第24話
夜の帳が下りても、帝都の空は真紅に染まったままだった。無数の火柱が立ち上り、舞い上がった火の粉が星空を覆い隠している。
大八車を捨てさせ、手ぶらで誘導した避難民の列は、途切れることなく神田から北の千束方面へと続いていた。煤にまみれた顔、泣き叫ぶ赤子を抱いた母親、肩を貸し合って歩く老人たち。その手には、しわくちゃになりながらも破れていない、朱色に印刷された号外が握られていた。
「こっちだ! 門をくぐれ、奥へ入れ!」
怒声混じりの太い声が、焦げた風に乗って響いた。見上げれば、土蔵造りの頑丈な大倉庫の前で、煙管を帯に差した初老の男が羽織を脱ぎ捨てて腕を振るっていた。山城屋徳兵衛だ。
「徳兵衛さん!」と叫んで足を速めた。
俺が駆け寄ると、徳兵衛は濡れ手拭いで顔を拭いながら、ぎょろりとした目を向けた。
「おお、神田の旦那! 見なせえ、約束通り蔵をぜんぶ開け放ったぞ。米も樽の水も、乾パンも全部だ。蔵の前の空き地も開放して、怪我人を寝かせてる!」
倉庫の敷地内には、すでに数百人の人々が身を寄せていた。山城屋の若い衆たちが、桶から汲み出した井戸水を柄杓で配り、握り飯を手渡している。喉を潤した避難民たちが、その場にへたり込んで涙を流していた。
「旦那の言う通り、荷車を引っ張り込もうとする奴らは全部入り口で追い返した。荷物を捨てて命だけ持って逃げてきた奴らが、こうして蔵の陰で息をついてる。……まったく、えれえもんを買い占めさせられたと思ったが、これほど役に立つとは夢にも思わなかったぜ」
徳兵衛は少し震える手で煙管を握り直した。その瞳には、自分の蓄えを吐き出したことへの後悔など微塵もなかった。あるのは、土壇場で人の命を救う側に立てたという商人としての意気地だけだ。
「ありがとうございます。徳兵衛さんが蔵を開けてくれなきゃ、この人たちも逃げ場を失って焼き出されていた」
「礼なら後でいい。まだ後ろからぞろぞろ人が来るぞ。水が足りなくなるかもしれん、井戸をもう一つ掘り起こす!」
徳兵衛が若い衆を怒鳴りつけながら奥へ走っていく。事前の備えが、確かに現実の壁となって猛火の前に立ちはだかっていた。
だが、休んでいる暇はない。避難場所となったこの一帯も、風向き次第では延焼の危険がある。
「神田さん!」
凛とした声が響き、群衆の隙間から小走りに近づいてくる人影があった。煤で汚れた絣の着物に袴姿の橘薫だ。手には鉛筆と、余震の記録を書き留めた手帳を握りしめている。
「橘先生! 無事でしたか」
「ええ。帝大の観測室から機材の一部を持って脱出してきました。余震の周期と本震の震源域から見て、この千束一帯は地盤が比較的固く、倒壊の二次被害は抑えられます。ですが――」
薫は手帳を開き、燃え盛る南の空を指差した。
「本所、深川方面からの熱気が異常です。大火が巨大な低気圧を作り出しています。風が巻き込まれ、あちこちで旋回気流が発生しているわ。被服廠跡地に向かった人たちはどうなりましたか?」
「あそこへ向かおうとしていた群衆の大部分は、号外と香川たちの誘導でこちらへ進路を変えさせました。だが、すべてを止められたわけじゃない。荷物を抱え込んであの広場へ逃げ込んだ連中も大勢いる」
俺の言葉に、薫は唇を強く噛み締めた。その表情には、自らの理論が恐ろしい精度で現実になってしまったことへの戦慄と、それでも立ち止まるわけにはいかないという強い意志が同居していた。
「ならば、ここに来た人たちだけでも絶対に守り通さなければなりません。風下になる東側の木造家屋へ延焼しないよう、あの倉庫の北側の空き地へ避難区画を再編しましょう。余震で蔵の瓦が落ちてくる危険もあります。軒下から三間以上離れた場所に人々を誘導してください」
「了解です。先生の指示通りに人を動かします」
