1-31 父(side皇帝トラディス)
「本日も下町ですか?」
「そのようだ」
自室の窓越しに、今日も軽やかにテラスから小屋の屋根に乗り移るエレナーレを見送る。
その娘の蝶のように軽い足取りに、その明るい心の内が見えるようで、思わず顔に柔らかい笑みを浮かべた。
きっと、向かう先はいつもの下町の店。そこには、娘の夫となる予定のあの男がいるのだろう。
「陛下、嬉しそうですね」
「自室ぐらいはいいだろう?」
「えぇ、もちろんでございます」
どこにいるのか分からない間者に、心情を悟られないように。皇帝の役目と、子供たちの命。暗殺から皆を守るために、レジナルドは安全な他国へ送り、エレナーレとロメリアからは敢えて距離を取った。
皇子が国にいないのなら、狙われるのは皇帝の命。であれば、皇女とは距離を取ったほうが良い。それが、自分の判断だった。
孤児院の教育費について私のところへ怒鳴り込んできたエレナを思い出す。
引き継ぎたいと申し出たロメリアに政務を処理させ、覚えさせるるため……それから、聡いエレナを政務から離し、ザイアスに極秘情報を強制的に抜き出される危険性を減らすため。――そして、国崩しの為、アルメテス城内の情報を遮断するため。
あらゆることを考慮し、本来採用して当然のエレナの提案は、その場では取り入れなかった。
エレナの失望と悲しみと怒りが手に取るように分かった。だが、必要なことだと、心を鬼にして取り合わなかった。
私は、娘たちに失望され、嫌われてしまうだろう。でも、それでも良かった。
これ以上、大切な家族が傷つくのを見たくはなかった。本当に、娘たちと、国の為になることがしたかった。自分が嫌悪される程度で済むのなら、安いものだった。
そうして、走り続けた日々。全てが片付き、落ち着いた今。のんびりと窓の外の景色を眺める。
感情を殺した、綱渡りのような毎日。そうして固まりきってしまった己の表情は、それでもまだ緩む隙きがあったようだ。
ふぅ、と息を吐きだして、穏やかな表情で空を仰ぎ、窓際の一人がけのソファーに深く沈み込む。
「もう、無表情で寡黙な陛下じゃなくてもいいのではないですか?」
「今更感情豊かになったら怖いだろう」
「そうでしょうか……」
側仕えの男のその言葉に静かに首を振る。
「それに……既に娘たちには嫌われているだろうからな」
「陛下……」
「いいのだ、それで」
辛い思いをさせた娘たちのことを想う。その不満の矛先が自分になる事で、娘たちの鬱憤が少しでもはらせるのなら、それでいい。そんな気持ちで、もう一度穏やかな空を見上げた。
「ペリスが占拠された時には、もう終わりかと思いましたが」
ポツリと側仕えの男が言葉をこぼすように言った。
「……全て、陛下の思うがままになりましたね」
もう随分長い間側仕えとして使えてきた細身のこの男は、長い年月を経て皺の増えた顔を、同じ窓の外に向けた。
午後の柔らかなひだまりの中、静かに返事をする。
「……どちらかというと、レミエーナの思い通りかもしれないがな」
「王妃様の?」
その側近の声には答えず、穏やかな陽射しの中、そっと目を瞑った。
レミエーナが育てた愛娘エレナーレが、母に教えられた下町遊びで捕まえてきた隣国の王子。その同じように下町遊びが好きな男からエレナーレへの求婚の知らせを受け取ったのは、ロメリアがドメルティス帝国への輿入れを打診され、コンラートの家へ転がり込んだあの日の夜のことだった。
二人の娘の想い人。それを知らなかった訳ではない。願わくば、それを叶えてあげたいと思った。
しかし、自分はこの国の皇帝だった。二人の娘も国に責を負う皇女。自分が下す判断は、全て国のためにあらねばならない。
男の元へ向かうロメリアの動きは止められなかった。即ち、ドメルティス帝国へ輿入れできるほどの資質が無かったということだ。
