第12話
俺は耐水紙の束を握り直し、岩田の印刷所がある路地裏へと歩き出した。
背後に張り付く不穏な気配。鳥打帽の男が、一定の距離を保ちながら追ってくるのが分かる。だが、神田の入り組んだ路地は俺の庭のようなものだ。角を曲がるたびに歩調を変え、狭い路地を縫うように進んで、強引に尾行を振り切った。
息を切らして飛び込んだ岩田の工房は、油とインクの匂いが充満していた。
俺はありったけの熱意と、株で稼いだ資金の残りを叩きつけた。頑固な職人は渋い顔をして煙管を吹かしていたが、最後には短く舌打ちをし、活字の準備を承諾してくれた。
これで、印刷の算段はついた。あとは、中身だ。
そして翌朝。八月三十一日。
うだるような夏の陽射しが、帝都の街を焦がしている。
俺は帝都大学の理学部棟へと急いでいた。ジリジリと鼓膜を打つ蝉時雨の中、すれ違う学生たちは呑気に談笑し、日傘を差した女学生が軽やかな笑い声を上げている。
平和な日常の風景。だが、明日、この街が地獄に変わることなど、彼らは想像すらしていない。
焦燥感を噛み殺しながら、ツタの絡まる赤レンガの校舎に足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を撫でるが、俺の心臓は焦りで早鐘を打っていた。
廊下を歩き、橘薫の研究室が近づいてきたときだった。
中から、激しい怒声が響いてきた。
「君は、自分が何をしているのか分かっているのか!」
大槻玄之助教授の声だ。
俺は足を止め、少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
立派なカイゼル髭を震わせ、大槻が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。その足元には、無数の書類や分厚い専門書が散乱していた。彼が机の上から乱暴に払い落としたのだろう。インク瓶が倒れ、黒い液体が床に染み出している。
「私の学説を否定し、あのような出処不明の妄説にうつつを抜かすとは。我が帝都大学の権威を泥に塗る気か!」
大槻の怒号を浴びながらも、薫は一歩も引かなかった。
背筋をピンと伸ばし、彼を真っ直ぐに見据えている。その瞳には、知性と、決して譲れない信念の光が宿っていた。
「妄説ではありません。地殻の歪みと反発という新たな理論を考慮すれば、あの仮説は極めて論理的です。むしろ、従来の学説に固執することこそ、科学的な事実から目を背ける行為ではありませんか」
「黙りたまえ!」
大槻は床を踏み鳴らした。
「女の浅知恵で世間を惑わす気か。お嬢さんは大人しく私の助手だけをしていればいいものを。学者のくせにヒステリーを起こして、私に盾突くとは言語道断だ」
大槻は尊大な態度で薫を見下し、冷酷に言い放った。
「直ちに荷物をまとめたまえ。君のような者を、これ以上私の研究室に置いておくわけにはいかない。学界から追放される覚悟をしておくことだ」
吐き捨てるように言うと、大槻は踵を返し、ドアに向かって歩き出した。
俺は咄嗟に壁の物陰に身を隠す。
荒々しい足音が廊下を遠ざかっていくのを確認してから、俺は静かに研究室のドアを開けた。
室内は惨憺たる有様だった。
床一面に散らばった計算用紙や文献。薫は黙々と膝をつき、それらを拾い集めている。
「橘先生……」
声をかけると、薫は顔を上げ、少しだけ驚いたように目を丸くした。だが、すぐにいつもの理知的な表情に戻る。
「神田さん。立ち聞きとは感心しませんね」
「すみません。でも、今の……」
俺が言い淀むと、薫は小さく首を振った。
「気になさらないでください。こうなることは、最初から分かっていましたから」
彼女の目元には、深い隈が刻まれていた。徹夜で作業を続けていたことは明らかだ。
薫は立ち上がり、机の上に広げられた一枚の大きな模造紙を指し示した。
「それより、こちらを見てください。完成しましたよ」
俺は机に近づき、その紙を覗き込んだ。
息を呑んだ。
それは、帝都の精緻な地図だった。等高線や建物の密集度合いが細かく書き込まれ、その上に赤いインクで炎の広がる経路が予測されている。
まるで、生き物のように這い進む炎の軌跡。
地盤の脆弱な下町を中心に、家屋の倒壊状況がシミュレーションされ、地震発生時の風向きを考慮した延焼ルートが恐ろしいほど正確に描かれていた。安全な場所への避難経路も、青い線で明確に示されている。余白には、びっしりと複雑な計算式が書き込まれていた。
「地殻の反発による揺れの規模を算出し、過去の火災記録と照らし合わせました。特に危険なのは、この密集地帯です。ここから火の手が上がれば、瞬く間に周囲を飲み込むでしょう」
薫の指先が、地図上の一点をなぞる。
そこは、史実で数万人が犠牲になる被服廠跡の周辺だった。俺の持つ未来の知識と、彼女の科学的分析が、寸分違わず一致している。
「完璧だ……。これほど正確な予測地図は、他にない」
俺は震える声で呟いた。
だが、同時に胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
「先生。あんた、これを完成させるために、大槻教授に逆らったのか。自分の学界での立場を捨ててまで……」
薫はふっと息を吐き、窓の外の青空を見上げた。
「私は、科学的な事実を曲げたくないだけです。未知の事象から目を背け、権威に縋りつくような真似はしたくない。それに……」
薫は俺に向き直り、真っ直ぐに目を見た。
「あなたが言ったのでしょう。一人でも多くの命を救うのだと。そのために、私にしかできないことがあるなら、学者としての矜持にかけてやり遂げるまでです」
女性だからという理由で正当な評価を受けられず、学界の権威から見下されてきた彼女。それでも、彼女の根底にあるのは、科学の力で人を守りたいという純粋で気高い探究心だった。
彼女は今、自らのすべてを懸けて、この地図を作り上げてくれたのだ。
胃の奥に沈殿していた冷たい泥のような感覚が、熱を帯びて溶けていくのを感じた。
かつて、災害の現場で惨状を報告するしかなかった自分。瓦礫の前で立ち尽くし、失われた命を前に唇を噛み締めることしかできなかった無力感。
だが今は違う。目の前には、地位を投げ打ってでも命を救おうとする同志がいる。彼女が徹夜で紡ぎ出したこの地図は、ただの紙切れじゃない。何万人もの命を繋ぐ、希望の道標だ。
「橘先生」
俺は地図から顔を上げ、彼女の目をしっかりと見返した。
「この地図は、俺が必ず帝都の連中に届けます。あんたの覚悟は、絶対に無駄にしない」
俺の言葉に、薫は少しだけ口元を綻ばせた。
「ええ。頼みましたよ、神田さん」
俺は地図を丁寧に丸め、持参した筒に収めた。
明日。ついにその日がやってくる。
この地図を岩田の工房に持ち込み、活字と共に紙に刷り込む。それが、俺たちの最大の武器になる。
手の中の筒が、ずしりと重く感じられた。
それは、橘薫という一人の科学者の魂の重さだった。
俺は研究室の扉を開け、夏の陽射しが照りつける外へと歩き出す。
この予測地図を、どう活かすか。




