第16話
暗い路地を遠ざかる荷車の車輪の音を聞きながら、俺は深く息を吐き出した。
だが、ふと背後に視線を感じて振り返る。
通りの向こう側、街灯の届かない暗がりに、鳥打帽を目深に被った男が立っていた。
男は騒ぎに加わることもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
編集長の放った密偵。
なぜ、奴らは動かない? 記事を差し止めた桐島が、この無謀な企てを潰しに来ない理由は何だ。
疑問が渦巻く中、背後で岩田の回す輪転機が、休むことなく重低音を響かせ続けていた。
いよいよ、本当の戦いが始まる。
俺は鳥打帽の男から視線を外し、夜の闇に紛れて次なる目的地へ向かった。
翌、八月三十一日。
空はどんよりと曇り、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。帝都全域を網羅する配布網を完成させるため、俺は下町の顔役だけでなく、山の手の資産家たちにも接触を図っていた。
私費で作る号外を帝都中に配るには、徳兵衛のような下町のネットワークだけでは足りない。広大な帝都の隅々にまで警告を行き渡らせるための、強力な手足が必要だった。
午前八時。俺は山の手にある豪邸の応接室にいた。目の前の革張りソファに深く腰掛けているのは、海運業で莫大な財を成した資産家・藤堂だ。
「君の言うことは荒唐無稽すぎる。明日の昼に帝都が壊滅するなど、誰が信じるというのかね」
藤堂は高級な葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら、鼻で笑った。ペルシャ絨毯が敷かれた応接室には、舶来品の調度品が並んでいる。壁には高価な油絵が飾られ、静寂の中に古時計の秒針の音だけが響いていた。彼にとって、俺のような一介の記者の言葉など、路傍の石ころと同義だろう。
「今日の正午、横浜港に停泊中の外国船でボイラーの爆発事故が起きます。死傷者は出ませんが、港は一時封鎖される」
俺は真っ直ぐに藤堂の目を見据えた。
「もしそれが現実になったら、あんたの持つ流通網と人員を、俺の号外配布に貸してほしい」
「予言者の真似事か。馬鹿馬鹿しい。帰れ」
藤堂は取り合おうとしなかったが、俺は一歩も引かなかった。
「帰るわけにはいかない。あんたの決断一つで、何千、何万という命が左右されるんだ」
数時間後の正午過ぎ。応接室の電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
受話器を取った藤堂の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……本当に、爆発が起きたというのか。被害状況は……」
震える手で受話器を置いた彼に、俺は畳み掛けた。
「命を最優先に行動する。それが、あんたの築き上げた財産を守る唯一の道だ。従業員たちを安全な場所へ避難させ、同時に俺の号外を配らせてくれ」
藤堂は額に冷汗を浮かべながら、無言で頷いた。
「……わかった。私の持つすべての荷車と人員を、君の指示通りに動かそう」
こうして、未来の記憶を武器に、俺は次々と有力者たちを丸め込んでいった。事故や相場の変動といった予知が的中したことで、疑心暗鬼だった資産家たちも青ざめ、私財を投じたネットワークに加わった。これで、帝都中に号外をばら撒く強力な手足は揃った。
◆ーーーー◆
藤堂たち資産家を味方につけた俺は、その足で岩田の工房へと急いだ。
すでに工房では、橘先生が持ち込んだ見解書の組み込み作業が進んでいるはずだ。昨夜、彼女が原稿の束を抱えて飛び込んできた時の、強い熱を宿した瞳を思い出す。
俺が伝えた大正時代にはまだ存在しない現代の知識――海溝で沈み込むプレートの摩擦によって限界まで溜まった歪みが、一気に跳ね返ることで巨大地震が発生するというプレートテクトニクス理論。彼女は過去の震源地の分布や地殻変動のデータとそれが完全に符合することに驚愕し、すぐさま見解書の理論的裏付けとして組み込んでみせた。
大槻教授たち権威に「女の浅知恵」だと一蹴されれば、誰も警告を信じない。だが、未知の事象から目を背けず真理を追究する彼女の執念が、誰にも反論させない完璧な盾を作り上げたのだ。
「私も最後まで見届けます。この警告が、一人でも多くの命を救うために」
そう語った彼女の覚悟が、この無謀な計画を支える強固な柱となっている。
俺が手配した資産家たちの配布網と、彼女の科学的裏付け。これで帝都中に警告を届けるすべてのピースが揃った。
俺は胸の高鳴りを抑えきれないまま、決戦の地である岩田の工房へと歩みを早めた。
八月三十一日、午後。
岩田のおやっさんの工房には、むせ返るようなインクの匂いが充満していた。
油に塗れた歯車が噛み合い、売れ残りの耐水紙をセットした輪転機が、凄まじい重低音を立てて回り始める。
「明日の正午、大地震が来る。風上へ逃げろ」
俺の書いた警告文が、次々と紙に刻み込まれていく。
吐き出されてくる号外の束を手に取ると、指先に確かな重みを感じた。
機械音に混じって、表の通りからけたたましい足音が近づいてくる。
「おい、不味いぞ!」
見張りをしていた吉村が、血相を変えて裏口から飛び込んできた。
「警察だ。警察の連中が、この区画を完全に包囲しやがった!」
大槻教授の密告か、それとも香川巡査の執念か。不穏な動きを察知した警察の捜査網が、ついに岩田の工房にまで迫っていた。
窓の隙間から外を覗くと、アイロンの効いた制服を着た香川巡査の姿が見えた。長身の彼は、鋭い眼光で周囲を睨みつけながら、部下たちに指示を出している。
「この周辺の家屋をすべて調べろ。不審な印刷機が動いているはずだ」
絶体絶命の状況に、俺の胃の奥が冷たくなる。
「私が時間を稼ぎます」
不意に、背後で声がした。
見解書を届けに来ていた橘先生が、毅然とした態度で立ち上がった。
「橘先生、あんたが出る必要は……」
「私が行くから意味があるんです。学術的な調査だと言い張れば、彼らも無下には扱えません」
彼女は俺の制止を振り切り、工房の表口へと向かった。
◆ーーーー◆
「本官は、社会不安を煽る不届き者を捜索している。そこを退きなさい!」
表から、香川巡査の威圧的な怒号が響いてくる。
「令状はありますか?」
橘先生の理知的な声が、それに真っ向からぶつかった。
「私は今、地震予知に関する重要な実地調査を行っているところです。科学的な事実を曲げてまで、警察権力で学問を弾圧するおつもりですか」
「なんだと? 貴様、女のくせに……」
「女性だからといって、私の研究を軽視するのはお門違いです。この観測データを見なさい! 地殻変動の異常値が、すでに危険水域に達しているのです」
橘先生が囮となって、警察の注意を一身に引きつけている。
その隙に、岩田のおやっさんと吉村は猛スピードで号外を刷り上げていた。
「おやっさん、急いでくれ!」
「黙って見てな。機械が泣くぜ」
ぶっきらぼうに言い放ち、岩田は太い腕でレバーを操作し続ける。
刷り上がったばかりの号外の束が、次々と木箱に詰め込まれていく。
インクはまだ乾ききっていないが、耐水紙のおかげで文字が滲むことはない。
警察の包囲網がじりじりと狭まる中、俺はその重い束を両腕に抱え込んだ。
「行くぞ」
裏口の扉を蹴り開ける。
警察の追跡を振り切り、この警告を帝都の隅々まで配り切れるのか。
だが、もう後戻りはできない。
決死の作戦が、今始まる。