薫が手帳に即座に図面を引き、若い衆や避難民の男たちに的確な指示を飛ばしていく。曖昧な不安に怯えていた群衆が、理路整然とした学者の声に従って整然と動き始めた。混乱を鎮めるのは、感情的な励ましだけではない。確固たる根拠に基づいた指示こそが、極限状態の人間に秩序を取り戻させるのだ。
俺も負傷者の誘導に加わり、蔵の裏手へと人々を運んでいた。そのとき、背後から荒い息づかいと共に足音が近づいてきた。
「……神田」
低く、絞り出すような声に振り返る。
そこに立っていたのは、煤だらけの背広を着崩し、手帳を握りしめた桐島源太郎だった。帝都日報の腕章は煤煙で黒ずみ、額には硝子片で切ったらしい乾いた血の痕があった。
「編集長……社は、どうなったんですか」
桐島は煙を吐き出すように短く息を吐いた。
「輪転機が潰れた。社屋の半分が焼け落ち、新聞の発行は当面不可能だ。社員は何人か逃げ遅れたが、吉村たちが誘導して全員命だけは助かった」
桐島は周囲を見回した。山城屋の倉庫に身を寄せ、水を分け合い、橘の指示に従って身を守る数百、数千の人々の姿を。そして、彼らが握りしめている、朱色の耐水紙を。
「あの号外が、これだけの人間をここに留まらせたのか」
桐島の眼光が鋭く揺れていた。かつて編集長室で、俺の警告原稿を「根拠がない」と一蹴したときの威圧感はない。だが、そこにあるのは単なる敗北感や謝罪の念ではなく、一人の報道人としての凄まじい執念だった。
「俺は、お前の記事を握り潰した。新聞の信用を理由にな」
桐島は鉛筆を構え、手帳を広げた。
「だが、お前は紙一枚でこの現実を作り出した。神田、お前が正しかったと認めるのは簡単だ。だが、俺たちの仕事は反省会じゃない。いま起きているこの地獄と、お前たちが抗ったこの事実を、後世に書き残すことだ」
「編集長……」
「紙面が出せないなら、壁新聞でも何でも書く。墨と紙をかき集めろ。俺がこの避難所の状況と、生き延びるための指示を書き殴って帝都中に貼り出してやる。お前が始めた号外の続きを、俺が書くんだ」
桐島の瞳に宿る熱い光に、胸の奥底から熱いものが突き上げてきた。
この人は折れていない。会社を失い、判断を誤った痛恨を抱えながらも、ペンを捨てるどころか、さらに深く握り直している。これこそが、俺が憧れ、かつて現代で失いかけていたジャーナリズムの魂そのものだった。
「わかりました。橘先生が風向きと余震のデータをまとめています。それを元に、最も安全な行動指針を書いてください!」
「言われるまでもない!」
桐島は近くの木箱に手帳を置き、猛烈な勢いで鉛筆を走らせ始めた。薫が駆け寄り、観測データを桐島に伝える。徳兵衛が紙の束を抱えて走り、香川が警察の広報網を使って情報を伝達する準備を整える。
現代の知識を持ち込んだ俺一人の力では、到底ここまで来られなかった。未来の記憶を持たないこの時代の人々が、それぞれの意地と誇りを懸けて結集し、抗っている。失われるはずだった命が、今、確かにこの場所で繋ぎ止められていた。
奇跡は起きたのだ。何もない廃墟の中に、小さな、だが確かな生の砦が築かれつつあった。
しかし――そのささやかな前進の気配を打ち破るように、南の空から異様な地鳴りが轟いた。
地震の揺れではない。空気が引き裂かれるような、巨大な怪物の咆哮に似た重低音。
「……なにあれ」
薫が顔を上げ、手帳を取り落とした。
はるか南、被服廠跡地の方向から、天を突く巨大な黒煙の柱が立ち上っていた。その内部で、渦を巻く紅蓮の炎が竜のようにのたうち回っている。地上にある家財の山と大八車を呑み込み、酸素を喰らい尽くしながら成長する、史上最悪の火災旋風だった。
熱を帯びた突風が吹き荒れ、千束の空き地にいる避難民たちの上に火の粉の雨を降らせる。
地鳴りのような風切り音が、夜の闇を震わせながら刻一刻とこちらへ近づいてきていた。




