第7話
橘薫の研究室を飛び出し、俺たちは帝都大学の構内を急ぎ足で歩いていた。
容赦なく照りつける八月の太陽が、じりじりと肌を焼く。蝉の鳴き声が耳障りなほどに響き渡り、すれ違う学生たちは額の汗を拭いながら呑気に笑い合っていた。
彼らの目には、この平穏な日常が明日も明後日も続くと信じて疑わない光がある。
だが、俺には見えていた。この美しい赤レンガの校舎も、談笑する若者たちの未来も、数日後には瓦礫と炎の中に沈むという残酷な事実が。
正門を抜けて大通りに出ると、荷車を引く男たちの威勢の良い声が飛び込んできた。
山のように家財道具を積んだ大八車が、土埃を上げながら何台も連なって通り過ぎていく。引越しだろうか、それとも商店の納品だろうか。荷台には箪笥や布団が危なっかしく積み上げられ、縄で固く縛られている。
その光景を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
史実では、あの巨大な荷車が避難路を塞ぎ、火災旋風の被害を絶望的なまでに拡大させたのだ。逃げ惑う群衆が持ち出した大八車が絡み合い、身動きが取れなくなったところに炎が襲いかかる。
「大八車での避難は、絶対に止めさせなければならない……」
無意識に呟いた言葉に、隣を歩く薫が不思議そうな顔を向けた。
「神田さん、本当にあの職人さんは引き受けてくれるのでしょうか」
小走りでついてくる彼女の白いブラウスの背中には、すでに汗が滲んでいる。
「説得してみせます。橘先生が書いてくれたこの見解書があれば、必ず」
俺は懐に手を入れた。分厚い紙の感触が、確かな重みとなって指先に伝わってくる。
前だけを見据えて歩きながら、俺はきつく唇を噛み締めた。
崩れ落ちた斜面。泥水に沈んだ町。レンズの向こう側へ惨状を訴え続けた現代での日々。
どれほど声を張り上げても、失われた命は戻らない。伝えるだけで誰も救えなかったという痛切な後悔が、冷たい泥のように胃の奥に沈殿していた。
あの日、古びた四畳半の和室で目覚め、日めくりカレンダーの太い墨字を見た時の衝撃は、今も生々しく残っている。
大正十二年八月二十九日。
運命の日まで、あと三日しかないという絶望的な事実。
あの瞬間から、俺の時間は狂ったように加速し始めた。
今度こそ、一つでも多くの命を救う。
その強い信念だけを頼りに、俺は帝都日報の編集長・桐島に直訴した。
下町の密集地帯が火の海になること。広場への誘導ルートを事前に周知しなければ、何万人もの人が死ぬこと。
必死に訴えた。だが、当時の常識という壁は、想像以上に厚く、冷酷だった。
「君は、寝ぼけているのか。それとも暑さで頭をやられたか」
桐島の冷ややかな視線と、突き返された原稿用紙。
科学的な観測網も未発達なこの時代において、未来の知識は単なる妄言でしかなかったのだ。
正規の報道ルートが絶たれた時、俺は決意した。
会社が動かないなら、俺個人の手でやるしかない。私費を投じてでも、自らの手で号外を刷り、帝都中にばら撒くのだと。
未来の知識を駆使して相場で資金を作り、下町の顔役である辰五郎に掛け合って配布網の構築も進めた。
そして今、橘薫という強力な味方を得て、科学的根拠という最大の武器を手に入れた。
歴史を変えるためのピースは、一つずつ揃いつつある。
だが、肝心の印刷を引き受けてくれる職人がいなければ、すべては絵に描いた餅だ。
焦燥感が、背中を焼くように急き立てていた。
◆ーーーー◆
神田の路地裏。インクと機械油の匂いが混ざり合った、独特の空気が漂う岩田鉄蔵の印刷所。
引き戸を開けると、規則正しい機械音が響いてきた。
「またおめえか」
岩田は輪転機の調整をしながら、ぶっきらぼうに言い放った。
白髪交じりの短髪に、インクの染みがついた前掛け。筋骨隆々の背中は、相変わらず他者を寄せ付けない頑固さを漂わせている。
