第9話
泥水に沈む家屋の幻影が、網膜にこびりついて離れない。
崩落した山肌。濁流に呑まれた道路。雨の冷たさが肌を刺す中、泥に埋もれた小さなランドセルが見えた。
助けを求める声が、幻聴となって耳の奥で響き続ける。俺は泥まみれの手を伸ばすが、指先は空を切るばかりだ。安全な場所から報道の言葉を紡ぐだけで、誰一人として救い出すことができない。
冷たい泥が胃の奥に流れ込んでくる感覚に、息が詰まった。
「……っ!」
肺に空気を吸い込み、跳ね起きる。
硬い長椅子の感触と、インクの酸っぱい匂いが鼻を突いた。周囲を見回すと、そこは帝都日報の仮眠室だった。
壁に掛けられた時計の針が、午後二時を指している。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、深く息を吐き出した。
八月三十日。
運命の日まで、あと二日を切っている。
「先輩、うなされてましたよ」
入り口の扉が開き、吉村平吉が顔を出した。丸眼鏡を押し上げながら、少し呆れたような視線を向けてくる。
「悪い。少し寝落ちした」
「無理もないです。昨夜からずっと動きっぱなしじゃないですか。ほら、冷たい水でも飲んでください」
吉村から手渡された湯呑みを受け取り、一気に喉へ流し込む。冷たい水が食道を通り抜け、ようやく頭がはっきりとしてきた。
「頼まれていた例のブツ、手配できましたよ」
吉村は手元の帳面を開き、得意げな笑みを浮かべた。
「軍の払い下げ品を扱ってる怪しいブローカーを相手にするなんて、僕の寿命が縮みましたよ。正規の印刷所が使えないからって、わざわざ軍のキャンセル品を買い取るなんて。あの売れ残りの耐水紙と特殊インク、随分と高くつきました」
「それでいい。水に濡れても破れない紙が必要なんだ」
俺は立ち上がり、上着を羽織った。
地震の後は、水道管が破裂して水浸しになる場所もあれば、延焼を防ぐために水が撒かれる場所もある。普通のザラ紙では、すぐに破れて読めなくなってしまう。どんな過酷な状況下でも、情報が手元に残らなければ意味がないのだ。
「次はどこへ向かうんですか?」
「本所区だ。被服廠跡地の近くに広大な倉庫を持つ資産家に会いに行く」
俺たちは足早に編集部を後にした。
外に出ると、夏の強い日差しが容赦なく照りつけていた。通りには、引っ越しの荷物や商品を山のように積んだ大八車が行き交っている。
車輪が軋む音が、鼓膜を不快に揺らす。
「おい、気をつけろ! 荷が崩れるぞ!」
威勢の良い声が飛び交い、大八車の列が狭い路地を埋め尽くしていく。荷車には、箪笥や布団、米俵などが山積みにされている。引く男たちの汗ばんだ背中を見つめながら、俺は奥歯を強く噛み締めた。
史実では、この巨大な荷車の列が避難民の足を引っ張った。道を塞ぎ、荷物に火の粉が燃え移り、巨大な火柱となって人々を焼き尽くしたのだ。
「吉村、あの大八車の列を見てどう思う」
「どうって……活気があっていいんじゃないですか? 帝都の物流を支えてるんですから」
「あれが全部、火種になるんだ」
俺の低い声に、吉村は息を呑んで押し黙った。
本所区にある山城屋徳兵衛の屋敷は、黒々とした立派な門構えだった。
門をくぐると、打ち水がされた石畳が続いている。案内された座敷からは、手入れの行き届いた庭園が見えた。池の鯉が跳ねる音が、静寂の中に響いている。
「帝都日報の記者さんが、わしに何の用かね。広告の枠なら、番頭に任せてあるんだが」
恰幅の良い初老の男が、煙管を吹かして待っていた。山城屋徳兵衛。商人らしい愛想の良い笑みを浮かべているが、その目は計算高く俺たちを値踏みしている。
「今日は、折り入ってお願いがあって参りました」
俺は鞄から、編集長に突き返された警告記事のゲラ刷りを取り出し、畳の上に広げた。
