第14話
夜明け前の冷たい空気が、火照った頬を撫でていく。
隣を歩く吉村は、周囲を警戒しながら小声で尋ねてきた。
「先輩、本当に配り切れるんですか? 警察の目も厳しくなってますし、僕ら二人だけじゃ到底……」
「心配するな。手足となって動いてくれる連中は、すでに確保してある」
俺は歩みを止めず、前を見据えたまま答えた。
昨日までに接触した下町の顔役や、一部の資産家たち。彼らを味方につけるため、俺は未来の記憶をフル活用した。直近の株価の乱高下や、新聞に載る前の小さな事件。それらを次々と予言してみせることで、彼らの懐疑心を完全に打ち砕いたのだ。
路地の角を曲がったところで、半纏を着た若い男とすれ違った。顔役の下で働く若い衆の一人だ。男は無言で顎を引き、準備が整っていることを知らせてきた。俺もわずかに頷き返す。
「あの材木問屋の親父なんて、先輩の言う通りに相場が動いたのを見て、腰を抜かしてましたからね」
吉村が少しだけ得意げに笑う。
「ああ。私費で作る警告文を帝都中にばら撒くための、強力なネットワークだ。彼らの抱える人間たちが、各所で待機している。あとは、配るための『弾』を用意するだけだ」
「それに、中身の説得力も段違いだ」
俺は懐から、丁寧に折りたたまれた原稿用紙を取り出した。街灯の薄明かりの下で、その文字をなぞる。
そこには、若き女性地震学者である橘薫が書き上げた、緻密な理論が記されている。俺が提示した現代の地質学の概念——巨大な岩盤の反発という仮説に彼女は驚愕し、それを当時の学術用語で見事に体系化してくれた。
学界では冷遇されている彼女だが、その知見の鋭さは本物だ。専門家による理論的裏付けを得たことで、この警告は単なる流言飛語から、確かな根拠を持つ予測へと昇華された。
「彼女の言葉があれば、頭の固い連中も無視はできないはずだ」
吉村も原稿を覗き込み、ごくりと喉を鳴らした。
八月三十一日の朝。
空が白み始めた頃、俺たちは目的の場所に辿り着いた。
下町の一角にある、岩田鉄蔵の印刷工房。だが、その周囲の様子がおかしい。
路地の入り口や電柱の陰に、不自然に立ち止まっている鳥打帽の男たちがいる。治安維持を名目に俺たちを追う、あの組織の犬たちだ。
「見張られてますよ……」
吉村が顔を引きつらせ、壁の陰に身を隠した。
真正面から突っ込めば、間違いなく捕まる。手刷りの限界を悟った今、ここで活字の大量印刷を諦めるわけにはいかない。
「吉村、陽動を頼む。わざと音を立てて逃げ出し、奴らの注意を引いてくれ」
「えっ、僕がですか!?」
「頼む。その隙に俺が裏口から潜り込む。まいたら、後で合流してくれ」
吉村は一瞬だけ泣きそうな顔をしたが、すぐに覚悟を決めたように頷いた。
「……わかりました。捕まらないでくださいよ!」
後輩が路地を飛び出し、派手に空き缶を蹴り飛ばして走り去る。
「おい、あいつだ!」
見張りの男たちが一斉にそちらへ気を取られ、足音を立てて追いかけていく。
その一瞬の隙を突き、俺は工房の裏手へと駆け込む。鍵の壊れた小窓を押し上げ、埃っぽい室内へと滑り込んだ。
◆ーーーー◆
油とインクの匂いが、鼻腔を突く。
「何の真似だ、坊主」
暗がりから、野太い声が響いた。
筋骨隆々の体に、インクの染みがついた前掛け。職人の岩田鉄蔵が、腕を組んで俺を見下ろしていた。
俺は息を整え、真っ直ぐに彼の目を見返した。
「親父さん。約束通り、原稿を持ってきた」
俺は懐から、薫の書き上げた理論と、彼女が命懸けで紡ぎ出した延焼予測地図を取り出し、作業台の上に広げた。
「警察の弾圧が強まってる。手刷りじゃもう間に合わない。あんたの腕と、その機械の力が必要なんだ」
岩田は無言で地図に目を落とした。
「……表に犬どもがうろついてるな。こんなもん刷ったら、俺の首も飛ぶぞ」
「それでも、刷ってほしい。明日、帝都は火の海になる。この地図の通りに人が動けば、数え切れないほどの命が助かるんだ」
俺の言葉に、岩田は鼻を鳴らした。
「記者のくせに、随分と青臭いこと言うじゃねえか」
ぶっきらぼうな口調。だが、その視線は緻密な地図から離れない。活字にされるのを待っている、切実な言葉の羅列。
沈黙が降りた。遠くで、始発電車の走る音が微かに聞こえる。
やがて、岩田は前掛けの紐を力強く締め直した。
「……上等だ」
その口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「職人の端くれとして、こんな面白え仕事から逃げちゃあ、男が廃るってもんだ」
岩田は作業台に向かい、素早い手つきで活字を拾い始めた。
「だがな、会社に無断で機械を回すんだ。正規の紙は使えねえ。在庫を誤魔化すのは無理だ」
「それなら、どうするんです?」
岩田は部屋の隅に積まれた木箱を、つま先で軽く蹴った。
「売れ残りの耐水紙が大量に余ってやがる。軍の放出品で、インクの乗りが悪くて誰も使わねえ代物だ。これなら帳簿に載ってねえからバレねえ」
妥協の選択。だが、俺はその言葉にハッとした。
震災後、水道管は破裂し、消火活動や泥水で街は水浸しになる。通常の紙ならすぐに破れて読めなくなるだろう。だが耐水紙なら、過酷な環境下でも人々の手から手へと渡り続けるはずだ。
「最高じゃないか。それを使ってくれ」
「おう。インクも、こいつ専用の特殊なやつを引っ張り出してやる」
岩田が活字を組み上げ、版を固定していく。その無駄のない動きに、俺は息を呑んだ。
裏口の窓から、息を切らした吉村が転がり込んできた。
「ぜえ、ぜえ……ま、まいてやりましたよ、先輩!」
「よくやった。さあ、始めるぞ」
岩田が太い腕でレバーを引く。
重厚な金属音が室内に響き渡り、巨大な輪転機が唸りを上げて回り始めた。
次々と吐き出されていく、真新しい紙の束。
『明日正午、大地震が来る。風上へ逃げろ』
黒々とした活字が、特殊な紙の表面に力強く刻み込まれている。
ついに、俺たちは強力な印刷手段を手に入れた。
反撃の狼煙を上げる手応えが、確かな振動となって床から伝わってくる。
無事に印刷を終えることができるのか。
迫り来る組織の影を感じながらも、俺は次々と刷り上がる希望の束から目を離せなかった。