ならば、国のためにできることは一つ。エレナーレをドメルティス帝国へ輿入れさせる。災害により兵力が乱れ即座のペリスの奪還ができない今、それ以外の選択肢は無かった。
「……陛下」
「…………分かっている」
皇帝の執務室。初老の側仕えの声を聞きながら、もう一度届いた手紙に目を落とす。
エランティーヌ王国の第二王子、アレクシス。エレナーレを求め、王太子にまで成り上がった男。その身震いするほど恐ろしく深い愛は、自分のこの判断を聞いてどうするのだろうか。
ため息を吐きながら、完璧なまでの王子らしい立ち姿を思い浮かべる。
優しげな見目とは裏腹に、苛烈な本性を隠し持った男。あの男が、エレナーレがドメルティス帝国へ輿入れすると聞いたら、恐らく……
――帝国をも滅ぼすと言いかねない。
それが、自分の予想だった。
そう、あの男ならやりかねない。もしそうなら――――
すっと視線を上げる。長らくこの大きな帝国を守ってきた己の皇帝としての血が、全てのパズルを組み上げていった。
「……そうか」
「陛下?」
己の筋書きに、クックと笑い声が漏れる。そう、あるではないか。全ての――この国と、娘たちが救われる、唯一の道が。
「――滅ぼそう」
「は?」
「私とあの男ならできるだろう」
きっと自分は娘たちに嫌われるだろう。あの男にも憎まれるだろう。でも、それでいい。
――民と、娘たちが救われるのなら。
そうして、次の日。エレナーレへドメルティス帝国への人質花嫁としての命を伝えた。身を切る思いでそれを伝え、息のつまる思いでエレナーレの様子を見守る。
エレナーレは、下町へと出掛けていった。その気落ちしたような背中に心を痛めながらも、いつもの店で待っているであろう、あの男に願いをかける。
そう、今あの男は、娘に求婚するために、この国にいるのだから。
少しして。案の定、あの男は――アレクシスはこの世を滅ぼしそうな顔で私のところへ乗り込んできた。
「エレナーレが欲しいか?」
私を睨みつけるアレクシスを見て、思わず笑みが溢れた。そう、それでいい。
この老いた私と、あの国を滅ぼす命運を辿ってくれ。
エレナを深く愛するこの男のことだ。迷わずこの私の、ドメルティス帝国を滅ぼすという危ない船に乗り込むと思った。
だが、その返事は違った。
「船に乗るのは僕じゃない――貴方が僕の船に乗るんだ」
その言葉に、あまりの嬉しさに声を出して笑う。
――上等だ。見せてみろ。お前がドメルティス帝国を退け、エレナを手に入れる資格があるのか、愛を囁く権利を手に入れられるのか。
それこそが、我が国の為になる。
獰猛な顔で笑いあった私達は、そうして急ごしらえの危ない船に乗り込んだ。
アレクシスの手腕は流石だった。ペリス奪還のため、すでに動き始めていた我が息子レジナルドとすぐさま合流し、我が軍をエランティーヌの支援であっという間に補強した。そしてドメルティス帝国の内部をまるで熟知していたかのようにかきまわし、分裂させ、暗殺から逃れていたドメルティス帝国第二皇子までも見つけ出した。
我が国ができたことと言えば、ザイアスをこの城と帝都に留まらせ、エレナを政務から遠ざけて、徹底的に情報を遮断することぐらいだった。ドメルティス帝国解体のために重要なことではあったが、それでも実働はやはりエランティーヌ王国のアレクシスが中心だった。それだけ、アレクシスとエランティーヌ王国の実力は高かった。
3カ国を飛ぶように駆け回る男。いつ寝ていたのかすら分からない。狂気のように駆け回るその男が、皇帝の私ですら動かして、砂の山を崩すように国を滅ぼしていく。
――恐ろしい男だ。
素直に、その抜かりなさに感心し、そして――敵に回してはならない。それだけは分かった。
