第1話
泥水と瓦礫の匂いが、鼻腔にこびりついて離れない。
崩落した山肌。濁流に呑まれた家屋。マイクを握りしめ、カメラに向かって被害の甚大さを叫び続けた。だが、それはいつも「事後」の報告に過ぎなかった。
どれだけ言葉を尽くしても、失われた命は戻らない。伝えるだけで誰も救えなかったという無力感が、冷たい泥のように胃の奥に沈殿していた。
あの日もそうだった。二次災害の土砂崩れが現場を襲い、俺は逃げ遅れた人々を助けようとして——。
そこで、記憶は途切れている。
「……っ」
跳ね起きると、肺に冷たい空気が流れ込んできた。
荒い息を吐きながら周囲を見回す。泥水も瓦礫もない。そこは古びた四畳半の和室だった。畳の青臭い匂いと、障子越しに差し込む朝の光。
混乱した頭を抱え、壁に掛けられた小さな鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、見慣れた中年の顔ではない。二十代半ばの、血色の良い青年の顔だった。だが、確かに俺自身の面影がある。
「なんだ、これ……」
震える手で顔に触れる。温かい。生きている。
視線を彷徨わせると、柱に掛けられた日めくりカレンダーが目に飛び込んできた。
太い墨字で書かれた日付。
『大正十二年八月二十九日』
心臓が早鐘を打ち始めた。大正十二年。一九二三年。
歴史の知識が、脳裏で警鐘を鳴らす。九月一日。関東大震災。
あと三日しかない。
「嘘だろ……」
呟きは虚空に消えた。だが、窓の外から聞こえてくる下駄の音や、遠くで鳴る市電の走行音が、これが現実であることを容赦なく突きつけてくる。
俺は過去に、大正時代の帝都にいる。
そして三日後、この街は未曾有の大災害に見舞われ、十万人以上の命が炎に呑まれるのだ。
現代での後悔が、胸の奥で激しく燃え上がった。
事後の悲惨さを伝えるだけで、誰も救えなかったあの無力感。もう二度と、あんな思いはごめんだ。
未来を知っている俺なら、警告できる。一人でも多くの人間を、安全な場所へ避難させることができるはずだ。
着流しから、壁に掛かっていた洋装のスーツに着替える。ポケットには「帝都日報記者・神田栄一」と書かれた身分証が入っていた。年齢は二十四歳。どうやら、この時代の俺は新聞記者のようだ。
好都合だ。新聞の力を使えば、帝都中に警告を発することができる。
部屋を飛び出し、街へ出た。
レンガ造りのモダンな洋館と、木造の長屋が混在する帝都の風景。行き交う人々は皆、三日後に迫る破滅など知る由もなく、穏やかな朝の空気を吸い込んでいる。
「おい、危ねえぞ! 道を空けな!」
怒鳴り声にハッとして立ち止まる。
目の前を、巨大な大八車が通り過ぎていった。荷台には箪笥や布団、木箱といった家財道具が山のように積まれている。引越しか、あるいは商店の納品だろうか。
車引きが汗だくになって引く大八車は、狭い未舗装の道を完全に塞いでいた。
その光景を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
史実の記録が脳裏に蘇る。震災が発生した直後、人々は家財を大八車に積んで避難しようとした。その結果、無数の大八車が道を塞ぎ、身動きが取れなくなった群衆を火災旋風が襲ったのだ。
あの荷物の山は、三日後には人々の退路を断つ凶器に変わる。
(警告しなければ。大八車での避難は危険だと、絶対に伝えなければ……!)
