第21話
地底の奥底から、無数の巨人が咆哮を上げたかのような轟音が響いた。
足裏を突き上げる垂直の衝撃。立っていられない。地面が生き物のように波打ち、視界が上下左右へと激しく乱雑に振り回された。
「きゃああっ!」
鈴子が悲鳴を上げてその場にへたり込む。俺は反射的に彼女の腕を掴み、崩れかけた木造家屋の軒先から引き剥がすようにして路地の真ん中へ倒れ込んだ。
世界が引き裂かれる音がした。
瓦が滑り落ち、鋭利な刃物となって石畳に砕け散る。電柱が根元から軋みを上げて傾き、電線が火花を散らして千切れた。土壁が破裂し、乾いた白煙と土煙が一気に通りを埋め尽くしていく。
「うわああっ!」「助けてくれ!」「家が、家が潰れる!」
あちこちから上がる絶叫。だが、その声すらも、大地が軋む低音の暴力に掻き消されていく。横揺れがさらに激しさを増した。左右に数尺単位で地面が揺さぶられ、煉瓦造りの塀が爆発したかのように崩壊する。
「神田、これ……っ!」
鈴子が俺の腕にしがみつきながら、真っ白な顔で叫ぶ。彼女の掌には、配り残した数枚の号外が握りしめられていた。
本当に来てしまった。
分かっていた。この日の、この時間に、帝都を壊滅させる揺れが来ることは百も承知だったはずだ。だが、現実に五感で浴びる大災害の猛威は、文字や映像の記録などとは次元が違っていた。圧倒的な破壊の前に、人間という存在があまりにも脆い。
周囲の長屋が、まるで積み木のように音を立てて圧壊していく。柱が折れる鈍い音と、押し潰された人々の短冊のような悲鳴が重なり合う。
その地獄絵図の中で、不意に耳へ届いた声があった。
「号外だ! あの紙に書いてあった通りだ!」「広場だ、広いところへ行け!」「荷物は捨てるんだ! 早く!」
数人の男たちが、崩れかけた家から飛び出し、半狂乱になりながらも裏手の上野方面を指差して叫んでいた。俺たちが今朝配り歩いた号外を胸元から取り出し、震える手で握りしめている商人の姿も見えた。事前の警告を目にしていたわずかな人々が、倒壊の隙間を縫って安全な方角へと走り始めている。
だが、それ以外の圧倒的多数は違った。
パニックに陥り、崩れた我が家へ引き返そうとする者。大八車に山積みにした箪笥や布団を必死に引こうとして、倒壊した瓦礫に車輪を取られて立ち往生する者。狭い路地は一瞬にして阿鼻叫喚の混乱に呑み込まれていった。
揺れは一向に収まらない。大地は容赦なく帝都の息の根を止めにかかっていた。
◆ーーーー◆
帝都大学理学部の研究室では、激しい揺れによって本棚が次々と倒れ、貴重な文献や観測機器が床一面に散乱していた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
大槻玄之助は降り注ぐ漆喰の粉にまみれ、自慢のカイゼル髭を震わせながら机の脚にしがみついていた。
そのすぐ傍らで、橘薫は倒れた書棚の隙間に身を潜め、両腕で頭を固く守りながら激震に耐えていた。荒い呼吸の合間に、彼女の理知的な瞳が見開かれる。
相模湾沖を震源とする巨大地震。神田が語り、自分が計算と理論で裏付けたプレートの歪みによる大破断。そのすべてが、寸分違わず現実となって建物を破壊している。
(本当に起きてしまった……神田さんの言っていた通りに……)
研究者としての探究心など、粉微塵に吹き飛んでいた。胸を満たすのは、冷たい悪寒と底知れぬ恐怖だけだ。予測が当たったことへの歓喜など微塵もない。そこにあるのは、防ぎようのない大自然の暴力に対する圧倒的な無力感だった。
「だ、大槻先生! 机の下に!」
薫は恐怖に震える声を絞り出し、呆然自失となっている老教授へ呼びかけた。
大槻は虚ろな目で宙を見つめ、震える唇から掠れた声を漏らすばかりだった。
「ば、馬鹿な……東京に、このような規模の地震など……あり得ん……私の計算が……私の理論が……」
己の信じてきた権威と傲慢が、崩れ落ちる天井の破片とともに粉々に砕け散っていく。大槻はただ涙と鼻水に顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、無様に床へへたり込むことしかできなかった。
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帝都日報の社屋でも、地獄が具現化していた。
