第17話
「行くぞ」
裏口の扉を蹴り開ける。
警察の追跡を振り切り、この警告を帝都の隅々まで配り切れるのか。
だが、もう後戻りはできない。
決死の作戦が、今始まる。
息が上がる。足元の石畳を蹴るたび、抱えた号外の重みが腕に食い込んだ。インクの匂いが鼻腔を突く。
「先輩、こっちです!」
吉村の案内に従い、入り組んだ下町の道を急ぐ。夕暮れの空は赤く染まり、帝都の喧騒が遠くに聞こえる。長屋の軒先には夕餉の支度をする煙が立ち上り、子供たちの笑い声が響いていた。明日、この平和な日常がすべて灰燼に帰す。その事実が、焦燥感となって背中を押した。
大通りに出ると、引っ越し業者だろうか、家財道具を山のように積んだ大八車が何台も道を塞いでいた。箪笥や布団、鍋釜までが危ういバランスで積み上げられ、車輪が軋む音を立てている。明日の大震災で、この大八車が避難の障害になり、火災旋風の被害を拡大させる。史実の記憶が脳裏をよぎり、胃の奥が重くなったが、今は立ち止まっている暇はない。
背後に気配を感じて振り返る。鳥打帽を深く被った不審な男が、一定の距離を保って尾行してきていた。岩田の印刷所からずっとついてきている。特高か……! 俺が身構え、吉村を背中にかばった瞬間、男は帽子を取り、深く頭を下げた。
「神田さんですね。辰五郎の親分から、あんたたちを無事に案内するよう言いつかってます。こっちへ」
執拗な尾行者の正体は、警察ではなく、俺の身を案じた顔役からの差し金だったのだ。男の案内に従い、俺たちは迷路のような路地を抜け、下町の顔役である辰五郎の拠点へと辿り着いた。
拠点に飛び込むと、土間の奥で辰五郎が腕組みをして待ち構えていた。煙管の煙を吐き出しながら、鋭い視線をこちらに向ける。
「あんたの言った通りだ。今日の昼、紡績株が暴落した。おかげで俺も大損を免れたぜ」
辰五郎の背後には、半纏を着た屈強な若い衆が何十人も控えている。彼らだけではない。事前に接触していた資産家たちの使いも集まっていた。
「藤堂さんの旦那からも言付かってます。あんたの言った通り、横浜港での爆発事故が起きた。旦那はあんたの言葉を完全に信じてる。うちの若い衆も好きに使ってくれ、とね」
直近の株価変動や事件の予知という未来知識を使い、次々と丸め込んできた成果だ。これで、私費で作った号外を帝都中に配るための強力なネットワークが完成した。
「約束通り、手伝ってもらうぞ」
俺は木箱から号外を取り出し、彼らの前に広げた。
「明日の正午、大地震が来る。火の手が上がったら空き地への退避経路へ向かえ。そう書かれている」
「だがよ、本当にそんな大層な地震が来るのか?」
辰五郎が訝しげに眉をひそめる。
その時、拠点の引き戸が勢いよく開いた。
「来ます。間違いなく」
息を切らして立っていたのは、橘薫だった。囮になってくれた彼女は、なんとか警察の目を盗んでここまで逃げてきてくれたのだ。
「橘先生、無事だったんですね」
「ええ。でも、警察は本気です。私たちが配ろうとしているものを、徹底的に潰すつもりでしょう」
彼女は息を整えながら、顔役たちに向き直った。
「私は地震学者です。観測データに異常が出ているのは事実ですが、それだけで帝都が壊滅するとは断言できませんでした。でも……」
橘先生は俺を見た。
俺は頷き、彼女に、そして顔役たちに向けて口を開いた。
「地球の表面は、巨大な岩盤——プレートで覆われています。それが少しずつ動き、境界でぶつかり合い、歪みが蓄積しているんです。その歪みが限界に達し、一気に跳ね返る。それが明日の正午に起きる巨大地震の正体です」
「相模湾を震源とする巨大な断層のズレ。それが引き起こす揺れは、これまでのどんな地震とも比較になりません」
現代のプレートテクトニクス理論。大正時代にはまだ存在しない、あるいは異端とされる学説だ。俺は手近な紙切れに、日本列島の下に沈み込むプレートの図を描いてみせた。
