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第22話

視界の端から端まで、濁った煙の壁が立ち上がっていた。


足元から伝わる余震の鈍い振動が、靴底を通じて膝を揺らす。崩れ落ちた長屋の木組み、割れた瓦、散乱した日用品。それらすべてが乾いた風に煽られ、赤黒い炎を噴き上げていた。


「助けてくれぇっ! 誰か、うちの婆さんが!」


耳を劈く悲鳴が、くすぶる煙の向こうから響いた。崩れた梁に足を挟まれた男が、泥と血にまみれた顔で虚空を掴んでいる。その数歩先には、赤ん坊を抱いた若い母親が、腰を抜かして地面にへたり込んでいた。


俺は奥歯を強く噛みしめた。膝の震えを無理やりねじ伏せる。


立ち尽くしている暇など、一秒たりともない。全体の犠牲をゼロにすることなんて、最初からできっこなかったんだ。どれだけ未来を知っていようが、天災の猛威そのものを消し去る術はない。だが、いま目の前で呼吸をしているこの人たちを救う手立てなら、まだ残されている。


「おい、しっかりしろ! 今、外す!」


俺は倒壊した家屋の残骸へ駆け寄った。黒く焦げかけた太い角材に両手を掛け、全体重を乗せて引き上げる。ギチギチと木肌が軋みを上げ、皮膚にささくれが深く突き刺さる。痛みなど構っていられなかった。


「うおおっ!」


渾身の力で角材を持ち上げる。男は青ざめた顔で隙間から這い出し、瓦礫の山から脱出した。


「あ、ありがとうございます……!」


「礼はいい! その赤ん坊を連れた人と一緒に、北へ向かって走れ! いいか、絶対に広い空き地を目指すな! 川沿いの開けた道を通って、北の上野方面へ逃げるんだ!」


男は呆気にとられたように瞬きをしたが、俺のただならぬ気迫に気圧されたのか、必死に頷いて母親の肩を抱き起こした。二人はよろめきながら、黒煙とは逆の方向へと駆け出していく。


俺は額の汗を乱暴に拭い、さらに奥の通りへと足を向けた。


目指す先は、本所区の被服廠跡地。史実において、帝都で最も多くの命が炎の嵐に呑まれたとされる、巨大な死地だ。


通りを進むにつれ、避難する人々の群れは膨れ上がっていった。誰もが恐怖に顔を歪め、着の身着のままで逃げ惑っている。だが、その流れを観察するうちに、俺の胃のあたりが急速に冷え込んでいくのを感じた。


道が、完全に詰まっていた。


原因は、避難民が引いている大八車の群れだった。箪笥や布団、畳、果ては火鉢まで、家財道具を山積みにした荷車が道路の真ん中で何台も絡み合い、車輪を軋ませて立ち往生している。


「邪魔だ、どきなさい! こっちは店の帳簿と家財が載ってるんだ!」


「そっちこそ下がれ! うちの荷物が通れないだろうが!」


怒号が飛び交い、怒りと焦燥が狭い路地を埋め尽くしていた。一台の大八車が横転し、積み上げられた布団の山が崩れ落ちる。後続の荷車がそれに突っ込み、道幅は完全に塞がれてしまった。逃げようとする徒歩の人々さえも、荷物の隙間に挟まれて身動きが取れなくなっている。


背後からは、猛烈な熱風が迫っていた。周囲の木造長屋から上がった火柱が、乾いた風に煽られて火の粉の雨を降らせている。その火の粉が大八車の布団に引火すれば、この狭い通りそのものが一瞬で焼き場に変わる。


「荷物を捨てろッ!」


俺は喉が裂けるほどの声で怒鳴りつけた。


群衆の視線が一斉に俺へと向く。俺は大八車の荷台の上に飛び乗り、立ち尽くす人々を見下ろした。


「命より重い家財なんてない! 荷物を全部その場に下ろせ! 車を道の端に寄せるんだ! そんな木と綿の塊を引きずっていたら、後ろから来る火の粉に薪をくべるようなもんだぞ!」


「何を偉そうに! これがないと、この先どうやって暮らしていけってんだ!」


立派な羽織を着た初老の男が、唾を飛ばして反論してきた。その荷台には、重そうな桐箪笥が幾重にも縛り付けられている。


「生きてさえいれば、やり直せる! 死んだら財産も何もないだろうが!」


俺は男の荷台に積まれていた桐箪笥の縄を、懐から抜いた万能ナイフで一気に断ち切った。ドシンと鈍い音を立てて箪笥が地面に落ち、引き出しから着物が飛び散る。


「な、何をするんだ、貴様!」


「荷物を捨てて、身一つで走れ! 被服廠の跡地に行っちゃいけない! あそこは周囲を火に囲まれて逃げ場がなくなる! 川を渡って西の神田か、北の広大な緑地を目指すんだ!」


男は青筋を立てて俺に掴みかかろうとした。だがその瞬間、上空から舞い降りた巨大な火の粉が、男の大八車に残っていた敷布に引火した。ボッと音を立てて赤い炎が立ち上る。


「ひ、火がっ!」


男は悲鳴を上げて飛び退いた。炎の熱さを直に感じて、ようやく事態の狂気を悟ったらしい。男は燃え上がる荷車を捨て、転がるようにして路地の先へと走り出した。


その光景を見た他の避難民たちにも、動揺が伝播した。大八車を引いていた男たちが、躊躇いながらも引き綱を手放し始める。


「荷物は道の脇に押し込め! 真ん中を開けろ! 子供と年寄りを先に通すんだ!」


俺は荷台から飛び降り、燃え始めた大八車を力任せに路肩の溝へと蹴り落とした。若者数人が俺の動きに引きずられるように加勢し、道を塞いでいた荷車を次々と端へ押しやっていく。人一人が通れるだけの道が、かろうじて開いた。


