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第25話

地鳴りのような咆哮が、夜空の彼方から大気を震わせて押し寄せていた。


被服廠跡地に広がる暗闇の中、熱を孕んだ風が吹き荒れる。舞い散る赤熱の火の粉が、避難してきた人々の青ざめた顔を照らし出していた。


昼の激震で帝都全域が瓦礫と炎の海と化してから数時間。俺たちが事前に配り歩いた耐水紙の号外と、千束や各所での呼びかけによって、多くの市民は北側の安全地帯へと逃れていった。だが、避難民の流れをすべて制御できたわけではない。東京中から逃げ場を失った人々が、なおもこの広大な空き地に吸い寄せられるように押し寄せていた。


そして最悪なことに、広場へと続く主要な道路は、完全に身動きが取れなくなっていた。


「進めないぞ! 前の車、早く動かせ!」


「無理言うな! こっちだって荷物を引っ張ってるんだ!」


怒号と子供の泣き声が入り混じる。原因は、道路を埋め尽くす無数の大八車だった。箪笥、布団、畳、行李――命の次に大切な全財産をうず高く積み上げた木製の荷車が、互いの車輪を噛み合わせ、退路も進路も塞ぎ切っている。


熱風が強まり、視界の先で民家の屋根が爆ぜる音がした。火の粉が布団の端に落ち、小さな白煙が上がる。


「荷物を捨てろ! 身一つで逃げるんだ!」


俺は喉が裂けるほどの声で叫びながら、密集する群衆の中へと割って入った。


「大八車をここに放置したら、火が燃え移って一瞬で火の海になる! 命より大事な荷物なんてない! 早く手を離して、北の広場へ走れ!」


手近な大八車に駆け寄り、積まれた箪笥を引きずり下ろそうと手を伸ばす。だが、引き綱を握りしめた初老の男が、血走った目で俺の手を払いのけた。


「触るな! これがなきゃ、焼け出された後にどうやって暮らせってんだ! 先祖代々の道具なんだよ!」


「命が助からなきゃ、暮らしも何もないんだ! 頼むから捨ててくれ!」


俺の叫びは、周囲の頑なな視線に跳ね返された。誰にとっても、この大八車に乗っているのは人生そのものだ。見ず知らずの青年に捨てろと言われて、首を縦に振れるはずがなかった。


焦燥が胸を焼き尽くしそうになったその時、冷たい声が群衆の背後から響いた。


「そこまでだ、神田」


軍靴の音を響かせ、警官隊を引き連れて現れたのは、九条道臣だった。

煤煙に汚れた街の中で、彼の仕立ての良いスーツだけが異様なほど端正に整っている。手には抜身のサーベルではなく、秩序を誇示するかのような指揮杖が握られていた。


「九条……!」


「これ以上の流言と騒擾は許さん。被服廠跡地は帝都随一の広さを誇る避難指定地だ。ここに留まり、警察の統制に従っていれば安全は保たれる。貴様の扇動は、無用なパニックを引き起こす利敵行為に他ならない」


九条は氷のように冷淡な目で俺を見下ろし、部下の警官たちに手勢を広げるよう合図した。


「全員、その場に留まれ。荷を解くことも、勝手な移動も禁ずる。秩序を乱す者は治安維持令に基づき拘束する」


「ふざけるな!」


俺は九条の胸倉を掴まんばかりに詰め寄った。警官が銃剣を構えて割って入ろうとするのを、体当たりで押し返す。


「あんたは何も見えてないんだ! 空を見ろ! 四方から火の手が迫って、この巨大な空き地に熱風が吸い寄せられている! ここにこれだけの木材と布団を溜め込んだらどうなるか、本当にわからないのか!?」


