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第20話

時計の針が、午前零時を回る。

運命の朝が、幕を開ける。

迫り来る破滅に対し、俺はどう動けばいいのか。答えのない問いだけが、暗闇の中で虚しく響く。


インクの油臭い匂いが充満する隠れ家。俺と吉村は無言のまま、手動の輪転機を回し続ける。

ガチャン、ガチャンと単調な金属音が響くたび、売れ残りの耐水紙に次々と警告文が刷り込まれる。

指先はインクで黒く汚れ、額には脂汗が滲む。

夜明け前、軋むような足音とともに木製の扉が開く。

現れたのは、山城屋徳兵衛と鈴子だ。


「お前さんの言う通りだったよ」


徳兵衛が羽織の袖をまくり上げ、忌々しそうに煙管を噛む。


「昨日の大引け直前、紡績株が妙な動きを見せる。海外相場の変動までピタリと言い当てるとはな。わしの完全な負けだ」


俺は未来の経済動向を彼に伝え、一つの賭けを持ちかける。

見事に的中させたことで、下町の顔役である彼の心を完全に掌握したのだ。

徳兵衛は深く息を吐き、煙管の灰を火鉢の縁で叩き落とす。


「商売人として、情報がいかに金になるかは骨の髄まで理解する。だが、お前さんはその情報を金儲けではなく、人助けに使おうとする。馬鹿げた話だが、その心意気には賭けてみる価値がある」


「約束通り、うちの若い衆を全部貸してやる。この紙切れを帝都中にばら撒けばいいんだな」


「助かります、徳兵衛さん。これで配布網は完璧だ」


鈴子も白いエプロンを揺らし、山積みの号外を見つめる。


「わたしも手伝うわ。常連さんたちに声をかけて、手分けして配るから。新聞配達の子供たちにもお小遣いを渡して、走ってもらう手はずを整えてあるの」


「鈴子、危険な目に遭うかもしれない。無理はしないでくれ」


「馬鹿言わないで。あんたが必死に命を救おうとするのに、わたしだけ安全な場所で震えるなんてごめんだわ」


二人の言葉に、胸の奥が熱くなる。

そこへ、息を切らした橘薫が駆け込んでくる。彼女の腕には、分厚い書類の束が抱えられている。


「計算が、合致しました」


乱れた髪を直す余裕もなく、彼女は机の上に書類を広げる。


「あなたが提示したプレートテクトニクス理論。最新の観測データと照らし合わせた結果、相模トラフを震源とする巨大な揺れが、今日の正午に発生するという結論に至りました」


学界から冷遇される若き地震学者が、自らのキャリアを懸けて書き上げた見解書。

黒板の代わりに持ち込まれた模造紙には、無数の数式と地殻の断面図がびっしりと書き込まれる。


「大槻教授は私を異端だと切り捨てました。でも、地球の皮殻が動くというあなたの仮説を当てはめれば、すべての観測データの辻褄が合うのです。これは、科学の敗北ではありません。新たな真理の発見です」