活字棚が一斉に音を立てて倒壊し、数十万本もの鉛の活字が床一面に激しい音を立てて散乱した。天井の漆喰が剥がれ落ち、窓ガラスが衝撃で次々と割れて鋭い破片を撒き散らす。
「全員、柱に掴まれ! 窓から離れろ!」
編集長・桐島源太郎の怒号が響く。彼は自らのデスクに必死にしがみつきながら、阿鼻叫喚の編集部を見渡していた。
机が横滑りし、同僚たちが床を転がる。印刷工場の重い輪転機が地鳴りを立てて軋む音が、階下から響いてくる。
桐島は歯を食いしばりながら、三日前の光景を脳裏に蘇らせていた。
『九月一日。関東一円を、未曾有の大地震が襲います』
『大八車での避難を禁じ、広場への誘導ルートを事前に周知しなければ、何万人もの人が死ぬんです!』
血相を変えて訴えかけてきた神田の顔。真剣そのものだったあの眼差し。それを自分は、根拠のない流言飛語として冷淡に突き放したのだ。新聞の信用という看板を守るために、あの警告を紙面から抹殺したのだ。
「神田……お前は……」
桐島の額から冷たい汗が流れ落ちる。激しく揺れる社屋の中で、彼が抱いたのは編集長としてのプライドではなく、真実を見誤った一人の報道人としての痛烈な悔恨だった。
床に散らばる活字の山。それは、伝えるべき言葉を失い、社会の公器としての責務を果たせなかった帝都日報の無残な姿そのものに見えた。
◆ーーーー◆
永遠にも思えた数分間が過ぎ、ようやく大地の狂乱が弱まりを見せ始めた。
俺は瓦礫の粉塵を吸い込んで激しく咳き込みながら、ゆっくりと体を起こした。鈴子も煤まみれになりながら、なんとか自力で立ち上がる。怪我はないようだ。
だが、顔を上げた瞬間、俺の言葉は喉の奥で凍りついた。
「……あ……」
鈴子が口元を手で覆い、絶句する。
そこは、先ほどまでの帝都の街並みではなかった。木造の家屋はことごとくペシャンコに潰れ、道路には瓦と木材と土壁の残骸がうず高く積もっている。電線が蜘蛛の巣のように垂れ下がり、至る所から呻き声と助けを求める悲鳴が上がっていた。
圧死した人間の手足が、倒壊した建物の下から覗いている。母親の名を呼んで泣き叫ぶ幼子。血まみれになって倒れた家族を掘り起こそうと、素手で瓦礫を掻き毟る男たち。
号外によって避難を始めたのは、ほんのひと握りに過ぎない。大半の人々は、日常の営みの最中に無慈悲な破壊へと叩き落とされたのだ。
そして、本当の地獄はこれから始まる。
時刻は正午過ぎ。昼飯の支度のために各家庭で火が使われていた時間帯だ。倒壊した家々の七輪や竈から、火種が木材へと燃え移らないはずがない。
「火事だァッ!」
誰かの悲痛な叫び声が響いた。視線を向けると、崩れた長屋の隙間から、細い黒煙が立ち上っていた。一箇所ではない。二箇所、三箇所……視界の届く限りのあちこちから、不吉な煙の柱が何本も空へと伸びていく。
「あそこも燃えてる……神田、あっちも!」
鈴子が震える指で四方を指す。乾いた南風が吹き抜け、火の手は見る見るうちに勢いを増していった。パチパチと木のはぜる音が、不気味な合唱のように街を包み始める。
「まずい……延焼が早すぎる……」
喉が焼けるように渇く。無数の火の手がみるみる繋がり、巨大な火炎となって街を呑み込んでいく。あの被服廠跡地へ、家財を積んだ大八車の列と逃げ場を失った群衆が押し寄せる最悪の展開が、刻一刻と迫っていた。
助けられなかった。
あれだけ奔走し、警察の目を盗んで号外を配り歩いたというのに、目の前に広がる光景は史実の地獄と何一つ変わっていないように思えた。瓦礫の下で消えていく命を、俺はただ立ち尽くして見ていることしかできない。
報道の力で未来を変えるなどという思い上がりが、木っ端微塵に打ち砕かれる。
かつて現代で災害の現場を前にして味わった、あの冷たい無力感が、再び俺の胃の奥底へと重く沈殿していく。
空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。
だが、その青空を侵食するように、帝都のあちこちから立ち上る黒煙が広がり、太陽の光を濁った赤褐色へと塗り替えていく。
焦げた匂いと熱気が、風に乗って頬を撫でた。
真の災厄である炎の嵐が、今まさに帝都を呑み込もうとしていた。




