。
本能的に左手で脇腹に突き刺さる槍を掴むと、仁志はそれを自身の肉体へと深く突き刺した。背中側から刃先がコンニチワし、さらなる脳内物質と魔力の反応が激化する。
想定外の仁志の行動に前傾気味だった連の体幹が崩れ、不安定な足場も手伝ってその身体は宙に投げ出されてしまう。
中空に浮き身体の支配権を失った連の隙を、狂戦士の戦闘感覚が逃すはずもない。右手で連の髪の毛を掴み、右膝を顔面へと向かって蹴り出す。腰を捩った結果、涙が出るほど腹が痛い!
しかし、自らの痛みと引き換えに連への反撃は成功する。爽やかイケメンフェイスの真ん中に膝が突き刺さり、髪の毛の一部が頭皮ごと千切れ、衝撃を殺し切れなかった首から軽い音が鳴り、大きく吹き飛んで草むらに転がる。
「――けんな!」
何故、自分が刺されなくてはならないのか? 仁志は涙目で痙攣する連を見下ろす。
「お前! マジで何を考えてるの!? 普通、刺す!? それも後ろからさ! って言うか、この槍は何!?」
「守護霊の能力だよ。武器を具現化したんじゃない?」
怒り心頭の仁志が愉快らしく、生き生きと笑いながら美玲がどうでも良い補足を入れる。
「あ。そうなんだ。あのさ! 人類を守る守護霊で人を攻撃とか何を考えてるわけ!? って言うか、虫は殺せないのに、俺は刺せるって、倫理観がいかれてるだろ! くそ! 聞いてる!?」
痛みでおかしくなったテンションのまま口角泡を飛ばす仁志の言葉は、しかし連には届いていなかった。
「え?」
「あ」
草むらに倒れていた連の身体が消えていく。
異界で死んだ人間に見られる特異な現象だ。
どうやら、連は当たり所が悪く、死んでしまったらしい。
勿論、殺したのは仁志だ。
「……………………せ、」
「せ?」
「正当防衛だから! 死体確認良し!」
「良し!」
取り敢えず、マニュアルに従って死体が消えたことを指さし呼称しておくことにした。




