第18話
「撤退だ……吉村、鈴子、走れ!」
俺は仲間を引き剥がし、入り組んだ路地へと逃げ込んだ。
背後から迫る警官の足音。
抱えていた号外の束から数枚がこぼれ落ち、容赦なく泥水に踏みにじられた。
明日の正午まで、もう時間がない。
俺たちは警察の追及から逃れられるのか。ただ冷たい不安だけが、足元にまとわりついていた。
息を殺し、湿った土の匂いが立ち込める暗い路地裏を駆け抜ける。
吉村と鈴子の荒い呼吸が、すぐ背後からついてきている。泥水を跳ね上げ、角を曲がるたびに心臓が早鐘を打った。
大通りに出ると、夜逃げのように家財道具を大八車に積み込んでいる業者の姿があった。荷台には古びた箪笥や布団の山が危ういバランスで積まれ、車輪が石畳を軋ませる音が異様に大きく響いている。
明日の震災時、あの大八車が道を塞ぎ、火災旋風の被害を拡大させるのだ。炎に包まれる未来のビジョンが脳裏をよぎり、焦燥感が胸を焼く。
俺たちは追手を振り切り、下町の顔役である辰五郎の隠れ家へと転がり込んだ。
薄暗い土間には煙草の煙が立ち込め、男たちの熱気が充満している。そこには、事前に手筈を整えていた資産家の藤堂たちも集まっていた。
直近の株価変動や、横浜港での小火といった未来の知識を使い、俺は彼らを次々と丸め込んできた。私費を投じて築き上げた、帝都中に号外を配るための強力なネットワークだ。
「あなた、ご無事で……」
部屋の奥から、橘先生が安堵の息を吐いて歩み寄ってきた。
「橘先生。警察の弾圧が始まりました。残った号外は、辰五郎さんたちの流通網を使って一気に配るしかありません」
俺は息を整えながら、顔役たちに向き直った。
彼らを完全に動かすには、確固たる根拠がいる。橘先生が静かに頷き、前に出た。
「皆様。これは単なる予測ではありません」
彼女は卓上に広げた帝都の地図を指差し、現代のプレートテクトニクス理論を語り始めた。
「私たちの足元には、巨大な岩盤が存在しています。それが沈み込み、限界まで蓄積された反発力が一気に解放される。それが未曾有の揺れを引き起こすのです」
理知的で毅然とした声が、未知の知識として顔役たちを驚愕させる。
「科学的な必然として、明日、大地が裂けます。私の名前と研究を懸けて保証いたします」
警告の理論的裏付けとなる権威。その言葉に、辰五郎たちも腹を括ったように頷きかけた。
だが、外から飛び込んできた若い衆が、その空気を粉々に打ち砕いた。
「親分、大変です! 帝都日報の夕刊が……!」
差し出された紙面を見て、俺は息を呑んだ。
『非科学的な妄言に惑わされるな——大槻玄之助教授、若手研究者の流言飛語を痛烈に批判』
記事には、大槻教授が各新聞社に圧力をかけ、橘先生の地震理論を完全否定する声明を発表したと書かれていた。さらに、彼女の学界からの追放が決定的になったという一文まである。
「そんな……大槻先生が、ここまで……」
橘先生の顔から血の気が引いた。彼女が最も恐れていた、自分の警告が「女の妄言」として一蹴される状況が現実になってしまったのだ。
「新聞がこう書いちゃあ、俺たちも動けねえ。特高に睨まれたら商売あがったりだ」
辰五郎が渋い顔で視線を逸らす。
権威による裏付けは、より巨大な権威によって社会的に抹殺された。俺の警告の信憑性も地に落ち、強力な配布網は稼働する前に崩れ去った。
◆ーーーー◆
八月三十一日、夜。
俺たちは隠れ家を後にし、岩田の印刷所へと戻ってきた。
顔役が駄目なら、自分たちの手で配るしかない。売れ残りの耐水紙と特殊なインクが、まだ少しだけ残っている。
不穏な動きを察知した特高警察の巡回が厳しさを増す中、俺たちは息を潜めて輪転機を回した。
重い駆動音が、静寂の降りた工房に響き渡る。
「明日正午、未曾有の揺れが襲う。炎の及ばない方角へ走れ」
その一文を刻み込んだ号外を、大量に刷り上げる。インクの匂いが立ち込める中、刷り上がった束を抱えて工房の裏口を開けた。
だが、そこに長身の影が立ち塞がっていた。
「そこまでだ、神田」
アイロンの効いた制服を隙なく着こなす巡査、香川清太郎。
「香川……!」
俺は咄嗟に周囲を見回した。吉村に目配せし、積まれた木箱を崩して逃げ道を作ろうとする。機転を利かせて突破口を探るが、香川は動じず、警棒を抜いて退路を完全に塞いだ。
「無駄な抵抗はやめたまえ。本官は、社会不安を煽る危険分子を見過ごすわけにはいかない」
硬く威圧的な声。だが、その鋭い眼光の奥には、どこか迷いが滲んでいた。彼もまた、目の前の民衆を守りたいという純粋な使命感を持っている。俺の異常な執念に、内心で葛藤を抱えているのがわかった。
「頼む、香川! 明日、必ず惨劇が起きるんだ!」
俺は血を吐くような思いで叫んだ。
「下町は火の海になる。これを配らなければ、何万人もの人が死ぬ! あんたも帝都の民を守る警察官なら、見逃してくれ!」
香川はその気迫に一瞬だけ怯み、警棒を持つ手をわずかに下げた。
沈黙が降りる。
遠くで、夜回りの拍子木が鳴った。
香川はゆっくりと首を振る。
「……法と秩序こそが、命を守るのだ。その不穏文書を渡しなさい」
無情な宣告だった。
ここで抵抗すれば、吉村や鈴子、橘先生まで逮捕される。
俺は奥歯を噛み砕くほど食いしばり、刷り上げたばかりの号外の束を、香川の足元に置いた。
香川はそれらを拾い上げ、何も言わずに闇の中へ消えていった。
逮捕こそ免れた。だが、情報を伝える手段も、それを裏付ける権威も、すべて失った。
冷たい夜風が、空っぽになった両手をすり抜けていく。
明日の正午まで、あと十数時間。
報道するだけで命を拾えなかった過去の無力感が、再び胃の奥に冷たく沈殿していく。
俺たちは、ただ暗い路地裏に立ち尽くしていた。
その時、絶望の淵に沈む俺の背後に、予期せぬ人物の影が静かに差し掛かった。
数日前から執拗に俺たちを尾行していた、鳥打帽の男。
「……まだ、諦めるのは早いんじゃないか」
低く掠れた声。
振り返った先に立っていたのは——。