橘先生は目を見開き、図と俺の顔を交互に見比べた。その手が小刻みに震えている。
「岩盤が、動く……? そうか、それならすべての観測データに説明がつきます! なぜ今まで誰も気づかなかったの……!」
彼女は手帳を取り出し、猛然と数式や図を書き込み始めた。そして、確信に満ちた瞳で顔を上げた。
「神田さんの言う通りです。この理論に基づけば、明日の正午、未曾有の揺れが帝都を襲うことは科学的に証明できます。私が、地震学者として保証します」
当時の学界で冷遇されていた若き女性地震学者が、現代の理論によって完全に覚醒し、警告の理論的裏付けとなる権威として味方になった瞬間だった。
「専門家がそこまで言うなら、信じるしかねえな」
辰五郎が力強く頷いた。
「わかった。野郎ども、手分けして配るぞ!」
辰五郎の号令で、男たちが号外の束を抱えて散っていく。
俺と吉村も、人の多い大通りへと向かった。
夕暮れの街角で、カフェの仕事を終えた鈴子が合流してくれた。モダンな柄の着物に白いエプロン姿の彼女は、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「わたしも手伝うわ。あんたがそこまで言うなら、信じてみるから」
「ありがとう、鈴子」
俺たちは道行く人々に、刷り上がったばかりの号外を配り始めた。
「号外です! 明日の昼、大地震が来ます! 火災に備えてください!」
最初は順調だった。耐水紙に刷られた文字は、夕日を浴びてはっきりと警告を伝えている。受け取った人々は半信半疑ながらも、そのただならぬ熱気に押されて紙面に目を落としていた。
◆ーーーー◆
だが、事態は唐突に暗転した。
「そこまでだ」
冷徹な声が響き、周囲の空気が凍りついた。
仕立ての良い三つ揃いのスーツを着こなした男、九条道臣が、十数人の私服警官を引き連れて現れた。常に冷ややかな笑みを浮かべているその顔に、感情の色はない。
「社会不安を煽る不穏文書の流布。帝都の治安を乱す行為として、すべて没収する」
九条が冷ややかに顎をしゃくると、警官たちが一斉に襲いかかってきた。
「やめろ!」
俺は叫び、咄嗟に近くにあった大八車の車輪を蹴り飛ばした。積まれていた家財が崩れ落ち、警官たちの行く手を阻む。その隙に、俺は吉村と鈴子を庇いながら後退した。
「逃げるんだ!」
機転を利かせて包囲を突破しようとしたが、特高の数は多すぎた。路地の反対側からも警官が現れ、退路を断たれる。
「きゃっ!」
鈴子の悲鳴が上がった。彼女が抱えていた号外の束が、警官に強引に奪い取られる。
「何するのよ、返して!」
「黙れ!」
警官は鈴子を突き飛ばし、奪った号外を無残に破り捨てた。宙を舞う紙片が、夕暮れの風に流されていく。
「鈴子!」
助け起そうとした吉村も、背後から羽交い締めにされる。ダボついた背広を掴まれ、地面に引き倒された。
「僕に構うな、逃げてください!」
「君の独りよがりな正義感で、善良な市民を惑わすのはやめたまえ。秩序こそが命を守るのだ」
九条が冷酷な笑みを浮かべ、靴の裏で号外を踏みつけた。売れ残りの耐水紙は、水たまりの泥にまみれても文字が滲むことはなかった。だが、人々に届かなければただの紙屑だ。
「九条……!」
俺は歯を食いしばり、拳を握りしめた。
いくら声を枯らしても、権力の壁はあまりにも厚い。
報道するだけで命を拾えなかった過去の無力感が、再び胃の奥に冷たく沈殿していく。
「撤退だ……吉村、鈴子、走れ!」
俺は仲間を引き剥がし、入り組んだ路地へと逃げ込んだ。
背後から迫る警官の足音。
必死に刷り上げた希望が、泥の中に沈んでいく。
明日の正午まで、もう時間がない。
俺たちは警察の追及から逃れられるのか。ただ冷たい不安だけが、足元にまとわりついていた。




