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第2話

編集室を飛び出した俺の全身に、八月の容赦ない日差しが突き刺さる。九月一日の大震災まで、残された時間はあと七十二時間。あてもなく帝都の喧騒を歩きながら、俺は自力で号外を刷るという無謀な計画をどう実現するか、必死に頭を回転させていた。


まずは人手だ。一人で帝都中の印刷所を回り、大量の紙とインクを調達するのは現実的ではない。それに、震災後の過酷な状況を想定すれば、ただの紙では駄目だ。水や汚れに強い、特殊な耐水紙が必要になる。そんなものを扱っている業者を、俺一人で見つけ出せるはずがない。

俺は足早に銀座の煉瓦街を抜け、社屋の近くにある行きつけの牛鍋屋の裏手へと向かった。昼時になれば、サボり癖のある後輩が必ずあそこで油を売っているはずだ。


路地裏に入ると、予想通り、丸眼鏡をかけ、少しサイズの合わないダボついた背広を着た小柄な青年が、壁に寄りかかって煙草を吹かしていた。

帝都日報の若手記者、吉村平吉だ。


「吉村!」


大声で呼ぶと、吉村はビクッと肩を揺らし、慌てて煙草を足元に落として革靴で踏み躙った。


「うわっ、なんだ神田先輩か。脅かさないでくださいよ。デスクに見つかったかと思いましたよ」


「いいから、ちょっと面を貸せ。手伝ってほしいことがある」


俺は吉村の腕を掴み、路地のさらに奥へと引きずり込んだ。


「ちょ、痛い痛い! 何ですか改まって。まさか、さっき編集長に大目玉食らったって噂、本当なんですか?」


吉村は軽薄な笑みを浮かべながら、俺の顔を覗き込んできた。その呑気な態度に、苛立ちが募る。


「噂じゃない。事実だ。俺は九月一日に大地震が来ると警告する記事を書こうとした。だが、編集長には流言飛語だと突き返された」


「そりゃそうでしょう。いくら先輩でも、根拠のない予言みたいな記事を持ち込んだら怒られますって。少し頭を冷やした方が……」


「冷やしている暇はないんだ!」


俺は吉村の肩を両手で掴み、煉瓦の壁に押し付けた。丸眼鏡の奥の目が、驚きに大きく見開かれる。


「聞いてくれ、吉村。あと三日だ。三日後の昼時、関東一円を未曾有の揺れが襲う。下町の木造家屋は倒壊し、あちこちで火の手が上がる。風に煽られて火災旋風が発生し、逃げ遅れた何万人もの人間が焼け死ぬんだ」


「せ、先輩……?」


「正規の紙面が使えないなら、自力で号外を刷るしかない。水や汚れに強い耐水紙と、大量のインク、それに印刷機を貸してくれる業者を探す。お前にも手伝ってほしい」


俺の切羽詰まった言葉に、吉村は完全に引いていた。お調子者で事なかれ主義の彼にとって、今の俺は正気を失った狂人にしか見えないだろう。


「冗談キツイですよ、先輩……。号外を勝手に刷るなんて、会社にバレたらクビどころじゃ済みませんよ。それに、耐水紙なんて特殊なもん、どこに売れ残ってるっていうんですか」


「探すんだよ! 命がかかってるんだ!」


「離してください!」


吉村は俺の腕を力任せに振り払い、数歩後ずさった。


「あんた、ちょっとおかしいですよ。いくら特ダネが欲しいからって、そんなデタラメに付き合ってられません。僕は戻りますからね」


逃げ腰になった吉村は、足早に路地を飛び出していった。

残された俺は、虚空を掴んだままの拳を強く握りしめた。


無理もない。大正十二年の人間に、未来の災害を信じろと言う方が土台無理な話だ。

だが、このまま誰も説得できなければ、あの地獄が繰り返される。


俺は路地を抜け、大通りへと出た。

照りつける八月の太陽の下、帝都は活気に満ちていた。

カンカンと鐘を鳴らしながら走る市電。モボやモガと呼ばれるモダンな装いの若者たち。そして、引っ越しや納品のために、家財道具を山のように積んだ大八車を引く業者たちの姿。


あの大八車が、逃げ道を塞ぐんだ。

史実の記憶が脳裏に蘇る。火の手から逃れようとする人々が、全財産を積んだ大八車を引いて狭い路地に殺到し、身動きが取れなくなる。そこに火災旋風が襲いかかり、数万の命が灰燼に帰した。


