第10話
吉村と別れ、俺は再び本所区の通りを歩いていた。
夕暮れが近づく下町は、活気に満ちていた。
長屋の軒先では夕飯の支度をする煙が立ち上り、醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。路地裏を駆け回る子供たちの笑い声。豆腐売りのラッパの音が、遠くで間の抜けた響きを立てている。
道端では、近所の女将さんたちが井戸端会議に花を咲かせ、仕事帰りの職人たちが肩を組んで居酒屋へと吸い込まれていく。
平和な日常の風景だった。誰もが明日も同じ日が来ると信じて疑わない、ありふれた帝都の夕暮れ。
だが、俺にはわかっている。あと数日もすれば、この街は業火に包まれ、瓦礫の山と化すのだ。
見知らぬ和室で目覚めてから、ずっと焦燥感に背中を焼かれ続けている。
現代で災害報道に携わっていた頃の記憶が、泥水のように脳裏にこびりついて離れない。土砂崩れに呑まれた家屋、濁流に沈んだ街。現場から被害の甚大さを叫び続けても、それは常に事後の報告に過ぎなかった。
いくら言葉を並べ立てても、失われた命は戻らない。伝えるだけで誰も救えなかったという無力感が、俺の魂を蝕んでいた。
だからこそ、大正十二年の若手記者として蘇った今、同じ後悔を繰り返すわけにはいかない。運命の日まで、残された時間はあとわずかしかない。報道の力で、一つでも多くの命を救う。その信念だけが、俺の足を前へと動かしていた。
目指すは、先ほど一度追い返された山城屋徳兵衛の邸宅だ。
立派な門構えを抜け、広い土間へと足を踏み入れる。帳場で算盤を弾いていた番頭が、俺の顔を見るなり露骨に顔をしかめた。
「また来たのかい、帝都日報の記者さん。旦那は暇じゃないんだがね」
奥の座敷から、恰幅の良い初老の男が姿を現した。山城屋徳兵衛だ。
羽織袴姿の彼は、手にした煙管をふかしながら、呆れたように俺を見下ろしている。
「商売道具の倉庫を無償で開放するなどあり得ない。さっきそう言ったはずだが、あんたも随分と諦めが悪い」
「ええ、伺いました。ですが、どうしても引き下がるわけにはいかないんです」
俺は深く頭を下げ、懐から丁寧に折り畳んだ数枚の紙を取り出した。
「山城屋。どうか、もう一度だけ話を聞いてください」
それは、帝都大学の橘薫が徹夜で作成してくれた、科学的見解書だった。
「橘先生という地震学者がまとめた、相模湾を震源とする大地震の予測です。ただの勘や当てずっぽうではありません。確かな科学的根拠があるんです」
徳兵衛は怪訝な顔で紙を受け取り、ざっと目を通した。
「……女の学者が書いたものか。相模トラフ? プレートの反発? わけのわからん横文字が並んでいるが、要するにでかい揺れが来るってことかい」
「はい。海底の岩盤が限界まで歪み、それが一気に跳ね返ることで、未曾有の揺れを引き起こします。そして恐ろしいのは揺れだけではありません。地震の後に発生する大規模な火災です」
俺は足を踏み出し、徳兵衛の目を真っ直ぐに見据えた。
「特にこの本所区周辺は、木造家屋が密集しています。火の手が上がれば、瞬く間に燃え広がり、巨大な炎の竜巻……火災旋風が起きます。逃げ場を失った人々が、被服廠跡地のような広い場所に殺到すれば、そこは巨大な火のオーブンと化すんです」
徳兵衛は鼻で笑った。
「そんな途方もない話、誰が信じる。新聞社はどうなんだ。あんたの勤め先は、この記事を載せるのかい」
その言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。
俺は奥歯を噛み締め、ゆっくりと首を横に振った。
「……編集長には、根拠がないと突き返されました」
絞り出すような声が出た。
「今の世の中の常識からすれば、俺の言っていることは狂人の戯言でしょう。常識という分厚い壁に阻まれて、新聞の紙面で警告を発することはできませんでした」
新聞社という組織の限界。当時の科学的知見の限界。それらが幾重にも重なり、俺の前に立ちはだかっている。
