第4話
電柱の陰に立つ鳥打帽の男。顔は伏せられているが、じっとこちらを窺う視線が肌を刺す。
背筋に冷たいものが走った。
資金集めと印刷所の確保。ただでさえ時間が足りないというのに、得体の知れない影が俺の行く手を阻もうとしている。
「そこの君。少し尋ねたいことがあるのだが」
背後から、硬く威圧的な声が飛んできた。
振り返ると、男がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。アイロンの効いた制服こそ着ていないが、その鋭い眼光と隙のない立ち姿は、明らかに警察関係者のそれだった。
「本官は——」
男が懐に手を入れた瞬間、俺は弾かれたように駆け出していた。
「待て! 貴様、逃げる気か!」
俺は振り返らずに、神田の入り組んだ路地裏へと飛び込んだ。
板塀と軒先が迫る狭い路地を駆け抜け、積まれた木箱を蹴り倒して追手の足止めを図る。
「くそっ!」
背後で箱が崩れる音と、男の舌打ちが聞こえた。
特高警察に目をつけられたのなら厄介だ。俺は迷路のような路地を右へ左へと折れ曲がり、ひたすら足を動かし続けた。
泥水と瓦礫の匂いが、ふいに鼻腔を掠めた気がした。
現代の日本。二次災害の土砂崩れが現場を襲い、逃げ遅れた人々を助けようとして泥に呑まれた記憶。
マイクを握りしめ、カメラに向かって被害の甚大さを叫び続けた日々。だが、それはいつも事後の報告に過ぎなかった。
どれだけ言葉を尽くしても、失われた命は戻らない。伝えるだけで誰も救えなかったという無力感が、冷たい泥のように胃の奥に沈殿していた。
その痛切な後悔を抱えたまま、俺は死んだはずだった。
だが、気がつけば俺は、大正十二年八月二十九日の帝都で、若手記者として目覚めていた。
震災まで、あと七十時間を切っている。
今度こそ、一つでも多くの命を救う。そのために俺はここにいるのだ。
こんなところで警察に捕まり、身動きが取れなくなるわけにはいかない。
複雑な路地を抜け、大通りに出る。人混みに紛れ、何度も角を曲がって、ようやく背後の気配が消えた。
荒い息を吐き出しながら、額の汗を拭う。
なんとか尾行は撒いた。だが、安堵している暇はない。
俺は気を取り直し、目星をつけていた別の印刷所へと向かった。
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。
三軒の小規模な印刷所を回ったが、結果はすべて同じだった。
「九月一日に大地震が来るだと? 冗談はよせ」
インクの匂いが染み付いた前掛け姿の主人が、呆れたように手を振った。
「冗談じゃありません。下町の密集地帯は火の海になります。今すぐ警告の号外を刷らなければ、何万人もの人が死ぬんです!」
「だから、その根拠はどこにあるんだって聞いてるんだよ」
主人は苛立たしげに眉をひそめた。
「帝都日報の腕章をつけてるから話を聞いてやったが、会社の許可もないモグリの仕事だろ。そんな根拠のない流言飛語のビラを刷ったら、こっちが警察にしょっぴかれちまう。帰った帰った」
取り付く島もなかった。
編集長に記事を突き返された時と、まったく同じだ。
当時の常識という分厚い壁が、俺の前に立ちはだかっている。
誰も、三日後に帝都が未曾有の災害に見舞われるなど信じていない。平和な日常が明日も続くと、疑いもなく信じ切っているのだ。
「待ってくれ。金なら払う。言い値で構わないから」
食い下がる俺に、主人はため息をついた。
「金の問題じゃねえんだよ。……ただ、どうしても紙とインクが欲しいってんなら、売ってやれないこともない」
主人が顎でしゃくった先には、工場の隅に積まれた埃を被ったロール紙と、見慣れない缶があった。
「あれは以前、軍の仕事で使った耐水紙の余りだ。普通の新聞紙より分厚くて扱いにくいし、専用の特殊なインクじゃねえと綺麗に刷れねえ。うちじゃもう使い道がない不良在庫だ。それなら、紙代とインク代だけで譲ってやる。ただし、印刷は自分でやれ。うちの機械は貸せねえし、名前も出すな」
背に腹は代えられない。
「買います。明日の昼までに、必ず金を持ってくる」
俺は頭を下げ、印刷所を後にした。
明日の朝一番で兜町へ向かい、株取引で資金を作る。その算段を頭の中で組み上げる。
重い足取りで大通りを歩いていると、前方を塞ぐように巨大な荷車が通り過ぎていった。
引越しなのか、それとも商店の納品なのか。大八車には、箪笥や木箱などの家財が山のように積まれている。
その光景を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
史実の記憶が蘇る。
震災発生時、人々は家財道具を大八車に積んで避難しようとした。その結果、道が塞がって身動きが取れなくなり、そこに火災旋風が襲いかかって甚大な被害をもたらしたのだ。
あの荷車が、何万人もの命を奪う凶器に変わる。
絶対に、大八車での避難を禁じなければならない。
だが、どうやって?