「山城屋徳兵衛さん。明後日、関東一円を未曾有の大地震が襲います」
山城屋の眉が、わずかにピクリと動いた。
「本所区は特に危険です。密集した家屋が倒壊し、大規模な火災が発生します。逃げ場を失った人々が、被服廠跡地に殺到するはずです。どうか、あなたの持つ広大な倉庫を無償で開放し、避難場所として提供してください。そして、備蓄している水を分け与えてほしいんです」
俺は真っ直ぐに山城屋の目を見た。
だが、山城屋は煙管を灰皿に叩きつけ、ふっと鼻で笑った。
「お前さん、随分と突飛な作り話をするもんだな」
「作り話ではありません。専門家の裏付けもあります」
「地震がいつ来るかなど、誰にも分からん。それを明後日だと言い切る。しかも、商売道具の倉庫を、どこの馬の骨とも知れん連中のためにタダで開け渡せだと? あり得ないね」
当時の常識という分厚い壁が、俺の前に立ち塞がる。
編集長に突き返された時と同じだ。誰も、迫り来る危機を現実として受け入れようとしない。
「徳兵衛さん、命が懸かってるんです! 倉庫の品物が燃えてしまえば、元も子もないでしょう!」
「言葉を慎みなさい、記者さん。わしはな、この本所で何十年も商売をやってきた。地震なんてものは、年に何度も来る。その度に蔵を開けていたら、商売あがったりだ。それに、備蓄の水は売り物だ。タダで配るわけにはいかん」
「命より金が大事だと言うんですか!」
「お前さん、若いのう。金がなきゃ、命は繋げんのだよ。わしは自分の店と奉公人を守るだけで手一杯だ」
山城屋は冷たく言い放ち、立ち上がった。
吉村が慌てて俺の肩を掴み、深く頭を下げる。
「す、すみません! うちの先輩、少し熱くなってまして。失礼します!」
俺は吉村に腕を引かれ、半ば引きずられるようにして屋敷を追い出された。
屋敷の門前で、俺は舌打ちをした。
「やっぱり、資産家を説得するのは無理がありましたね」
吉村がため息をつきながら、丸眼鏡のズレを直す。
「ああ。権威や金を持つ連中は、自分の財産を守ることで頭がいっぱいだ。常識の壁は厚い」
俺は拳を強く握りしめた。
正規の報道ルートは絶たれた。有力者の協力も得られない。
ならば、やるべきことは一つだ。
「吉村。俺は私費で号外を刷り、独自にばら撒く」
「先輩……」
「俺の持っている情報を駆使して相場で稼いだ資金がある。それを全額投入して、下町の顔役たちを直接巻き込む。独自の配布網を作るんだ」
「それにしても先輩、よくあんな大金を用意できましたね。まさか、会社の金に手を出したんじゃ……」
「馬鹿言え。正当な取引で得た金だ」
俺の決意に、吉村は少しだけ目を丸くし、やがて呆れたように笑った。
「あんた、本当に諦めが悪いですね。わかりましたよ。僕は耐水紙の印刷準備を急がせます」
「頼む。俺は下町を回る」
確かな前進の手応えを感じながら、俺は歩き出した。
◆ーーーー◆
一方、少し離れた路地裏。
アイロンの効いた制服を隙なく着こなした巡査、香川清太郎は、電柱の陰から神田栄一の動向を監視していた。
執拗な尾行を続けてきた香川は、手元の帳面に万年筆を走らせる。
「本所区の資産家と接触。その後、下町方面へ移動……」
香川は鋭い眼光で、遠ざかる神田の背中を睨みつけた。
最初は、単なる頭のおかしい記者かと思っていた。社会不安を煽る流言飛語を撒き散らす、迷惑な存在だと。
だが、神田の動きはあまりにも計画的だ。
特殊な紙を買い集め、印刷職人と密会し、さらには下町の顔役たちと接触を図ろうとしている。
「君は、一体何を企んでいる?」
単独の狂行ではない。組織的な不穏分子による、大規模な扇動工作の可能性が高い。
法と秩序を守るため、これ以上の野放しは危険だ。
香川は手帳を閉じ、特高警察の上層部へ報告を上げる決意を固めた。
警察の本格的な介入は、いつ始まるのか。




