第11話
夕暮れの日本橋通り。俺は荷車の軋む音に足を止めた。
目の前では、数人の男たちが汗だくになって大八車を引いている。だが、山のように積まれた家財が重すぎるのか、車輪は轍に嵌まったまま身動き一つしない。
その光景は、数日後の地獄絵図の予兆に他ならなかった。
昨日から抱えていた懸念が、確信へと変わる。
平時でさえ轍に足を取られる巨大な荷車が、瓦礫の散乱する炎天下の逃避行で使い物になるはずがない。退路を塞ぐ障害物となる前に、全財産を捨てて身一つで逃げろと警告しなければならないのだ。
だが、そんな過酷な要求を、誰が素直に聞き入れるというのか。
活字の新聞という「権威」に頼るしかないことは、すでに痛感している。だが、本格的な印刷に踏み切る前に、まずは刷り上がった大量の紙を帝都中にばら撒くための「手足」を確保しなければならない。そのための見本として、手早く作れるガリ版の号外が至急必要だった。
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翌日、八月三十日の夕方。
古びた四畳半の和室に、インクの饐えた匂いが充満していた。
「先輩、言われた通り刷ってきましたよ。腕がパンパンです」
吉村が、ドンと畳の上に紙の束を置いた。丸眼鏡の奥の目は疲労で充血し、指先は真っ黒に汚れている。だが、その顔にはやり遂げたという誇らしげな色が浮かんでいた。
「ご苦労。軍の払い下げの耐水紙、インクが乗りにくかっただろう」
「ええ、もう最悪でしたよ。普通の紙ならもっと早く終わったのに、なんでわざわざこんなゴワゴワの紙を……」
愚痴をこぼす吉村を労いながら、俺は一番上の一枚を手に取った。
ガリ版刷りの簡易な号外プロトタイプ。
手書きの文字はどこか頼りないが、それでも『帝都日報』の題字と、大地震の警告がはっきりと刻まれている。
「よし。これでまずは、配るための手足を確保する」
俺たちは紙の束を抱え、下町の路地へと繰り出した。
目指すのは、地域のまとめ役である鳶の頭や、発言力のある商人たちだ。
彼らの協力を得られれば、帝都中に号外をばら撒く強力なネットワークが完成する。
だが、どこの馬の骨とも知れない若造の言葉を、彼らが素直に聞くはずがない。
とある材木問屋の裏手。真新しい木の香りが漂う中で、腕組みをして胡座をかく恰幅の良い男に、俺はガリ版の号外を差し出した。
「明後日、大地震が来ます。その時、この号外を配る手伝いをしてほしいんです」
男は鼻で笑い、紙切れを畳に放り投げた。
「馬鹿馬鹿しい。どこの誰だか知らねえが、こんな落書きみたいなビラで、俺たちを動かせると思ってんのか」
想定通りの反応だ。俺は一歩前に出て、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「今日の午後三時、横浜の生糸相場が急落しましたね」
男の眉がピクリと動いた。
「そして今夜、浅草の活動写真館で小規模なボヤ騒ぎが起きます。原因は映写機の過熱です」
「……てめえ、何を言ってやがる」
「俺には分かるんです。これから何が起きるのか」
未来の記憶を総動員し、直近の相場変動や些細な事件を言い当てる。
最初は冷笑していた男の顔に、次第に不気味なものを見るような色が混じり始めた。
「あんた、一体何者だ……」
「ただの記者です。ですが、明後日、帝都が火の海になることだけは確かなんです」
俺の気迫と、的中する予知の事実に押され、男はついに深く息を吐いた。
「わかった。あんたの言う通り、もし本当に浅草でボヤがあったら、若い衆を走らせて配ってやる」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
同じ手口で、俺たちは次々と下町の顔役や資産家たちを丸め込んでいった。
私費で作る号外を広範囲に届けるための、強力な配布網。その基礎が、確実に築かれつつあった。
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配布網の目処が立ったところで、一般市民の反応を確かめることにした。
夕暮れ時の賑やかな通り。家路を急ぐ人々や、夕飯の買い物に出る主婦たちが行き交う中で、俺は声を張り上げた。
「号外です! 明後日、大地震が発生します! 火災に備えてください!」
道行く人々は怪訝な顔で通り過ぎる。
その中で、モダンな柄の着物に白いエプロンをつけた若い娘が足を止めた。
カフェの女給をしている鈴子だった。愛嬌のある笑顔が特徴的な彼女だが、今は不思議そうに首を傾げている。
「ちょっとあんた、こんな夕暮れ時に大声出して。何配ってんのよ」
俺は彼女にガリ版の号外を手渡す。
「明後日、大地震が来ます。家財道具を大八車に積んで逃げないでください。火に巻かれます」
鈴子は受け取った紙面を見下ろし、眉をひそめた。
「なにこれ。帝都日報って書いてあるけど……手書きじゃない。それに、明後日地震が来るなんて、どうして分かるの? あんた、頭大丈夫?」
チャキチャキとした口調で、遠慮のない言葉が飛んでくる。
「科学的な根拠があります。どうか、信じてください」
俺は必死に訴えた。だが、鈴子の表情は困惑に満ちている。
「あんたの必死な顔を見てると、嘘をついてるようには見えないけどさ。でも、手書きのビラ一枚で、家財道具を置いて逃げろって言われてもねえ」
彼女は半信半疑のまま、号外をエプロンのポケットに突っ込んだ。
「まあ、火の元には気をつけるようにするわ。あんたも、あんまり無茶しなさんなよ」
鈴子は苦笑いを浮かべ、足早に去っていった。
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鈴子の背中を見送りながら、俺は唇を噛んだ。
彼女の反応が、一般市民のリアルな感覚だ。
吉村が隣でため息をつく。
「やっぱり、駄目ですね。手書きのガリ版じゃ、ただの怪文書だ。誰も本気で受け取りませんよ」
「ああ。俺たちの言葉を信じてみようと思ってくれても、行動には移せない」
大八車での避難を止めさせる。それは、全財産を捨てて身一つで逃げろと要求することだ。
そんな重い決断を、手書きのビラ一枚で促せるはずがない。
必要なのは、活字だ。
整然と並んだ鉛の文字。新聞という権威の象徴。それがあって初めて、人々は事態の深刻さを錯覚し、行動を起こす。
「吉村。配布網の構築は、このまま顔役たちに任せて進めてくれ」
「先輩は、どうするんですか?」
「あいつのところへ行くしかない」
俺は夕闇に沈みゆく神田の街並みを見つめた。
モグリの印刷職人、岩田鉄蔵。
一度は断られたが、もう引き下がるわけにはいかない。
どんな手を使ってでも、あの頑固な職人を口説き落とし、本物の号外を刷り上げる。
背後で、誰かの足音が微かに響いた気がした。
執拗に俺を付け回す、鳥打帽の男の気配。
だが、立ち止まっている暇はない。
俺は耐水紙の束を握り直し、岩田の印刷所がある路地裏へと歩き出した。




