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第26話

巻き上がった火柱が天を焦がし、焼け爛れた空気が皮膚を容赦なく刺す。


「走れ! 後ろを振り返るな、北だ!」


俺は喉が裂けるほどの声で叫びながら、路上に押し出された大八車を力任せに側溝へと蹴り落とした。火災旋風が吸い上げた猛烈な熱風が背後から吹き荒れ、捨てられた荷物の端に火が燃え移る。だが、積み上がっていた家財の山が崩され、両脇へ押しやられたことで、広場を塞いでいた絶望的な渋滞に一条の退路がぽっかりと開いていた。


「神田先輩! こっちです、子どもと年寄りを先に行かせます!」


煤まみれの顔をした吉村が、ダボついた背広の袖を振り回しながら群衆を手招きしていた。歪んだ丸眼鏡の奥の目は血走っているが、その足取りに迷いはない。いつもはお調子者の後輩が、いまや必死の形相で人の波を押し流している。


「吉村、列を途切らせるな! 横町へ逃げるな、広い道だけを選べ!」


「分かってます! ほら、おばあさん、僕の肩につかまって!」


そのとき、鋭い銀笛の音がけたたましく鼓膜を震わせた。


「本官の誘導に従え! 押し合うな、前の者を押せば全員が倒れるぞ!」


制服の襟元を黒く焦がした香川巡査が、腰のサーベルを握り直し、身を挺して人の壁を受け止めていた。かつて俺を不逞の輩と決めつけ、冷徹に監視していたあの男が、いまや自らの体で避難民が将棋倒しになるのを防ぎ、退路を死守している。


「香川さん!」


「神田! 貴様の配った紙の通りだ、南からの風が火を煽っている! これ以上ここに留まれば一呑みにされるぞ!」


「ああ、だから全員をこの道から逃がす! 手を貸してくれ!」


「言われるまでもない! 本官は帝都の警察官だ!」


香川の怒号とともに、警察官たちが号外を掲げた避難民の列を北側の空き地へと懸命に押し流していく。手渡された耐水紙の号外は、熱と煙の中でも破れず、朱色で刷られた地図が逃げるべき方角を無言で指し示していた。


だが、逃げ惑う人の波が途切れかけた路傍に、突っ伏したまま動かない人影があった。


立派なカイゼル髭を煤で汚し、仕立ての良い背広を泥にまみれさせた初老の男――大槻玄之助だった。


「嘘だ……こんなはずはない……」


大槻は震える手で地面を掻きむしり、茫然と宙を見上げていた。かつて帝大の権威を背負い、橘薫の研究を嘲笑い、俺たちの警告を荒唐無稽な戯言と切り捨てた男の誇りは、紅蓮の炎の前で無残に砕け散っていた。


「帝都が、灰になる……私の学説が……私が間違っていたというのか……」


猛火の爆音にかき消されそうな、掠れた呟き。すぐ背後の民家から火の粉が滝のように降り注ぎ、大槻の背中に火が燃え移ろうとしていた。


「大槻先生! 立ってください!」


駆け寄った薫が、煤けた野帳を抱えた手で大槻の腕を引いた。だが、大槻は重い体を引きずられたまま、力なく首を振るばかりだ。


「橘君……私を笑いに来たのか……。私の無知が、この惨状を招いたのだ……。私は、ここで焼け死ぬべきなのだ……」


「馬鹿なことを言わないで!」


薫の鋭い声が、火の粉を裂いた。


「学問の誤りは、生きて正しなさい! 過去を悔やんで死ぬ暇があるなら、この現実をその目に焼き付けて、次の時代へ記録を残すのが学者でしょう!」


薫の叫びに、大槻の瞳が一瞬大きく見開かれた。


「大槻玄之助!」


横から割り込んだ香川が、大槻の襟首を乱暴に掴み上げて立たせた。


「貴様の罪は生き延びてから償え! 本官の目の前で死ぬことは許さん!」


「あ、ああ……」


香川と薫に両脇を支えられ、大槻の足が泥を踏みしめた。老学者の頬を、熱風に混じって大粒の涙が伝い落ちていく。


「すまない……すまなかった……!」


悔恨の声を上げながら、大槻は二人に引かれて北の安全地帯へと走り出した。


その背を見届けた俺は、踵を返し、再び燃え盛る広場の中心へと視線を向けた。


火災旋風の勢いは衰えるどころか、さらに巨大な渦となって空気を吸い込み、轟々たる唸りを上げている。吹き飛ばされたトタン屋根が火花を散らしながら宙を舞い、地面にはまだ逃げ遅れた人々の姿が点々と残されていた。


