第13話
八月三十一日、夕刻。
帝都大学を出た俺は、筒に収めた予測地図を抱え、下町の路地裏にある小さな貸し物置へと急いだ。岩田の工房での輪転機を使った本印刷は、職人たちが集まる夜半からしか動かせない。それまでの数時間すら惜しく、俺たちは並行して手刷りによる先行配布を計画していたのだ。
埃っぽい室内では、吉村がシャツの袖を捲り上げ、ガリ版のローラーと格闘していた。
「先輩、遅かったですね。こっちはもう腕がパンパンですよ」
吉村が額の汗を拭いながら、恨めしそうな声を上げる。
周囲には、粗悪な紙に刷られた手書きのビラが山積みになっていた。
「悪い。だが、最強の武器を手に入れた」
俺は机の上に筒を置き、中から丸まった模造紙を取り出した。
橘薫が徹夜で仕上げた、帝都延焼予測地図。
広げられたそれを見た瞬間、吉村の目が丸くなる。
「こ、これは……」
「火災旋風の発生危険地帯と、安全な避難ルートだ。これをガリ版の原紙に書き写す。文字だけの警告じゃ、人は動かない。視覚で危機を訴えるんだ」
吉村は息を呑み、真剣な顔つきで頷いた。
俺たちは鉄筆を握り、蝋引きの原紙に地図の輪郭とメッセージを刻み込んでいく。
『九月一日正午、大地震発生。火災旋風に注意。風上へ逃げろ』
インクの匂いが充満する中、ローラーが擦れる音だけが響き続けた。
だが、手刷りには限界がある。一枚刷るごとに腕の筋肉が悲鳴を上げ、時間は無情にも過ぎ去っていく。
明日の正午まで、もう半日しかない。
◆ーーーー◆
警視庁の一室。
重厚なマホガニーのデスク越しに、九条道臣は冷ややかな視線を落としていた。
手元にあるのは、下町で回収されたという一枚の粗末なビラ。
「九月一日正午、大地震発生……か」
仕立ての良い三つ揃いのスーツに身を包んだ九条は、感情の読めない声で呟いた。
部屋の入り口には、アイロンの効いた制服を隙なく着こなした香川清太郎が直立不動で控えている。
「香川巡査。この神田栄一という記者は、いまだにこのような流言飛語を撒き散らしているのか」
「はっ。背後に何らかの組織がいる可能性も視野に入れ、内偵を進めておりました。しかし、どうやら単独、あるいは数名の同調者のみで動いているようです」
香川の報告に、九条は鼻で笑った。
「愚かしい。個人の狂信が、どれほど帝都の秩序を乱すか理解していないらしい。社会不安を煽る危険なデマは、断じて容認できん」
九条はビラを丸め、屑籠へと放り投げた。
国家の威信と治安維持。それこそが彼の守るべき絶対の価値だった。
個人の命など、社会の秩序という巨大な歯車を回すための潤滑油に過ぎない。
「君に命じる。いかなる手段を用いても、この不穏分子の口を封じたまえ。帝都の治安を乱す者は、徹底的に排除するのだ」
「はっ。本官が必ずや、排除いたします」
香川は鋭い眼光を向け、深く敬礼した。
生真面目な彼の胸中にあるのは、法と秩序を守るという純粋な使命感だ。
九条は満足げに頷き、冷徹な笑みを浮かべた。
◆ーーーー◆
夜の帳が下りた浅草の繁華街。
蒸し暑い風が吹き抜ける中、俺と吉村は手刷りの号外を道行く人々に配っていた。
「号外です! 明日、大地震が来ます! 避難ルートを確認してください!」
声を張り上げ、地図が刷り込まれた紙を差し出す。
受け取ってくれる者もいれば、気味悪そうに顔を背ける者もいる。
焦燥感が胃の奥をギリギリと締め付けていた。
もっと早く。もっと多く。
だが、その時だった。
「そこまでだ、神田栄一!」
鋭い笛の音が夜気を切り裂いた。
振り返ると、香川を先頭にした数名の警官隊が、人混みを掻き分けて迫ってくる。
周囲の空気が一瞬にして凍りついた。
「特高……!」
吉村が青ざめた顔で後ずさる。
香川は俺たちの前に立ち塞がり、威圧的な口調で告げた。
「貴様らの行動は、帝都の治安を脅かすものだ。社会不安を煽る危険なデマとして、直ちに同行願おう」
警官たちが容赦なく踏み込み、俺の手から号外の束を奪い取ろうとする。
「ふざけるな! これはデマじゃない!」
俺は奪われまいと紙の束を胸に抱え込み、香川を睨みつけた。
「明日、本当に大地震が来るんだ! このままじゃ、あんたの守るべき市民が火の海で死ぬんだぞ!」
俺の怒声に、香川の表情が微かに動いた。
単なる愉快犯ではない、狂気すら孕んだ異常な熱量。
彼は一瞬だけ怯んだように見えたが、すぐに表情を硬直させた。
「記者の分際で世迷言を。貴様らのせいで秩序が乱れるのだ。実力を行使する!」
香川が警棒を抜いた瞬間、吉村が俺の腕を強く引いた。
「先輩、逃げますよ!」
「待てっ!」
警官たちの怒号を背に受けながら、俺たちは入り組んだ路地裏へと飛び込んだ。
下町の地理なら、配り歩いた俺たちの方が分がある。
狭い路地を駆け抜け、木箱の陰に身を潜め、追手の足音をやり過ごす。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っていた。
どれくらい走っただろうか。
遠ざかる笛の音を確認し、俺たちは暗がりで壁に背を預けて崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……」
吉村が膝に手をつき、激しく喘いでいる。
俺の腕の中には、くしゃくしゃになった数枚の号外と、薫の地図の原本だけが残されていた。
残りの手刷り分は、すべて没収されてしまった。
「くそっ……警察が本格的に動き出しやがった」
吉村が恨めしそうに夜空を睨む。
「手刷りじゃ限界です。配る端から没収されちゃ、何の意味もない。これ以上は……」
彼の言葉は、重い現実として俺の胸にのしかかった。
特高警察という巨大な壁。
国家権力は、命を救おうとする個人の足掻きを、いとも容易く踏みにじっていく。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
明日の正午。運命の時間は、もう目の前に迫っているのだ。
「吉村」
俺は壁から背を離し、暗闇の中で後輩の目を見据えた。
「岩田の親父のところへ行くぞ」
「えっ? でも、警察が目を光らせてるんですよ? 今動くのは危険すぎます!」
「だからこそだ」
俺は手の中の地図を強く握りしめた。
「親父の工房では、すでに活字の準備が整っているはずだ。手刷りでの先行配布は切り上げ、輪転機を回して一気に数万枚を刷り上げる本番に移る」
『九月一日正午、大地震が来る。風上へ逃げろ』
このメッセージと、薫が命懸けで紡ぎ出した予測地図。
これを帝都中にばら撒くには、もはや一か八かの賭けに出るしかない。
「……本気ですか、先輩」
吉村の声が震えていた。
だが、その瞳の奥には、俺と同じジャーナリストとしての熱が確かに灯っている。
「ああ。命を最優先にする。どんな手を使ってでもな」
夜の闇の中、警察の監視網は確実に狭まっている。
手刷りの限界と、迫り来る特高の脅威。
絶望的な状況の中で、どうやって大量印刷し、配り切るのか。
俺は深く息を吸い込み、決意と共に路地裏の出口へと歩き出した。