俺一人が街頭で叫んだところで、誰も耳を貸さない。印刷所すら根拠がないと鼻で笑うのだ。
警察も、俺を不審者として尾行している。
単なる熱意や危機感だけでは、誰も動かない。
人々を、そして警察や行政を納得させるためには、圧倒的な説得力が必要だ。
ただの若手記者の言葉ではなく、誰もが耳を傾けざるを得ない科学的な根拠が。
当時の権威。
俺の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。
帝都大学だ。
あそこには、地震学を専門とする学者たちがいるはずだ。
彼らの理論的な裏付けを得ることができれば、俺の警告は流言飛語ではなく、権威ある予測へと変わる。
学者たちなら、俺の提示する前兆現象やデータに耳を貸すかもしれない。
正規の報道ルートを諦め、私費で号外を刷るという無謀な戦い。
それを成功させるためには、どうしても彼らの協力が不可欠だった。
俺は歩く速度を速めた。
帝都大学へ向かい、地震学者に接触する。
残された時間は少ない。資金集め、印刷場所の確保、そして科学的根拠の獲得。
すべてを同時進行でこなさなければ、九月一日に間に合わない。
焦燥感が背中を押す。
だが、大通りの交差点を曲がろうとした時だった。
ふと、首筋を撫でるような悪寒を感じて足を止めた。
振り返る。
行き交う人々の波。モガやモボ、着物姿の商人たちが忙しなく通り過ぎていく。
その喧騒の向こう側。
硝子窓の反射越しに、見覚えのある鳥打帽と外套のシルエットが映った。
撒いたはずの男だ。
男は一定の距離を保ち、顔を伏せたまま、じっとこちらを監視している。
なぜだ。なぜここまで執拗に追ってくる。
単なる流言飛語の取り締まりなら、さっきの路地裏で強引にでも捕まえていたはずだ。
男の目的が読めない。
俺の行動を妨害しようとしているのか。それとも、別の意図があるのか。
得体の知れない恐怖が、胃の奥を冷たくしていく。
俺は男の視線を無視して背を向け、帝都大学へ向かう市電の停留所へと急ぎ足で向かった。
呟きは、誰にともなくこぼれた。
どんな壁が立ち塞がろうと、どんな影が付き纏おうと、俺の歩みを止めることはできない。
命を最優先に行動する。どんなに冷笑されても、警告をやめない。
それが、現代で誰も救えなかった俺が、この時代で果たすべき唯一の使命なのだから。
俺は男の視線を背中に浴びながら、帝都大学へと続く道を歩き出した。
震災まで、あと六十八時間。
果たして、あの権威の牙城で、俺の言葉に耳を傾ける者はいるのだろうか。
不穏な足音が、すぐ後ろまで迫っているような気がした。




