第23話
地鳴りのような轟音が、遠くから肌を震わせていた。
空を覆う黒煙の向こう側で、紅蓮の炎が天を衝く柱となって渦を巻いている。被服廠跡地方面の空気が強烈な勢いで吸い上げられ、生ぬるい突風となって路地を吹き抜けていく。肌がじりじりと灼かれるような熱気が、容赦なく押し寄せていた。
「神田先輩! こっちの道も塞がりそうです! 前が見えないって、みんな押し合いになってて……!」
煤まみれの吉村が、歪んだ眼鏡を指で押し上げながら悲鳴のような声を上げた。彼の背広はあちこちが焦げ、埃で灰色に染まっている。
「押すな! そっちへ行ったら袋小路だ、引き返せ!」
俺は喉を裂くような思いで怒鳴りつけた。だが、群衆の狂乱は止まらない。背後から迫る熱風と煙の恐怖に呑まれた人々は、前方の状況など見えぬまま、ただ目の前の背中をがむしゃらに押し続けている。泣き叫ぶ童の手を引く母親が倒れかけ、荷物を抱えた男が無我夢中でそれを踏み越えようとする。
「止まれ! 将棋倒しになるぞ!」
叫び声は、吹き荒れる暴風と木造家屋が爆ぜる音にかき消された。新聞記者ひとりの声など、狂乱の渦の前では羽虫の羽音にも等しい。
止められないのか。ここまで来て、またあの無力な結末を迎えるのか。歯を食いしばり、前に出ようとしたその時だった。
「――全員、その場に留まれッ!」
耳朶を叩き割るような、鋭く張り詰めた怒号が路地に響き渡った。
耳慣れた、だが今の状況ではあり得ないほど硬質で威圧的な響き。群衆の足が、反射的な恐怖によって一瞬だけ止まる。人の波を押し分け、大股で歩み出てきたのは、煤を被りながらも乱れなく襟を正した一人の男だった。
抜刀されたサーベルの鞘を左手で握り、鋭利な刃のような眼光で群衆を一喝する長身の巡査。
「特高の……香川巡査……!?」
吉村が腰を抜かしかけて後ずさった。
香川清太郎は、俺たちの前まで来ると足を止めた。その制服の裾は焦げ、額からは一筋の血が流れている。だが、直立不動の姿勢は揺らいでいない。男の冷徹な瞳が、俺の顔を真っ向から捉えた。
「貴様の言った通りになったな、神田」
低く、押し殺した声だった。そこにはかつての嘲弄も、危険分子を追い詰める冷酷さもない。
「本官は、貴様を社会不安を煽る狂言者だと断じた。貴様の警告を握り潰し、民を危険に晒した。その罪は、万死に値する」
「香川さん、今はそんな話をしている場合じゃ――」
「黙って聞け」
香川は鋭く遮った。だが、その瞳に宿っていたのは頑なな拒絶ではなく、己の職責を全うせんとする研ぎ澄まされた覚悟だった。
「処罰は後で受ける。だが今、この帝都の秩序を守り、民の命を保護する責務は、警察官である本官にある。……貴様の指示に従う。どこへ逃がせばいい」
胸の奥が激しく震えた。この男は、己のプライドも立場もすべて捨てて、目の前の現実と職務を選んだのだ。
「北だ!」
俺は即座に指を突き出した。
「被服廠跡は火災旋風で全滅する! 隅田川沿いも熱風で焼き尽くされるぞ! 本所を抜けて、北側の広い緑地へ誘導するんだ。大八車は全部ここに捨てさせろ!」
「承知した」
香川は短く応じるや否や、踵を返して群衆に向き直った。そして、腰の警察笛を口に咥え、ありったけの呼気で吹き鳴らした。
甲高く鋭烈な笛の音が、夕闇の迫る街に突き刺さる。
「帝都警察である!」
香川の鋼のような声が、パニックに陥った群衆を圧倒した。
「これより本官の指示に従い、整然と北へ避難せよ! 荷物を載せた大八車は一切の通行を禁ずる! 家財を捨て、身一つで動け! 本官の命に背く者は、治安紊乱の廉で即刻拘束する!」
容赦のない威圧感。だが、混沌の中にあった人々にとって、その絶対的な権威と明確な命令は、何よりも強力な錨となった。押し合いへし合いしていた群衆の動きが、目に見えて統制を取り戻していく。