「おい、そこのあんた!」


気がつけば、俺は大八車を引く初老の男に駆け寄っていた。


「なんだい、兄ちゃん。急に大声出して」


「九月一日に大地震が来る! その日に大八車で荷物を運ぶのはやめてくれ! 道が塞がって、火事から逃げられなくなるんだ!」


男は目を丸くした後、鼻で笑った。


「ハッ、何言ってんだ。地震が来る日が分かるなら、警察も苦労しねえよ。どきな、仕事の邪魔だ」


「本当なんだ! 頼むから信じてくれ!」


俺は必死に食い下がったが、男は鬱陶しそうに手を振り払い、大八車を引いて去っていった。

大八車の男が去った後、俺は手当たり次第に道行く人々に声をかけ始めた。


「奥さん! 九月一日の昼には火を使うのをやめてください! 初期消火が遅れれば、この辺りは火の海になります!」


店先で立ち話をしていた割烹着姿の女たちは、俺の剣幕に悲鳴を上げて店の中へと逃げ込んだ。


「そこのあんた! 地震が来たら、絶対に広場へ逃げるんだ! 狭い路地は危険だ!」


通りすがりの背広姿の男の肩を掴むと、男は顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。


「無礼な奴だ! 離せ! 貴様、どこの者だ。警察を呼ぶぞ!」


「違う、俺はただ……!」


男に突き飛ばされ、俺はアスファルトの路面に尻餅をついた。

見上げると、周囲には遠巻きに俺を取り囲む人だかりができていた。

誰もが、汚いものでも見るような目を向けている。


「なんだあの男、昼間から酔っ払ってるのか?」

「大地震が来るなんて、また変な流言飛語を広めようとしてるんじゃないか」

「関わらない方がいいわよ。特高に睨まれるわ」


ひそひそとした囁き声が、無数の棘となって突き刺さる。

誰も耳を貸さない。

当時の常識という、目に見えない強大な壁が、俺の前に立ちはだかっていた。


「……くそっ」


アスファルトの熱が、手のひらから伝わってくる。

唇を噛み締め、ゆっくりと立ち上がった。

事後報告しかできなかった現代での悔恨は、今も胸の奥で燻り続けている。二度と同じ過ちを繰り返すまいと誓い、こうしてなりふり構わず叫び続けているのに、人々の冷ややかな視線は容赦なく俺を突き放した。

どれだけ言葉を尽くしても、誰の心にも届かない。命を救いたいという願いは、彼らにとってはただの不気味なノイズでしかないのだ。冷たい泥のような孤独感が、胃の奥に沈殿していくのを感じた。


今度こそ、事前に警告できるはずだった。

未来の知識があれば、被害を最小限に抑えられると信じていた。

なのに、誰も信じない。このままでは、また目の前で多くの命が失われるのを、ただ見ていることしかできないのか。

焦燥と絶望が入り混じった感情が、胸の奥で渦を巻く。


「先輩」


背後から声をかけられ、振り返る。

そこには、少し離れた場所から俺を見つめる吉村の姿があった。

逃げたはずの彼が、なぜ戻ってきたのか。一瞬だけ期待が胸をよぎったが、その表情を見てすぐに打ち砕かれた。


「吉村……」


「少し頭を冷やしてください」


吉村の口調は、いつもの軽薄さが消え、ひどく冷ややかだった。


「街角でそんな大声を出してたら、本当に警察に引っ張られますよ。流言飛語の流布は犯罪です。あんたが何を焦ってるのか知りませんが、これ以上は付き合いきれません」


吉村はそれだけ言うと、今度こそ振り返らずに歩き去っていった。

俺は彼を引き留めるために伸ばしかけた手を下ろし、代わりに懐から手帳を取り出した。


分かっている。俺の行動が常軌を逸していることくらい。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。口頭での警告が通じないのなら、やり方を変えるまでだ。大正の人々の常識という壁を打ち破るには、確かな「物」として情報を突きつける必要がある。


吉村の協力が得られないなら、一人でやるしかない。

帝都中の印刷所を回り、頭を下げてでも耐水紙とインクを手に入れる。

たとえ誰にも信じてもらえなくても、号外という形にしてばら撒けば、一人くらいは目を通して避難を考えてくれるかもしれない。


俺は顔を上げ、ズボンの土を払って再び歩き出した。

目指すは、神田界隈の小さな印刷所が密集する地域だ。あそこなら、正規の新聞社が使わないような特殊な紙の在庫を抱えている業者がいるかもしれない。


焦燥感に背中を押されるように、人混みの中を進む。

震災発生まで、あと七十一時間。

残された時間は、砂時計の砂のように無情に落ちていく。


だが、俺は気づいていなかった。

大通りの喧騒の中、俺の背中をじっと見つめる視線があることに。


ショーウィンドウのガラス越しに、一瞬だけその姿が反射した。

鳥打帽を目深に被り、仕立ての悪い外套を羽織った男。

男は周囲の風景に溶け込むように立ち止まり、俺が角を曲がるのを見届けると、ゆっくりとその後を追い始めた。


特高警察か、それとも別の何者か。

孤立無援の戦いを始めた俺の背後に、正体不明の不穏な影が、音もなく忍び寄っていた。


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