「国家の非常時において最優先されるべきは、社会の秩序と治安だ」


九条は眉一つ動かさず、感情を削ぎ落とした声で言い放った。


「民衆が恐怖に駆られて無統制に動けば、それこそ二次災害を招く。私の任務は、混乱を封じ込めることだ。君のような不穏分子の言葉に耳を貸す道理はない」


「秩序を守って、全員が灰になっても同じことが言えるのか!」


俺の怒号が響く中、南の空で巨大な破裂音が鳴り響いた。黒煙の柱が螺旋を描き、竜巻のように回転を始めている。空気が吸い込まれ、猛烈な突風が広場を吹き抜けた。


誰もが息を呑み、言葉を失ったその瞬間――。


「九条警視正、あなたの判断は科学的に致命的な誤りです!」


凛とした声が、風の唸りを切り裂いて響き渡った。


煤に汚れながらも、毅然とした足取りで駆け込んできたのは橘薫だった。乱れた髪を乱暴に払いのけ、彼女は手に持った観測野帳を九条の目の前に突きつけた。


「橘先生……!」


薫は俺に短く頷くと、まっすぐに九条を射すくめた。


「現在、本所・深川方面の同時多発火災により、上空に極めて強力な上昇気流が発生しています。周囲から冷たい空気が急激に流れ込み、この被服廠跡地を中心とする局所的な渦流――火災旋風が発生する条件が完全に揃っています!」


「……女の妄言を聞く耳は持たん」


「妄言ではありません! 私が観測した気圧と風速のデータが証明しています!」


薫の声には、理性を武器にして戦う者の絶対的な確信が宿っていた。


「火災旋風がひとたびこの広場を直撃すれば、数千度の熱風が吹き荒れます。その時、この大八車に積まれた乾燥した家財道具は、避難民を守る盾ではなく、巨大な薪となって爆発的な延焼を引き起こします! 荷物を壁にして留まることは、自ら火葬場に飛び込むのと同じです!」


科学者の客観的な言葉が、凍りついた群衆の心に楔のように打ち込まれた。


「聞こえたか!」


俺は即座に声を張り上げ、大八車の周囲に立ち尽くす人々に向かって両手を広げた。


「学者先生の言う通りだ! 荷物は後からでも買い直せる! だが、命は一度燃えたら二度と戻らないんだ! お前たちの家族を、子供を、本当にこんな場所で焼け死なせていいのか!?」


ざわめきが群衆の間に波紋のように広がっていく。

引き綱を握りしめていた初老の男が、震える手で積荷の箪笥を見つめた。その隣で、幼子を抱いた母親が涙をこぼしながら叫んだ。


「お父ちゃん、もういい! 荷物はいいから、逃げよう!」


男の指先から、ゆっくりと綱が滑り落ちた。


「……すまねえ、母ちゃん。すまねえ……!」


男が荷車を捨て、子供の手を引いて駆け出した。それを引き金に、周囲の避難民たちも次々と大八車を手放し始めた。


「荷物を置いて走れ!」


「北だ、北の広場へ向かえ!」


号外を掲げた若い衆や市民たちが声を掛け合い、塞がれていた道路の荷物を脇の側溝へと押しやり始める。狭かった退路が、人の力でこじ開けられていく。


「ええい、勝手な真似を……!」


九条が指揮杖を振り上げようとしたが、雪崩を打って動き出した数千の群衆の波を押し留めることはもはや不可能だった。秩序という名の硬直を、生きようとする人間の本能が打ち破ったのだ。


奇跡は、確かに起き始めている。

史実では数万人が逃げ場を失って犠牲になったこの場所で、今、何千人もの命が炎の檻から抜け出そうとしていた。


だが――運命の猛威は、それを許さぬとばかりに牙を剥いた。


ゴオオオオッ、と世界が裂けるような轟音が頭上から降り注いだ。


「神田さん、伏せて!」


薫の叫びと同時に、空が真紅に染まった。


被服廠跡地の南側から、天に届くほどの巨大な火柱が、漆黒の煙を纏いながら回転し、ものすごい速度で広場へと突進してきたのだ。大地を揺るがす突風が吹き荒れ、放置された大八車が一瞬で空中へと巻き上げられていく。


熱波の壁が、逃げ惑う人々の背中に容赦なく迫っていた。

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