焦燥感に駆られ、俺は帝都日報の社屋へと走り出した。
◆ーーーー◆
活字のインクと煙草の煙が入り混じった、独特の匂いが充満する編集部。
電話のベルが鳴り響き、記者たちが怒号を交わしながら原稿用紙に向かっている。その喧騒を掻き分け、俺は部屋の最奥にあるデスクへと直行した。
「編集長。折り入って、お話があります」
デスクに座り、ゲラ刷りに朱を入れていた初老の男が、ゆっくりと顔を上げた。
帝都日報編集長、桐島源太郎。
威厳のある顔立ちと、鋭い眼光。その瞳は、若手記者の唐突な申し出を値踏みするように見据えていた。
「なんだ、神田。朝から血相を変えて。特ダネでも拾ってきたのか」
「三日後です」
俺はデスクに両手をつき、桐島の目を真っ直ぐに見返した。
「九月一日。関東一円を、未曾有の大地震が襲います。それに伴い、帝都のあちこちで大規模な火災が発生し、火災旋風が起きます。今すぐ、避難を呼びかける警告記事を打たせてください」
周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。
桐島はペンを置き、深く息を吐いた。
「君は、寝ぼけているのか。それとも暑さで頭をやられたか」
「正気です! 地震の規模は計り知れません。特に、下町の密集地帯は火の海になります。大八車での避難を禁じ、広場への誘導ルートを事前に周知しなければ、何万人もの人が死ぬんです!」
声が大きくなるのを止められなかった。
現代の知識だと言っても信じてもらえるはずがない。だが、なんとしても記事にしなければならない。
「根拠はなんだ」
桐島の声は、氷のように冷たかった。
「気象台の観測データか。それとも、どこかの地震学者の論文か。三日後に大地震が起きるという、確たる証拠を出したまえ」
「それは……」
言葉に詰まる。未来から来たなどと言えば、精神病院送りになるだけだ。
「証拠はありません。ですが、これは確実に起こる未来なんです! 命がかかっているんです、事実を確認してからでは遅い!」
「裏付けのない記事は載せない」
桐島は冷徹に言い放ち、再びゲラ刷りに目を落とした。
「それが帝都日報の、いや、新聞の社会的責任だ。根拠のない流言飛語で社会にパニックを引き起こせば、それこそ人が死ぬ。新聞は事実を伝えるものだ。予言の書ではない」
「あんたは、目の前で人が死んでも、証拠がないからと見殺しにするのか!」
激しい怒りが沸点に達し、俺はタメ口で怒鳴りつけていた。
桐島の眉間がピクリと動く。その瞳の奥に、一瞬だけ暗い影が差したように見えた。かつて誤報で関係者を不幸にしたという、彼自身のトラウマに触れたのかもしれない。
だが、桐島はすぐに表情を硬直させ、静かに、しかし威圧的な声で告げた。
「君の自己満足に、新聞の信用を付き合わせるわけにはいかない。仕事に戻れ。これ以上戯言を抜かすなら、クビにするぞ」
取り付く島もない。
現実主義の塊であるこの男を、感情論で説き伏せることは不可能だった。
俺は唇を噛み破るほどの力で引き結び、デスクから離れた。
◆ーーーー◆
編集部を飛び出し、裏路地の壁に背中を預ける。
夏の強い日差しが、じりじりと肌を焼いていた。
(結局、何も変わらないのか……)
現代でもそうだった。組織の論理、報道の原則。それに縛られ、本当に必要な時に必要な情報を届けることができなかった。
無力感が再び胃の奥を冷たくする。
だが、俺は首を横に振った。
諦めるわけにはいかない。命を最優先に行動する。どんなに冷笑されても、警告をやめない。それが、二度目の命を与えられた俺の譲れない決意だ。
正規の紙面が使えないなら、方法は一つしかない。
自らの手で「号外」を刷り、帝都中にばら撒くのだ。
しかし、言うは易しだ。
個人の記者が、どうやって大量の紙とインクを手に入れるのか。印刷機を貸してくれる業者などいるはずもない。
それに、震災後の混乱を考えれば、普通の紙では駄目だ。水や汚れに強い、特殊な耐水紙のようなものが必要になる。そんなものが、この時代に都合よく売れ残っているだろうか。
思考を巡らせながら路地を歩き出そうとした時、ふと、背筋に嫌な悪寒が走った。
誰かに見られている。
振り返ると、雑踏の中に一瞬、鳥打帽を目深に被った男の姿が見えた気がした。だが、瞬きをした次の瞬間には、その姿は人混みに紛れて消えていた。
気のせいか? いや、確かに視線を感じた。
特高警察か、それとも別の何者か。
ただでさえ絶望的な状況に、得体の知れない不穏な影が忍び寄っている。
震災発生まで、あと七十二時間。
誰を頼り、どこで紙を手に入れ、どうやって号外を刷るのか。
まったくの白紙状態のまま、俺は帝都の喧騒の中へと足を踏み出した。




