第8話
岩田の印刷所を出た俺は、次の準備を進めるため、再び帝都の街へと歩き出した。
夏の強い日差しが、容赦なくアスファルトを焦がしている。
大通りに出ると、荷車に家財道具を山のように積み込んだ業者が、汗だくになって通り過ぎていった。引っ越しか、あるいは納品だろうか。
あの巨大な荷車が、運命の日に道を塞ぐ。逃げ惑う人々の足を止め、炎の渦に巻き込む最大の要因になるのだ。
その光景を想像するだけで、胃の腑が鉛のように重くなった。
ふと、背後の路地から視線を感じた。
振り返っても、行き交う人々の姿しかない。だが、確かに誰かが後をつけてきている気配があった。
官憲の犬か、あるいは別の組織か。
警戒を強めながらも、今は立ち止まっている暇はない。俺は足早に帝都日報の社屋へと向かった。
◆ーーーー◆
活字のインクと煙草の煙が入り混じった編集部に戻ると、どっと疲労が押し寄せてきた。
自分のデスクに座り、集めた資料を整理しようとしたところで、急激な眠気に襲われた。連日の奔走で、体は限界に近付いていたらしい。
ほんの少しだけ目を閉じるつもりが、意識は深い泥の底へと沈んでいった。
夢を見た。
濁流に呑まれた家屋。崩落した山肌。
現場から声を張り上げ、レンズ越しに惨状を伝えていた現代の記憶。いくら声を枯らして叫んでも、失われた命は戻らなかった。
事後の悲惨さを並べ立てるだけで、誰一人として救えなかったという痛切な後悔。
土砂崩れが迫る中、逃げ遅れた人へ手を伸ばし——。
「……っ!」
跳ね起きると、肺に埃っぽい空気が流れ込んできた。
荒い息を吐きながら周囲を見回す。電話のベルと記者たちの怒号。大正十二年の編集部だ。
壁の時計を見る。時間は確実に削り取られている。
破滅の時まで、あと三日。
二度と同じ轍は踏まない。今度こそ、報道の力で命を救ってみせる。
額の汗を拭い、強く拳を握りしめた。その時だった。
「先輩、起きましたか」
目の前に、丸眼鏡をかけた小柄な青年が立っていた。後輩の吉村平吉だ。
奴の手には、俺のデスクに置いてあったはずの書類が握られている。橘薫が徹夜で書き上げた、相模トラフとプレート反発に関する見解書だ。
「お前、勝手に何を見てるんだ」
俺は慌てて書類をひったくろうとしたが、吉村はさっと身をかわした。
いつもなら軽薄な笑みを浮かべるはずの顔が、今は妙に強張っている。
「これ、帝都大学の学者が書いたものですよね。地震の発生メカニズムと、三日後に大地震が起きるという予測……」
吉村は書類から目を離し、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「先輩が最近、狂ったように走り回っていたのは、これを記事にするためだったんですか」
「そうだ。だが、編集長には突き返された」
俺は自嘲気味に笑い、椅子に深く腰掛けた。
「根拠がない流言飛語だとさ。当時の……いや、今の常識じゃ、地震の予知なんて誰も信じない。学界で冷遇されている橘の理論なら、なおさらだ」
「当たり前ですよ。こんな突拍子もない話、普通の新聞が載せるわけないじゃないですか」
吉村は呆れたようにため息をついた。
だが、その手は書類をしっかりと握りしめたままだ。
「でも、先輩はただ頭がおかしくなったわけじゃなかったんですね。専門家の裏付けまで取って、本気で帝都の危機を知らせようとしていた」
「本気だ。火災旋風の危険地帯から人を遠ざけ、安全な場所への逃げ道を前もって知らせておかないと、何万人もの人が死ぬ」
俺の言葉に、吉村は押し黙った。
編集部の喧騒が、俺たち二人の間だけ遠のいているように感じた。
吉村は事なかれ主義で、面倒なことを嫌う性格だ。これ以上巻き込むのは酷かもしれない。
「書類を返せ。お前はもう関わるな」
俺が手を差し出すと、吉村は首を横に振った。
「記事にできないなら、どうするつもりですか。諦めるんですか」
「諦めるわけないだろ」
俺は声を潜め、吉村に顔を近づけた。
「正規の紙面がダメなら、自分で号外を刷ってばら撒く。相場で稼いだ資金はある。神田の印刷職人にも話をつけてきた」
「私費で号外を!? 正気ですか、警察沙汰になりますよ!」
吉村が思わず声を荒らげ、周囲の記者が何事かとこちらを振り向いた。
俺は目で吉村を制し、声を落とすように促す。
「普通の印刷所じゃ断られるからな。モグリの職人を頼った。売れ残りの耐水紙と特殊なインクを使って、大量に刷り上げる算段だ」
「耐水紙……そんなものまで手配してるんですか」
吉村は絶句し、俺の顔と手元の書類を交互に見比べた。
その瞳の奥で、ジャーナリストとしての正義感と、保身の感情が激しくせめぎ合っているのがわかった。
「あんた、本当にやる気なんですね」
「命が懸かってるんだ。どんなに冷笑されても、警告はやめない」
俺の決意を込めた言葉に、吉村は深く息を吐き出した。
そして、手元の書類を丁寧に俺のデスクに置き直す。
「……わかりましたよ。僕の負けです」
「吉村?」
「先輩一人に、こんな貧乏くじを引かせておくわけにはいきません。号外のガリ版刷りでも、下町での情報収集でも、何でも手伝いますよ」
吉村は丸眼鏡を押し上げ、いつもの少し砕けた笑みを浮かべた。
「ただし、警察に捕まる時は先輩が全責任を負ってくださいよ」
「ああ、約束する。お前には指一本触れさせない」
俺は立ち上がり、吉村の肩を力強く叩いた。
ずっと一人で抱え込んでいた重圧が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
橘薫という理論の裏付けに続き、吉村という身内の仲間を得た。
分厚い常識の壁に、また一つ確かな風穴が開いたのだ。
だが、帝都中に号外を配り歩くには、まだ人手が足りない。
下町の顔役や、情報を拡散するための独自の網を構築する必要がある。
仲間を得た俺は、次に誰を巻き込んでいくべきか。
頭の中で帝都の地図を広げながら、俺は新たな一歩を踏み出すための計画を練り始めた。