「さあ、動け! 子供と女子を前に出せ! 走るな、歩調を合わせろ!」
香川が先頭に立ち、大八車を力づくで道の端へと引きずり倒していく。通り道が開き、人の流れが一本の太い線となって北へと動き始めた。
「す、すげえ……あの頑固巡査が、味方になったらこれほど頼もしいとは……」
吉村が呆然と呟く。
「感心してる暇はないぞ、吉村! 俺たちも続くんだ!」
俺たちは香川の背を追いながら、遅れそうな老人や怪我人に肩を貸し、避難の列を支え続けた。
だが、試練はそれだけで終わらなかった。
北へ向かう大通りに出たところで、行く手を阻むように地割れが走り、破裂した水道管から大量の水が噴き上がっていた。周囲では倒壊した家屋から火の手が上がり、近隣の住民たちが必死になってバケツで水を浴びせかけている。
水飛沫と熱風が入り混じり、視界は最悪だった。逃げる人々は足元をすくわれ、水浸しになりながら悲鳴を上げる。
「あああっ、紙が……! せっかく貰った地図が破れちまった!」
避難民の男が、濡れてボロボロになった普通の新聞紙の端切れを握りしめて叫んだ。水と泥を吸った粗悪な洋紙は、文字通り溶けるように千切れ、使い物にならなくなっていた。
「どこへ行けばいいんだ!? 前の道も火が出てるぞ!」
再び群衆に動揺が広がりかける。激しい水煙と煙幕のせいで、周囲の建物が見えず、方角すら定かではなくなっていた。
その時、一人の少女が懐から取り出した紙を掲げた。
「これを見て! この紙、濡れても破れないよ!」
びしょ濡れになったその紙面――それは、岩田の工房で印刷した、あの売れ残りの耐水紙で刷られた号外だった。
薬品の匂いが残る、厚手で油分を含んだ頑丈な紙。破裂した水道管の水をまともに被り、泥水に浸かっても、繊維が崩れる気配すらない。岩田が「これしか残っていなかった」と悔しがっていた規格外の紙が、水飛沫を弾き返していた。
「裏を見てくれ!」
俺は濡れた号外を掲げ、声を張り上げた。
「裏面に朱色で刷った避難経路が描いてある! 水に濡れても消えないインクだ! その矢印の通りに進めば、火の回っていない広場へ出られる!」
避難民たちが、我先にと懐から同じ号外を取り出した。配られた当初は怪文書扱いされ、あるいは無造作にポケットへ突っ込まれていた紙片。それが今、水と火に囲まれた極限の闇の中で、鮮やかな朱色の線を浮かび上がらせていた。
「本当だ……! 破れてない!」
「道が書いてあるぞ! 横町を右に曲がって、土手沿いを行けば抜けられる!」
人から人へ、耐水紙の号外が手渡され、掲げられていく。濡れた紙面が夕闇の炎を反射し、まるで無数の小さな行灯のように避難の列を照らし出していった。
「吉村、香川さん! あの地図の通りに列を誘導してくれ!」
「了解です先輩!」
「本官に続け! 決して列を乱すな!」
香川が先頭でサーベルを掲げ、号外の地図を頼りに確かな足取りで進み始める。人々はもう立ち止まらなかった。手の中にある破れない道標を信じ、一歩一歩、死地からの脱出を果たしていく。
犠牲をゼロにすることはできなかった。すべてを救うことなど、到底叶わない。
だが――あの印刷機の前で諦めず、泥臭く配り歩いた一枚一枚の紙が、今、何百人、何千人という生きた人間を、確かに安全な場所へと導いている。
妥協の末に選んだ紙が、嘲笑されながら配った言葉が、この未曾有の地獄で確かな奇跡を紡ぎ出していた。
熱風が吹き荒れる中、避難の列は途切れることなく北を目指す。
だが、視線の先――目指す北側の緑地方面からも、黒煙が微かに棚引き始めているのが見えた。安全地帯の受け入れ態勢は、果たしてこの大群衆を収容し切れるのか。安堵を許さぬ胸騒ぎを抱えながら、俺は人波と共に前へと走り続けた。




