第5話
帝都大学の正門。赤レンガの重厚な建築が、朝の陽光を浴びてそびえ立っている。
背後を振り返った。鳥打帽の男の姿はない。だが、首筋にへばりつくような視線の気配は消えていなかった。
特高警察か、それとも別の何者か。目的は分からない。
ただ一つ確かなのは、俺に残された時間が砂時計のように落ち続けているということだ。
現代の記憶が脳裏をよぎる。
崩落した山肌。濁流に呑まれた家屋。マイクを握りしめ、カメラに向かって被害の甚大さを叫び続けた日々。
どれだけ言葉を尽くしても、失われた命は戻らなかった。
あの冷たい泥のような無力感を、二度と味わうつもりはない。
今度こそ、報道の力で命を救う。そのためなら、どんな壁にぶつかろうと構わない。
◆ーーーー◆
「君、正気で言っているのかね」
帝都大学の教授室。
革張りの椅子に深く腰掛けた大槻玄之助は、立派なカイゼル髭を震わせて鼻で笑った。
机の上には、俺が徹夜で書き上げた地震の予測データと避難経路のメモが置かれている。大槻はそれに触れようともしなかった。
「九月一日に、相模湾を震源とする未曾有の大地震が起きる。それに伴い、帝都の各所で火災旋風が発生する……。まるで三文小説だな」
「小説ではありません。事実です」
俺は大槻の目を真っ直ぐに見据えた。
「特に下町の密集地帯は火の海になります。大八車での避難を禁じ、広場への誘導ルートを事前に周知しなければ、何万人もの人が死ぬんです。どうか、先生の口から警鐘を鳴らしてください」
大槻はゆっくりと立ち上がり、見下ろすように俺を睨みつけた。
「地震を予知するなど、現在の科学では不可能だ。ましてや火災旋風などという荒唐無稽な現象、非科学的な妄言に過ぎん」
「ですが、万が一ということも——」
「記者は事実だけを書いていればいいんだ」
大槻の低い声が、冷たく部屋に響いた。
「素人が学問の領域に口を出すな。君のような不穏分子が、根拠のない流言飛語で帝都の民を惑わすのだ。とっとと帰りたまえ」
取り付く島もなかった。
大槻は俺のメモを無造作に丸め、屑籠へと放り投げた。
これ以上言葉を重ねても、この権威の塊のような男が動くことはない。
俺は奥歯を噛み締め、黙って頭を下げると、教授室を後にした。
◆ーーーー◆
廊下に出ると、夏の蒸し暑い空気が肺にまとわりついてきた。
常識という壁は、あまりにも分厚い。
編集長の桐島に原稿を突き返された時の絶望感が、再び胃の奥から這い上がってくる。
正規の報道ルートは絶たれた。権威ある学者の後ろ盾も得られない。
残された道は、私費で号外を刷り、独自にばら撒くことだけだ。
だが、単なる熱意だけで配られたビラを、誰が信じるというのか。
説得力を持たせるためには、どうしても理論的な裏付けが必要だった。
「また橘の奴、おかしな理論を振りかざして教授に噛み付いたらしいぞ」
ふと、すれ違った若い助手たちの嘲笑が耳に飛び込んできた。
「相模湾の海底がどうのこうのと。女の浅知恵で学問ができると思っているのか。ヒステリーもいいところだ」
「大槻先生も頭を抱えておられたよ。お嬢さんは黙っていなさい、とね」
助手たちは肩を揺らして笑い合いながら、廊下の奥へと消えていった。
橘。
その名前に、俺は足を止めた。
異端扱いされている女性学者。大槻の学説に真っ向から異を唱え、相模湾の海底に注目している人物。
もしかすると、彼女なら。
俺は助手たちが歩いてきた方向へ引き返し、薄暗い階段を下りた。
地下の突き当たりに、その部屋はあった。
木製のドアには『橘研究室』と書かれた粗末な札が掛かっている。
ノックをすると、しばらくして「どうぞ」という硬い声が響いた。
ドアを開けた瞬間、古い紙とインクの匂いが鼻を突いた。
部屋の中は、床から天井まで積み上げられた資料の山で埋め尽くされている。足の踏み場もないほどの文献の隙間で、一人の女性が机に向かっていた。
「何かご用ですか。私は今、忙しいのですが」
振り返った彼女——橘薫は、理知的な瞳で俺を射抜いた。
年の頃は二十歳そこそこだろうか。結い上げた髪から後れ毛が落ちているのも気にせず、ペンを握りしめている。
「帝都日報の神田と申します。橘先生ですね」
「先生、と呼ばれる筋合いはありません。ただの助手ですから」
薫は冷たく言い放ち、再び手元の資料に目を落とした。
「新聞記者の方が、こんな地下室に何の用ですか。私の研究を面白おかしく書き立てるつもりなら、お引き取りください」
「違います。あなたの地震理論について、話を聞きに来ました」
ペンの音が止まった。
薫はゆっくりと顔を上げ、値踏みするように俺を見た。
「私の理論? 大槻先生の受け売りではなく?」
「先ほど、大槻教授には追い出されました。俺の警告を、非科学的な妄言だと一蹴して」
俺は一歩踏み出し、彼女の机の前に立った。
「九月一日。相模湾を震源とする大規模な地震が起きます。俺は、その警告を号外として刷り、帝都中に配るつもりです。ですが、俺の言葉だけでは誰も信じない。あなたの理論的な裏付けが必要なんです」
薫の眉が微かに動いた。
だが、すぐに呆れたようなため息をつく。
「大槻先生が正しいでしょうね。素人の思いつきで地震が予知できるなら、私たちは苦労しません」
「思いつきじゃない。相模トラフ——相模湾の海底に沈み込むプレートの境界で、巨大な反発が起きるんです。その歪みは、すでに限界に達しているはずだ」
ガタン、と音を立てて、薫が立ち上がった。
彼女の瞳が見開かれ、手から滑り落ちたペンが床を転がる。
「あなた……なぜ、その仮説を?」
薫の声が微かに震えていた。
彼女の机の上には、手書きの海図と、複雑な計算式がびっしりと書き込まれたノートが広げられている。
それは、当時の学界では決して認められていない、最先端の——いや、未来の地震メカニズムの片鱗だった。
「俺には分かるんです。そして、あなたも気づいているはずだ。このままでは、帝都が壊滅することに」
薫は何も言わず、ただ俺を見つめ返した。
その瞳の奥で、長年抑圧されてきた探究心と、未知の事象に対する渇望が、静かに熱を帯びていくのが分かった。
誰も信じなかった俺の言葉が、今、確かな輪郭を持ち始めている。
「神田さん、と言いましたね」
薫はゆっくりと息を吐き、机の上のノートに手を置いた。
「あなたの言う『プレートの反発』……その詳細を、聞かせてもらえますか」
時計の針が、また一つ進む音がした。
震災まで、あと六十七時間。
分厚い常識の壁に、ほんのわずかな、だが確かな亀裂が走った瞬間だった。