気がつけば、エレナばかりか、侍女のマリアやレジナルドでさえも味方に引き入れていた。そもそも、アレクシスは何故かレジナルドが我が国の第一皇子だと知っていた。身分を偽ってエランティーヌ王国の学園に入れていたのだが。
恐らく、知っていて黙認し、友にまでなっていたのだろう。
あの男の手にかかれば、国の強弱すらチェスの駒を動かすように、容易に動かせる。そんな気がした。
「――っ、」
「陛下!痛みますか?」
エリザベスに刺された足がずきりと傷んだ。それに比べ、私はなんと老いたことか。苦笑いをしながら顔を上げる。
「……無様な姿を見せて悪いな」
「陛下……」
「大丈夫だ、このぐらいで死んだりはしない」
ハッと側仕えの男が息を飲んだ。
やはり心配していたかと、苦笑いをする。
「いいか、私は気を病んで死ぬようなタマではない」
「さ、作用ですか……」
「そうだ。孫の顔も見ずに死んでみろ。レミエーナにふざけるなと追い返されてしまう」
その言葉に、側仕えの男は、顔の皺を更に深めて、懐かしそうな笑顔を見せた。
「――そうですね。レミエーナ様らしいです」
「だろう?」
同じように笑いながら、懐かしい妻の姿を思い出した。
エレナと同じ、群青の髪。溌剌とした立ち姿。エレナを産んだ後、胸の病を患ってからも、レミエーナは太陽のように底抜けに明るかった。
エレナがメイドの子のように母の手作りのぬいぐるみがほしいと言い出して。レミエーナは夜な夜なぬいぐるみ作りの練習をしていた。
――できたわ!
――熊か。
――は!?違うわ、うさぎよ!
――嘘だろう……
壊滅的な一作目を思い出して、思わず吹き出した。
「明るい方でしたよね」
「そうだな」
傷だらけの指。無理するなと軟膏を塗ってやった夜。レミエーナは、次こそは、と何度も何度も作り直していた。
そんな、レミエーナが作った、ひしゃげたうさぎのぬいぐるみ。
君は、そのうさぎと小さな娘に、この国の未来を託した。
「――やっぱり、本当に君の思い通りになったのかもしれないな」
その言葉が、独り言のように、無駄に広い皇帝の居室に響く。
他国を渡り歩いた息子、下町を駆け回る娘。そして娘は下町で愛する男と出会い、君の作ったぬいぐるみに託された手紙を見つけ、この国を守った。
――レミエーナ。君の子どもたちは、立派に育った。きっと、自分の力で、幸せになる。
夜が更けていく、ただ一人の寝室。
痛む足を引きずりながら、窓を開ける。
側妃を受け入れることになったあの日。レミエーナは、皇帝として、この国を統べるものとして、必要なことだと言った。真っ直ぐな美しい緑の瞳。そして、私達は側妃エリザベスを迎えた。
エリザベスは偽物だった。それでも、長い間、私達は連れ添った。レミエーナは、正妃として、立派にそれを成し遂げ、エリザベスも穏やかに、正妃と良い関係を築いていった。
ロメリアは、何も知らなかった。エリザベスは、知らせることもできたはずだった。
エリザベスが最後のあの日までロメリアに何も知らせなかった理由は、もう分からない。
でもそこに、少しの愛があって欲しいと願う。
レミエーナ。君なら、どう思うだろうか。
ひんやりとした、爽やかな夜風。私は愛しい妻を思い出しながら、群青色の夜空に語りかけるように、いつまでもその夜空を見上げていた。
読んでいただいてありがとうございました!
不器用なパパは割と人情に厚い男でした。
「レミエーナ様とのエピソード切ない……」と涙して下さった神読者様も、
「これから穏やかな日々が来るといいね」と皇帝の幸せを願ってくれた優しいあなたも、
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お話は残り三話!
明日完結予定です。
ぜひまた遊びに来てください!