「神田先輩、もう限界です! 戻ってください!」


遠くから吉村の悲痛な叫びが聞こえる。熱気で視界が歪み、吸い込む空気で気管が焼けるように熱い。


行けば命の保証はない。かつての記憶が脳裏をよぎる。崩落の現場で、ただ立ち尽くすことしかできなかったあの無力感。だが、今は違う。手にはまだ、伝えるべき道がある。


「まだだ!」


俺は足元に落ちていた水たまりの泥水を上着に擦り付け、炎の渦巻く広場へと全力で駆け出した。


「誰かいないか! 荷物を捨てろ、身一つで走れ!」


煙の奥で、泣き叫ぶ子どもを抱きしめて蹲る母親を見つけた。俺は迷わず駆け寄り、母親の腕を強引に引き起こす。


「立て! 北へ走るんだ!」


「でも、主人が……!」


「生き残れば必ず会える! 今は子どもを守れ!」


母親の背中を力いっぱい押し出し、安全な退路へと送り出す。さらに奥へ進むと、倒木に足を挟まれた男がいた。通りがかりの若い男たちに声をかけ、三人掛かりで太い梁を持ち上げる。男を引っ張り出し、肩を貸して押し流す。


一人、また一人。


「号外を持ってる奴は掲げろ! 後ろの奴に見せてやれ!」


俺の怒号に呼応するように、避難民の誰かが泥水に濡れた号外を高く掲げた。それに続いて、次々と赤い紙片が頭上に掲げられていく。配られた数千枚の紙は、ただの情報ではなかった。暗闇と煙の中で互いを導き合う、希望の標識となっていた。


大八車が道を塞がなかった。人々が荷物を手放した。事前の警告を信じた者たちが、互いに声を掛け合って退路を譲り合った。


史実では数万人が逃げ場を失い、灼熱の地獄となったこの被服廠跡地で、奇跡のように人の波が途切れず、北の緑地へと抜け出していく。


すべての命を救えたわけではない。炎に呑まれ、瓦礫の下に消えた命も確かにあった。それでも――この場所で起きるはずだった壊滅的な悲劇の連鎖を、人々の意志が断ち切っていた。


背後で、巨大な火柱が最後の一撃のように空を裂き、やがて吸い込む燃料を失って徐々に威力を減衰させていく。


膝から崩れ落ちそうになる体を、誰かの腕がしっかりと支えてくれた。


「先輩! もういい、もう全員抜けました!」


吉村だった。泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、吉村が笑っていた。その隣には、肩で息をしながら警笛を納める香川と、安堵の表情を浮かべる薫の姿があった。


俺は煤で真っ黒になった自分の両手を見つめた。震えが止まらない。だが、その震えは恐怖によるものではなかった。


届いたのだ。一枚の紙に込めた言葉が、確かに人の命を動かしたのだ。


やがて、長い長い悪夢のような夜が、東の空から白み始めた。


立ち上る無数の黒煙の向こうから、冷たい朝の光が焼け野原となった帝都を照らし出していく。街の姿は一変し、見渡す限りの瓦礫と灰が広がっていた。


だが、北側の広場を埋め尽くした数千、数万の群衆の中から、途切れ途切れに声が上がり始めていた。


「おい、生きてるか……!」


「父ちゃん! 無事だったのか!」


泥だらけの手と手が握り合わされ、あちこちで涙と抱擁が交わされる。冷たい朝風の中、誰かが掲げた一枚の耐水紙が、朝日に照らされてかすかに朱色に輝いていた。


灰燼に帰した街の真ん中で、生き残った人々が顔を上げている。この未曾有の絶望の淵から、彼らはどうやって明日へと歩み出すのか。

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