「だろうな。それが世間の常識ってもんだ」
徳兵衛は煙管を灰吹にコツンと当て、冷ややかな視線を向けてきた。
「だったら、どうするつもりだ。新聞が書かないことを、どうやって人々に知らせる」
「俺は自腹を切って、独自の号外を刷ります」
迷いなく答えた。
「株の相場で得た資金を全てつぎ込み、印刷職人を雇って、大量の紙を帝都中にばら撒くつもりです。馬鹿げていると思われるかもしれない。でも、一人でも多くの命を逃がせるなら、それでいいんです。これは、歴史を変えるための戦いなんです」
土間に沈黙が降りた。
徳兵衛は黙って俺を見ていた。商人らしい計算高い目が、俺の真意を探るように細められる。
「あんた、自分の利益には一銭もならないんだな。むしろ、警察に目をつけられて破滅するかもしれんぞ」
「命より重い利益なんてありません」
俺は拳を握りしめた。
「どれほど周囲から冷笑されようと、俺は警告をやめない。だから、あんたの力が必要なんです。避難してきた人々に配る水と、安全な場所を確保するために」
「ふん。青臭い正義感だ」
徳兵衛は立ち上がり、土間をゆっくりと歩き出した。
その背中を見つめながら、俺は息を呑む。やはり、商人の壁は厚いのか。
「だが、嫌いじゃない」
不意に、徳兵衛が足を止めた。
振り返った彼の顔には、先ほどまでの冷たさはなく、どこか面白がるような笑みが浮かんでいた。
「商売ってのはな、時に大穴を狙う度胸が必要だ。あんたの言う大地震が本当に来るかどうか、わしにはわからん。だが、あんたのその目……本気で人の命を救おうって目は、嘘をついていない」
徳兵衛は俺の前に歩み寄り、ニヤリと笑った。
「お前さんの本気に賭けてみよう。もし本当に揺れたら、うちの倉庫を開放してやる。備蓄している水も食料も、好きに使え」
「本当ですか……!」
思わず声が上ずった。
「その代わり、外れたら笑い者だぞ。わしもあんたもな」
「構いません。何も起きないのが一番いいんですから」
俺は深く、深く頭を下げた。
大きな後ろ盾を得た。これで、被服廠跡地周辺に逃げ込んでくる人々を、少しでも多く救うことができる。確かな前進の手応えが、胸の奥に温かく広がっていくのを感じた。
◆ーーーー◆
山城屋の邸宅を辞去し、俺は再び下町の通りを歩いていた。
空はすっかり赤く染まり、夕闇が迫りつつある。
交渉が成功した安堵感に浸りながら歩を進めていると、前方の交差点で人だかりができているのが見えた。
「おい、邪魔だぞ! 通れねえじゃねえか!」
「こっちだって急いでんだよ! 文句があるなら手伝え!」
怒鳴り声が飛び交っている。
人垣の隙間から覗き込むと、箪笥や布団を山のように積んだ大八車が道を塞いでいた。車輪が路地のぬかるみに深くはまり込み、数人の男たちが汗だくで引いても身動き一つしない。
その光景を見た瞬間、胃の奥が急速に冷え込んでいくのを感じた。
史実の記憶が、鮮明な映像となって脳裏に蘇る。
地震発生後、人々は家財道具を大八車に積んで避難しようとした。しかし、その大八車が細い路地を塞ぎ、交通を完全に麻痺させた。
そこに火の手が迫る。
逃げ場を失った群衆。積まれた家財が格好の燃料となり、炎は瞬く間に燃え広がった。そして、巨大な火災旋風を引き起こし、絶望的なまでの被害をもたらしたのだ。
目の前で立ち往生している大八車は、数日後の地獄絵図の予兆だった。
単に逃げろと情報を伝えるだけでは駄目だ。
大八車での避難を止めさせ、安全な経路を確保しなければならない。
号外にその一文を書き加えることはできる。だが、パニックに陥った群衆が、果たして紙切れの指示に大人しく従うだろうか。家財を捨てて逃げろという警告を、素直に聞き入れる人間がどれだけいるのか。
新たな課題が、重くのしかかってくる。
大八車による被害拡大をどう防ぐのか。
運命の日まで、残された時間は刻一刻と減っていく。俺は立ち止まり、夕焼けに染まる帝都の空を睨みつけた。