俺は無言で歩み寄り、懐から橘薫の見解書を取り出して、油まみれの作業台の上に置いた。
「帝都大学の地震学者から、裏付けをもらってきました。俺の言っていることは、決してデタラメじゃありません」
岩田は手を止め、訝しげに俺と、そして俺の背後に立つ薫を交互に見た。
「……学者先生の書付だぁ?」
岩田は前掛けで手を拭い、見解書を手に取った。
難しい専門用語と数式が並ぶ紙面を、しかめっ面で睨みつける。
「俺には小難しい理屈はわからねえ。だが……」
岩田の視線が、薫に向けられた。
「あんたが、これを書いたのか」
薫は一歩前に出た。その瞳には、研究室で見せた理知的な熱が宿っていた。
「はい。橘薫と申します。神田さんの仮説は、私の研究データを完璧に補完するものでした。数日以内に未曾有の大地震が起きる可能性は、極めて高い。これは、科学的な事実に基づく警告です」
凛とした声が、印刷所の中に響き渡る。
岩田は小さく鼻を鳴らし、再び紙面に目を落とした。
「女の学者先生とは珍しいな。だが、おめえらが本気だってことだけは伝わってくるぜ」
岩田の態度は、以前のような完全な拒絶ではなくなっていた。
学者の裏付けまで取り付けてきた俺の執念と、薫の真摯な訴えが、職人としての何かに触れたのかもしれない。
「だがな、モグリの仕事はやらねえって言ったはずだ。筋の通らねえことは引き受けられねえ」
岩田は紙を台に戻し、腕を組んだ。
「俺は活字と印刷機を愛してる。出所不明の怪文書を刷って、世間を騒がせるような真似はしたくねえんだ。活字ってのはな、人々に真実を伝えるためのもんだ」
「筋なら通します。これは、何万人もの命を救うための仕事です」
俺は一歩踏み出し、岩田の目を真っ直ぐに見据えた。
「あんたの腕と、その輪転機が必要なんです。どうか、力を貸してください」
岩田は深く息を吐き、頭を掻いた。
「……ったく、厄介な野郎だ」
岩田は視線を逸らし、工場の隅に積まれた紙の山を顎でしゃくった。
「見ろ、あの山を。軍の注文で仕入れた耐水紙だ。だが、急にキャンセルされやがって、大量に余ってて邪魔で仕方ねえんだ」
耐水紙。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に電流が走った。
「その紙、俺に買い取らせてください」
「あ?」
岩田が間の抜けた声を上げる。
「その耐水紙を使って、号外を刷るんです。水に強いなら、汗や雨で濡れても破れない。震災後の過酷な状況下で、避難の時に持ち歩くには最適だ」
俺は紙の山に駆け寄り、一枚を引き抜いて感触を確かめた。
厚みがあり、表面が滑らかだ。これなら、泥水に落としても文字が読めるかもしれない。
現代の災害現場でも、情報伝達の手段が絶たれた避難所では、一枚の紙きれが命綱になることがあった。
「おめえ、本気で言ってんのか? あれは特殊なインクじゃねえと綺麗に刷れねえんだぞ。手間もかかるし、普通の紙よりずっと高くつく」
「手間賃も、インク代も、紙代も、全部俺が払います。相場で稼いだ金がある。だから、その紙で号外を刷ってください」
俺の言葉に、岩田は沈黙した。
腕組みをしたまま、じっと俺の顔を見つめる。
その目には、呆れと、そして僅かな感心が入り混じっていた。
「……考えておく」
岩田は短くそう言い捨て、再び輪転機に向き直った。
「考えておく、ってことは……」
「今すぐ首を縦に振るわけじゃねえ。だが、おめえの覚悟はわかった。少し時間をくれ」
完全な拒絶ではない。
岩田の心は、確実に動き始めている。
「ありがとうございます。また来ます」
俺は深く頭を下げた。薫も隣で丁寧に一礼する。
印刷所を後にすると、夏の強い日差しが再び俺たちを包み込んだ。
岩田は最終的に輪転機を回してくれるのか。
確証はない。だが、分厚い壁に、確かなひびが入ったのを感じた。
残された時間は少ない。俺は次の準備を進めるため、再び帝都の街へと歩き出した。




