第19話
「……まだ、諦めるのは早いんじゃないか」
低く掠れた声。
振り返った先に立っていたのは——。
数日前から執拗に俺たちを尾行していた、鳥打帽の男だった。
暗い路地裏に、男の革靴が石畳を叩く音が響く。夜の静寂を切り裂くようなその音に、吉村がびくりと肩を震わせた。
「先輩、こいつ……」
警戒して身構える吉村を背に庇い、俺は男を睨みつけた。特高警察の犬かと思ったが、纏う空気が違う。警棒も手錠も持っていない。ただ、鋭い眼光だけが暗がりの中で光っていた。
「あんた、誰だ。何の目的で俺たちを嗅ぎ回っている」
男は帽子を深く被り直し、周囲の暗がりへ視線を走らせた。
「帝都日報の者だ。編集長が、君たちと話がしたいそうだ」
桐島編集長。その名を聞いて、胃の腑が凍りついた。
古巣からの接触。それは最後の希望であると同時に、引導を渡される予感でもあった。
◆ーーーー◆
男の案内で帝都日報へ向かう道中、俺は立ち止まった。
「その前に、寄る場所がある。時間は無駄にできない」
男が眉をひそめるのを無視し、俺は深夜の裏通りへ足を踏み入れた。向かったのは、下町の顔役や闇市の元締めが集まる秘密の賭場だ。
紫煙が立ち込める薄暗い部屋で、恰幅の良い資産家や強面の男たちが卓を囲んでいた。俺は彼らの前に進み出た。
「明日の朝、紡績株が暴落する。横浜の倉庫街で起きる火災が原因だ」
未来の知識を武器に、直近の株価変動や事件の予知を次々と並べ立てる。最初は冷笑していた男たちの顔色が、俺の言葉が持つ異様な具体性に次第に変わっていった。
「俺の予知が当たったら、あんたたちの持つ荷車と若い衆を貸してくれ。私費で作る号外を、帝都中に配るための網の目が必要なんだ」
「……もし外れたらどうする」
「俺の命を差し出す。だが、当たれば何万という命が助かる」
狂気じみた熱量で丸め込み、強力なネットワークを築き上げる。道端では、夜逃げのように家財を大八車に積んで運ぶ業者の姿があった。あんなものが道を塞げば、炎から逃げ遅れる。だからこそ、安全地帯への逃げ道を確保する網が必要だった。
◆ーーーー◆
次に向かったのは、橘薫が身を潜めている安宿だった。
前日に彼女自身が導き出した地震理論は完璧だったが、発生時期の特定にはあと一歩の確証が欠けていた。学界から追放され、疲労困憊の彼女に対し、俺は一枚の紙を差し出した。そこに記したのは、未来の地震学が弾き出した相模トラフの正確な歪み限界値と、明日を起点とする地殻変動の最終理論だ。
「橘先生。あんたの理論は間違っていない。これが、明日大地が裂ける決定的な証拠だ」
紙面を見つめる彼女の瞳が、驚愕に見開かれた。当時の学界では冷遇されていた彼女の仮説が、俺の提示した未来の理論と完璧に合致したのだ。
「神田さん……これなら、私の計算の空白がすべて埋まります。警告の理論的裏付けとして、完璧な見解書が書けるわ」
震える手でペンを走らせる彼女から、俺は権威の裏付けとなる書面を受け取った。これで、桐島を説得する材料は揃った。
◆ーーーー◆
密偵に連れられ、帝都日報の地下書庫へ足を踏み入れた。
埃っぽい空気の中、カンテラの灯りに照らされて、桐島源太郎が腕を組んで立っていた。
「編集長」
俺は一歩前に出た。
「下町の顔役たちを動かす手筈は整えました。橘先生の理論的裏付けもあります。どうか、帝都日報の紙面で警告を打たせてください。あんたの決断一つで、救える命があるんだ!」
俺は必死に訴えた。報道の最前線に立ち、レンズ越しに惨状を伝え、声を枯らして叫んでも、死者は蘇らない。事後報告しかできなかった過去の無力感を、二度と同じ轍は踏まないために。
だが、桐島は冷徹な眼差しを崩さなかった。
「君の覚悟は認める。だが、新聞の社会的責任を放棄しない。裏付けのない記事は載せない」
「裏付けなら、ここに!」
「一人の学者の見解と、君の異常な執念だけだ。それで社会にパニックを引き起こせば、新聞の信用は失墜する。私は、万が一に備えて避難経路の確認などは進めている。だが、君の号外に社としてお墨付きを与えることはしない」
突き放すような言葉。ジャーナリストとしての矜持が、俺の願いを無情にも切り捨てた。
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「先輩、まずいですよ!」
見張りに立っていた吉村が、血相を変えて飛び込んできた。
「特高です! 嗅ぎつけられました!」
地下書庫の階段から、複数の重い足音が響いてくる。不穏な動きを察知した特高警察の妨害だ。
「編集長、ここは俺たちが引きつけます。あんたは裏から逃げてくれ」
俺は書庫の配電盤を思い切り蹴り飛ばした。火花が散り、地下室が完全な闇に包まれる。
「おい、何をする!」
怒号が響く中、俺は吉村の腕を掴み、特高の包囲の隙間を縫って駆け出した。機転と地の利を活かし、迷路のような地下通路を抜けて外へ飛び出す。背後で警笛が鳴り響いていたが、振り返る余裕はなかった。
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逃げ延びた先は、岩田が残してくれた予備の隠れ家だった。
息を切らしながら、俺と吉村は部屋の隅に置かれた手動の輪転機に向かった。手元にあるのは、売れ残りの耐水紙の束だけだ。
「やるしかない。俺たちの手で、刷り上げるんだ」
インクの匂いが立ち込める中、ハンドルを回す。
『正午、大地が裂ける。炎から遠ざかれ、風を読め』と大見出しを打った号外を、吉村が手際よく束ねていく。
次々と刷り上がっていく号外。大量の紙の束が床に積み上がっていく。
だが、俺の心は冷え切っていた。
最後の希望だった古巣の新聞社からも見放され、社会的な信用を完全に失った。この紙切れを配ったところで、どれだけの人間が信じてくれるのか。
窓の外を見る。帝都の夜は、何も解決しないまま静かな不安だけを抱えて眠りについている。
時計の針が、午前零時を回った。
運命の朝が、幕を開ける。
迫り来る破滅に対し、俺はどう動けばいいのか。答えのない問いだけが、暗闇の中で虚しく響いていた。




