第6話
「あなたの言う『プレートの反発』……その詳細を、聞かせてもらえますか」
時計の針が、また一つ進む音がした。
タイムリミットまで、あと六十七時間。
分厚い常識の壁に、ほんのわずかな、だが確かな亀裂が走った瞬間だった。
俺は深く息を吸い込み、薫の机に広げられた手書きの海図を指差した。
「地球の表面は、巨大な岩盤……『プレート』と呼ばれるもので覆われています」
俺は、現代の知識を大正の言葉に翻訳しながら、慎重に言葉を選んだ。
「相模湾の底では、海のプレートが陸のプレートの下へと、年間数センチという速度で沈み込んでいるんです」
薫は息を呑み、海図と俺の顔を交互に見た。
「岩盤が、沈み込む……? そんな途方もないことが、現実に起きていると言うのですか」
薫は眉をひそめ、首を横に振った。彼女の理知的な顔立ちに、深い疑念が刻まれる。
「現在の地震学では、地下の断層がずれることで地震が起きると考えられています。巨大な岩盤が動くなどという仮説は、聞いたことがありません」
「断層のずれも、結果の一つに過ぎません」
俺は海図の相模湾のあたりを指先でなぞった。紙のざらついた感触が指に伝わる。
「根本的な原因は、プレートの運動です。海のプレートが陸のプレートを引きずり込みながら沈んでいく。その境界に蓄積された歪みが限界に達し、一気に跳ね返る。それが、明後日に帝都を襲う大地震の正体です。直下型ではありません。相模トラフを震源とする、巨大な海溝型地震だ」
「海溝型……」
薫は呟き、弾かれたように机へ向かった。
「もし、あなたの言う通り、相模湾の底で巨大なエネルギーが蓄積されているとしたら……」
山積みになった資料の中から数枚の紙を引き抜き、猛然と計算式を書き殴り始める。ペン先が紙を擦るカリカリという音が、静まり返った研究室に響き渡った。窓の外からは、遠くを走る市電の走行音が微かに聞こえてくる。
彼女が計算に没頭する背中を見つめながら、俺は固く拳を握りしめた。
昨日、古びた四畳半の和室で目覚めた時の、あの冷たい絶望感が脳裏をよぎる。
泥水と瓦礫の匂い。マイクを握りしめ、カメラに向かって被害の甚大さを叫び続けた記憶。現代で災害報道に携わりながら、結局は事後の悲惨さを伝えるだけで、いくら声を枯らしても誰も救えなかった。
その痛切な後悔を抱えたまま死んだはずの俺が、なぜか大正十二年の若手記者として蘇った。
壁に掛けられた日めくりカレンダーの日付を見た瞬間の、心臓が凍りつくような感覚。
運命の日まで、あと三日しかない。
その事実に気づいた時、俺は誓ったのだ。今度こそ、報道の力で一つでも多くの命を救ってみせると。
「……合います」
不意に、薫が震える声で呟いた。
彼女は手元のノートを見つめたまま、ゆっくりと振り返った。その瞳には、驚愕と興奮が入り混じった強烈な光が宿っていた。
「相模トラフを震源とする巨大なエネルギーの放出。これなら、私の観測データとすべての矛盾なく説明できる。断層のずれだけでは説明がつかなかった地殻変動の規模も、プレートの反発という概念を用いれば、完璧に計算が成り立ちます」
彼女は息を弾ませ、俺に詰め寄った。
「ですが、なぜあなたはこれを? これは、世界のどの学者も提唱していない、全く新しい理論です」
「俺には分かるんです。そして、これを知っている以上、黙っているわけにはいかない」
俺は一歩踏み出し、彼女の理知的な瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺は昨日、この事実を元に警告記事を書きました。火災旋風の危険性を訴え、安全な避難ルートを周知するために」
俺は言葉を区切り、苦い記憶を噛み殺した。
「だが、編集長には『根拠がない』と突き返された。君は寝ぼけているのかと、一笑に付されたんです」
当時の常識という分厚い壁。大正の世において、地震を予知するなどオカルトの類でしかない。学界の権威である大槻教授でさえ、俺の言葉を非科学的な妄言と切り捨てた。
正規の紙面で警告を発する道は、完全に絶たれたのだ。
「だから、俺は決めたんです。正規のルートが駄目なら、私費で号外を刷り、帝都中にばら撒く」
薫は目を丸くし、絶句した。
「号外を、個人で……? そんなこと、莫大な費用がかかるはずです。一介の記者が払える額では……」
「資金なら、すでに手配しました。確実な情報を使って、相場で必要な額は稼ぎ出した」
俺は懐に忍ばせた札束の感触を思い出しながら言った。
「あとは、説得力を持たせるための理論的裏付けと、印刷してくれる職人が必要なんだ。大八車での避難を禁じ、広場への誘導ルートを事前に周知しなければ、何万人もの人が死ぬ。それを防ぐためには、どうしてもあなたの力が必要なんです」
歴史を変える無謀な戦い。そのために、俺はすべてを投げ打つ覚悟を決めていた。どんなに冷笑されても、警告をやめるつもりはない。
薫は呆然と俺を見つめていた。
無理もない。昨日今日出会ったばかりの男が、突如として完璧な地震理論を語り、私費で号外をばら撒くと言い出したのだ。狂人の戯言だと思われても仕方がない。
だが、彼女の表情から次第に戸惑いが消え、代わりに確かな熱が燃え上がり始めていた。
「女の浅知恵だと、誰も私の研究に見向きもしなかった……。大槻教授も、他の助手たちも、私を嘲笑うばかりで」
彼女は震える手で、計算式がびっしりと書き込まれたノートを胸に抱きしめた。
「でも、あなたの仮説は、私の欠落を完璧に補完している。私の計算は、間違っていなかった」
自分の研究が正しかったという驚きと喜びが、彼女の頬を紅潮させている。長年抑圧されてきた探究心が、ついに正当な評価を得た瞬間だった。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみではなく、純粋な科学的真理に到達した歓喜の涙だった。
「神田さん」
薫は袖口で涙を拭い、毅然とした声で俺の名を呼んだ。
「私に、協力させてください。あなたの号外に、科学的な根拠を与えます。私の名前と研究データを使って構いません。それが、一人でも多くの命を救う力になるのなら」
「ありがとうございます、橘先生」
俺は深く頭を下げた。強力な味方を得た。科学的根拠という最大の武器が手に入ったのだ。胃の奥に沈殿していた冷たい泥のような無力感が、少しだけ晴れていくのを感じた。
残る壁は、印刷を引き受けてくれる職人だけ。
俺は、一度はモグリの仕事だと断られた岩田鉄蔵の頑固な顔を思い浮かべた。
理論的裏付けを得た今なら、あの男を説得できるかもしれない。いや、絶対に説得してみせる。
「急ぎましょう。時間がありません」
俺たちは連れ立って、研究室を飛び出した。