「走れ! 足を止めるな!」


人々が雪崩を打って通りを駆け抜けていく。だが、避難路が確保できたのも束の間、通りの角にある二階建ての酒屋から、轟音と共に巨大な炎が噴き出した。


強い南風に煽られ、火の粉が豪雨のように通りへ降り注ぐ。このままでは開けたばかりの避難路が火の海に呑まれ、後続の避難民が完全に孤立してしまう。


まずい。延焼を食い止めなければ、ここを通る全員が焼き尽くされる。


そのとき、火煙を切り裂いて甲高い声が響いた。


「みんな、水を運んで! 井戸はまだ生きてるわ!」


煙の向こうから、煤で顔を真っ黒にした鈴子が飛び出してきた。カフェのエプロンは泥と焦げ跡で汚れ、髪を振り乱している。だがその両手には、水で満たされた木樽がしっかりと握られていた。


「鈴子!」


「神田さん! 言われた通り、近所の人たちと井戸の水を汲み出してるの! 長屋の若い衆も手伝ってくれてる!」


鈴子の背後から、十人ほどの住民が桶やバケツを手に連なって現れた。中には山城屋の法被を着た若い手代たちの姿もある。


「旦那の指示だ! 店の備蓄用水を全部使うぞ!」


「火の元へ水をぶっかけろ! 燻ってる板塀を濡らすんだ!」


手代の号令で、見事なバケツリレーが形成された。次々と手渡される水が、酒屋の燃え盛る板壁や、避難路沿いの家屋へ浴びせかけられる。ジュウウッと白い水蒸気が猛烈な勢いで吹き上がり、鼻を突く焦げ臭い煙が充満した。


「神田、ぼさっとするな! わしの店の水は安くないんだからな!」


通りの向こうから、煙管を帯に差した山城屋徳兵衛が、手拭いで口元を覆いながら怒鳴り込んできた。恰幅のいい身体を揺らし、自らも水桶を運んでいる。


「徳兵衛さん! 無事だったんですか!」


「当たり前だ! お前さんの号外の通り、倉庫の補強と水瓶の準備をしておいて命拾いしたわい。だが、この火の勢いは尋常じゃねえ。ここを食い止めねえと、裏の連中が全員丸焼けだ!」


「ああ! 絶対に火を壁の向こうへ通すな!」


俺も手近にあった防火用水の桶を掴み、バケツリレーの列に飛び込んだ。腕の筋肉が悲鳴を上げ、掌の皮が擦り切れて血が滲む。それでも、水を手渡す手を止めない。


火の手は凄まじく、一度水を掛けた程度では火勢は衰えない。しかし、住民総出の必死の放水によって、酒屋の板壁からの火の粉の飛散が目に見えて減り始めた。完全に消火することはできなくても、避難路への直接の延焼を食い止めるだけの湿り気と時間は稼げている。


「抜けたぞ! 通れるぞ!」


誰かが叫んだ。水蒸気と煙に包まれた路地を、後続の避難民たちが次々と駆け抜けていく。子供の手を引く父親、老婆を背負った青年。彼らは濡れた地面を踏みしめ、炎の壁に阻まれることなく、北の安全地帯へと逃れていった。


「消えた……ううん、持ちこたえたわ!」


空になったバケツを下ろし、鈴子が息を切らしながら叫んだ。その顔には疲労が濃く滲んでいたが、瞳には確かな光が宿っていた。


街全体の火災を止めることなど到底できない。空を覆う黒煙は依然として広がり続け、遥か彼方からは地鳴りのような火勢の唸りが聞こえてくる。被服廠跡地方向の空は、禍々しいまでの赤黒さに染まっていた。


だが、この狭い路地の一角だけは、人々の手によって炎の進行をわずかに遅らせ、数百人の逃げ道を確保することに成功したのだ。


「神田さん……わたしたち、やれたんだよね」


鈴子が煤だらけの顔で、すがるように俺を見つめてくる。徳兵衛もまた、荒い息を吐きながら俺の顔を伺っていた。


「ああ。あんたたちが火を止めてくれたおかげで、これだけの人が逃げられた」


俺は力強く頷いた。胸の奥底で、冷え切っていた芯に小さな熱が灯るのを感じる。


無力感に押し潰されそうだった。未来を知りながら、この壊滅的な惨状を前にして何もできないのではないかと絶望しかけていた。だが、違う。配った一枚一枚の紙が、叫び続けた言葉が、こうして誰かを動かし、目の前の命を確実に繋ぎ止めている。


しかし、安堵の息を吐く間もなく、突如として突風が吹き荒れた。


生ぬるく、肌を焦がすような猛烈な熱風。被服廠跡地のある方角から、天を突くような黒い竜巻が立ち上るのが見えた。渦巻く炎の柱が、吸い込まれるように巨大化していく。


火災旋風だ。


「ひっ……なんだ、あれは……」


手代の一人が腰を抜かし、指を差して震えている。遠く離れたこの場所でさえ、空気が一気に吸い寄せられ、呼吸が苦しくなるほどの気圧の変化が襲いかかってきていた。


小さな前進は勝ち取った。だが、本当の地獄は、まだこれからだ。


俺は荒れ狂う火の嵐を見据え、再び拳を固く握りしめた。

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