第3話
神田界隈の入り組んだ路地裏。
頭上には木造の長屋がひしめき合い、軒先には洗いざらしの浴衣や手ぬぐいが無造作に干されている。遠くから聞こえる路面電車の走行音と、豆腐売りのラッパの音が、大正の帝都の日常を無責任に奏でていた。
俺は足早に角を曲がり、古本屋の店先に積まれた本の山の陰に身を潜めた。
息を殺して、今来た道を窺う。
数秒後、鳥打帽に外套姿の男が足早に通り過ぎていった。夏の暑さにもかかわらず、分厚い生地の外套を羽織っている異様な姿。男は周囲を見回し、舌打ちをして反対方向へ歩き去る。
どうやら撒けたらしい。
特高警察か、それとも別の何者か。どちらにせよ、今の俺には構っている暇はない。
腕時計に目を落とす。震災発生まで、あと七十時間と少し。
焦燥感が、胃の奥をギリギリと締め付けていた。
俺は路地を抜け、目的の場所へと急いだ。
神田の裏通りにある、小さな印刷所。帝都日報の出入り業者の一つであり、腕利きの職人がいる工房だ。
引き戸を開けると、油とインクの強烈な匂いが鼻を突いた。
「邪魔するぜ、おやっさん」
薄暗い土間で、白髪交じりの短髪の男が活字棚に向かっていた。
岩田鉄蔵。インクの染みがついた前掛けを締め、筋骨隆々の腕で小さな鉛の活字を拾い上げている。
壁一面に並んだ無数の活字。それは、この男が長年培ってきた職人としての誇りそのものだった。
俺の声に、岩田は手を止めずに顔だけを向けた。
「なんだ、神田か。今日は新聞社の使いじゃねえな。顔つきが違う」
「ああ。個人的な頼みがあって来た」
俺は岩田に歩み寄り、声を潜めた。
「号外を刷ってほしい。俺の私費でだ」
カチャン、と活字を組む音が止まった。
岩田はゆっくりと振り返り、太い眉をひそめた。
「……会社の許可は取ってあるのか」
「ない。俺個人の責任で出す」
「なら帰れ」
岩田は再び活字棚に向き直った。
「会社の許可がねえモグリの仕事はできねえ。それがうちの決まりだ」
「頼む、おやっさん! あんたの腕と、ここにある特殊な紙が必要なんだ」
俺は食い下がった。
この工房には、正規の新聞社が使わないような売れ残りの耐水紙が大量に眠っているはずだ。震災後の過酷な環境下で、雨や泥に濡れても読める号外を作るには、どうしてもそれが必要だった。
「金なら払う。だから——」
「金の問題じゃねえ」
岩田の低い声が、工房の空気を震わせた。
「おめえ、自分が何をやろうとしてるか分かってんのか。新聞社の看板背負ってる人間が、勝手に号外なんてバラ撒いてみろ。俺たち出入り業者まで巻き添えを食うんだよ」
岩田は前掛けで手を拭きながら、俺を鋭く睨みつけた。
「規則を破って出入り禁止になれば、うちの若い衆はどうなる。路頭に迷うんだ。筋の通らねえ仕事は、いくら積まれても引き受けられねえ」
正論だった。職人として、経営者として、岩田の言うことは何一つ間違っていない。
だが、俺にも引けない理由があった。
「三日後だ」
俺は一歩踏み出し、岩田の目を真っ直ぐに見据えた。
「九月一日。帝都を未曾有の大地震が襲う。下町の密集地帯は火の海になり、火災旋風が起きる。事前に避難ルートを知らせておかなければ、何万人もの命が失われるんだ!」
声が震えていた。現代で何も救えなかった記憶が、泥水のような無力感が、俺の背中を叩き続けている。
「俺は、一人でも多くの人間を逃がしたい。そのためには、どうしてもあんたの力が必要なんだ。頼む、信じてくれ!」
頭を深く下げた。
土間の冷たい空気が、肌を刺す。
どれくらいの時間が経っただろうか。頭上から、重い溜息が降ってきた。
「……帰れ」
顔を上げると、岩田は冷ややかな目で俺を見下ろしていた。
「おめえの熱意は分かった。だがな、そんな与太話でうちの看板を危険に晒すわけにはいかねえ。二度と来るな」
取り付く島もなかった。
岩田の瞳には、職人としての譲れない一線が引かれている。これ以上何を言っても、彼の心を動かすことはできない。
俺は唇を噛み締め、無言で引き戸を開けた。
◆ーーーー◆
外に出ると、夏の強い日差しが容赦なく照りつけてきた。
額の汗を拭い、俺は重い足取りで大通りへと歩き出す。
だが、諦めるわけにはいかなかった。
岩田がダメなら、別の印刷所を探すしかない。しかし、どこへ行くにしても、モグリの仕事を頼むには莫大な金が必要になる。
記者の薄給では到底足りない。
どうする。どうやって資金を作る。
未来の知識を総動員しろ。
震災直前に価値が暴騰するもの、あるいは今すぐ換金できるもの。
歴史の記憶を掘り起こし、俺は一つの可能性に行き着いた。
明日の朝、特定の銘柄の株が一時的に異常な動きを見せるはずだ。史実通りなら、そこで一気に資金を作れるかもしれない。
危険な賭けだが、やるしかない。歴史を変えるための、これが俺の戦いだ。
資金の目処は立ったとして、問題はどこで刷るかだ。
帝都中の印刷所を片っ端から当たるしかないのか。
焦りが、再び心臓の鼓動を早める。
その時だった。
ふと視線を感じて振り返る。
通りの向こう側。電柱の陰に、見覚えのある鳥打帽と外套の男が立っていた。
撒いたはずの尾行者。
男は顔を伏せたまま、じっとこちらを窺っている。
背筋に冷たいものが走った。
資金集めと印刷所の確保。ただでさえ時間が足りないというのに、得体の知れない影が俺の行く手を阻もうとしている。
震災まで、あと七十時間。
俺は、この壁をどうやって乗り越えればいい。




