第15話
岩田が太い腕でレバーを引く。
重厚な金属音が室内に響き渡り、巨大な輪転機が唸りを上げて回り始めた。
次々と吐き出されていく、真新しい紙の束。
『明日正午、大地震が来る。風上へ逃げろ』
黒々とした活字が、特殊な紙の表面に力強く刻み込まれている。ついに、俺たちは強力な印刷手段を手に入れた。反撃の狼煙を上げる手応えが、確かな振動となって床から伝わってくる。
俺は刷り上がったばかりの一枚を手に取った。インクの独特な匂いが鼻腔を突く。耐水紙のざらついた感触が、指先から焦燥感を少しだけ和らげてくれた。
「先輩、外の様子を見てきました」
息を切らした吉村が、裏口の小窓から顔を覗かせた。その表情は硬く、額には脂汗が浮いている。
「どうだった。香川たちは近くにいるか」
「ええ、制服の連中が数人、大通りをうろついてます。ただ……」
吉村は声を潜め、周囲を警戒するように目を細めた。
「警察とは違う、妙な連中が混じってます。こっちの動きを探っているような……」
俺は眉をひそめた。治安維持を名目にする連中なら、不審な動きを見つけ次第、容赦なく踏み込んでくるはずだ。だが、吉村の言う視線は、静かに俺たちを観察しているだけだという。
脳裏に、煙草の煙が漂うデスクで腕を組む初老の男の顔が浮かんだ。
編集長。あんたが放った密偵なのか。
俺の無謀な行動を止めるでもなく、ただ静観している。その真意が読めない不気味さが、胃の奥に冷たいしこりを作った。現実主義の塊のようなあの人が、ただの傍観を決め込むとは思えない。
だが、今は立ち止まっている暇はない。
◆ーーーー◆
「神田さん、いや、神田の旦那」
裏口の重い扉が軋み、恰幅の良い人影が滑り込んできた。山城屋徳兵衛だ。その後ろには、白いエプロン姿の鈴子も続いている。
「徳兵衛さん、鈴子も。よく警察の目を掻い潜れましたね」
「へっ、この界隈の路地裏なら、わしらの庭みたいなもんでさあ」
徳兵衛はニヤリと笑い、懐から革張りの手帳を取り出した。
「あんたの言った通りになったよ。昨日の引け際、紡績の株が急落しやがった。おかげで大損こかずに済んだ。あんたの予見、本物だと見込んだぜ」
俺が事前に伝えておいた直近の相場動向。それがピタリと的中したことで、この商人は完全に腹を括ってくれたらしい。
「約束通り、下町の顔役どもはわしが丸め込んだ。材木問屋の連中も、荷車を裏道に待機させてある。刷り上がった端から、米俵の裏に隠して各拠点へ運ぶ手はずだ」
「わたしも、カフェの常連さんたちに声をかけたわ」
鈴子が明るい声で胸を張る。
「みんな、あんたの必死な顔を見て、ただの噂じゃないって信じてくれたの。手分けして配るから、任せてちょうだい」
「ありがとう。これで、帝都中にばら撒ける」
ただの紙切れが、人から人へと渡るための強力なネットワークが、確かな形となって組み上がっていく。
「待ってください!」
不意に、切羽詰まった声が響いた。
乱れた髪を直す余裕もなく、橘薫が工房に飛び込んできた。彼女の腕には、分厚い原稿の束が抱えられている。
「橘さん? どうしてここに」
「これを、一緒に刷り込んでください」
彼女は息を整えながら、原稿を俺の胸に押し付けた。
「あなたが言っていた、巨大な岩盤同士の反発……その仮説を基に、私なりの見解書をまとめました。学界の権威には鼻で笑われましたが、理論としての整合性は証明できます」
原稿の末尾には、彼女の署名が力強く記されていた。
「私の名前を使ってください。ただの出所不明な紙切れじゃなく、地震学者の警告として出せば、信じる人はもっと増えるはずです」
冷遇され続けてきた若き研究者が、自らのキャリアを懸けて理論の裏付けを提供してくれたのだ。
「岩田さん! 裏面にこれを追加できるか!」
「おう、任せな! すぐに版を組み直してやらあ!」
職人の怒号とともに、輪転機が再び唸りを上げた。
その時、表の通りからけたたましい笛の音が鳴り響いた。
「おい、あそこだ! 踏み込め!」
香川の声だ。ついに嗅ぎつけられた。
「まずい、表から来ます!」
吉村が青ざめた顔で叫ぶ。
「慌てるな」
徳兵衛が煙管を咥えたまま、余裕の笑みを浮かべた。
「表の連中には、わしの若い衆が『酒の密造』の偽装でひと芝居打ってやる。その隙に、裏から荷車を出すぞ」
表口で激しい怒号と揉み合いの音が響き始める。
「今だ、運べ!」
俺たちは刷り上がったばかりの束を抱え、裏口に待機していた荷車へと次々に積み込んでいった。米俵と筵で覆い隠し、鈴子たちが手際よく縄をかける。
「行くわよ!」
鈴子の合図で、荷車が音を立てて路地裏へと滑り出していく。
警察の目を欺き、俺たちの警告が帝都の血管へと流れ込んでいく。
暗い路地を遠ざかる荷車の車輪の音を聞きながら、俺は深く息を吐き出した。
だが、ふと背後に視線を感じて振り返る。
通りの向こう側、街灯の届かない暗がりに、鳥打帽を目深に被った男が立っていた。
男は騒ぎに加わることもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
編集長の放った密偵。
なぜ、奴らは動かない? 記事を差し止めた桐島が、この無謀な企てを潰しに来ない理由は何だ。
疑問が渦巻く中、背後で岩田の回す輪転機が、休むことなく重低音を響かせ続けていた。
いよいよ、本当の戦いが始まる。