彼女の瞳には、科学者としての強い矜持が宿る。

これこそが、俺の警告を裏付ける最強の武器となる。


「ありがとうございます、橘先生。これで、ただの流言飛語だとは言わせない」


俺は刷り上がったばかりの号外を束ね、麻袋に詰め込む。


◆ーーーー◆


外の空気が、微かに震える。

窓の隙間から路地を見下ろすと、黒い外套を着た男たちが数人、音もなく接近してくる。

前日から不穏な動きを察知し、俺たちを執拗に追い回す特高警察だ。


「まずい、嗅ぎつけられたか」


俺は吉村に目配せをする。彼は無言で頷き、部屋の隅にある空の木箱を抱え上げる。

裏口の扉を勢いよく開け、木箱を路地に放り投げる。

凄まじい破壊音が響き渡る。


「あっちだ! 逃がすな!」


特高の怒声が遠ざかる。

その隙を突き、俺たちは号外の束を抱えて反対側の窓から飛び出す。

迷路のような下町の路地を駆け抜け、追跡を振り切る。

機転一つで、なんとか最悪の事態を免れる。


空が白み始める。

不気味なほどに晴れ渡った、青い空。

俺は最も被害が予想される危険地帯、被服廠跡地へと歩みを進める。


道中、徳兵衛の若い衆や鈴子が、道行く人々に号外を配る姿が見える。

だが、受け取った人々の反応は冷ややかだ。


「正午に大地が裂ける? 馬鹿馬鹿しい」

「また新しい詐欺の手口か何かだろう」


鼻で笑い、紙切れを道端に捨てる者。

怪訝な顔をして足早に立ち去る者。

誰一人として、警告を真剣に受け止めようとしない。

いつもの穏やかな日常が、そこには広がる。


レンガ造りの建物の間を、市電が鐘の音を響かせて走り抜ける。

朝顔の鉢植えに水をやる老婆。

新聞を読みながら歩く背広姿の男。

豆腐売りのラッパの音が、遠くから聞こえる。

この平和な風景が、あと数時間で地獄に変わる。その落差に、目眩を覚える。


街角に出ると、引っ越しや納品のために家財道具を山のように積んだ大八車が、列をなして進む光景が目に飛び込んでくる。

荷台には、立派な桐の箪笥や、真新しい布団の束、木箱に入った瀬戸物が危なっかしく積み上げられる。

業者の男たちが汗を拭いながら、重い荷車を引く。


その光景を見た瞬間、胃の奥が冷たく凍りつく。

史実通りだ。

あの大八車が道を塞ぎ、逃げ場を失った群衆が火災旋風に呑み込まれる。

荷台に積まれた大量の家財道具は、炎の格好の餌食となる。

被害を拡大させる元凶が、すでに街中に溢れ返る。


「荷物を置いてください! 昼には巨大な揺れが襲う! 炎から遠ざかるんだ!」


俺は必死に声を張り上げ、道行く人々に訴えかける。

喉が裂けるほど叫び、号外を突きつける。

だが、業者の男は鬱陶しそうに手を払いのける。


「邪魔だ、兄ちゃん。こちとら仕事で忙しいんだよ」


「命より大切なものなんてない! 今すぐ荷物を捨てるんだ!」


俺は荷車にすがりつく。

男は舌打ちをし、俺の胸ぐらを掴んで突き飛ばす。


「ふざけるな! こちとら生活がかかってるんだよ!」


地面に倒れ込んだ俺を、鈴子が慌てて助け起こす。

周囲の群衆が、冷ややかな視線を向ける。

「なんだあの男」「朝から酔っ払っているのか」というヒソヒソ話が耳に届く。


いくら叫ぼうと、誰の耳にも届かない。

報道の無力さが、再び俺の心を締め付ける。

死者は蘇らない。その残酷な現実を、俺は嫌というほど知る。

次こそは命を救うと誓うはずなのに、目の前の人々は破滅に向かって無邪気に歩みを進める。


時計の針が、午前十一時を回る。

太陽が高く昇り、じりじりとした暑さが帝都を包み込む。

配り終えた号外の束は、すでに底をつく。

やるべきことはすべてやった。

だが、結果は伴わない。


「神田……わたしたち、どうすればいいの」


鈴子の声が震える。

俺は何も答えることができない。

ただ、迫り来る運命の時を待つしかない。

静かな絶望が、全身を支配する。


時計の針が、午前十一時五十八分を指す。

不意に、風が止む。

木々を揺らす音も、鳥のさえずりも、すべてが消え去る。

圧倒的な静寂。


そして。

足元から、微かな振動が伝わってくる。

大地が、不気味な地鳴りを上げ始める。

未曾有の大災害が、帝都をどう飲み込むのか。

答えのない問いだけを残し、空はどこまでも青く澄み渡る。


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