第27話
灰色の粉塵に閉ざされた空を、夜明けの白い光が切り裂いた。
風は止んでいた。あれほど猛威を振るった熱風も、街を焼き尽くした炎の竜巻も、今は嘘のように沈黙している。ただ、焼けた木材と崩れた土壁の焦げた匂いが、冷えた朝の空気に重く淀んでいた。
俺は、被服廠跡地から北へと延びる広大な空き地に立っていた。足元には、瓦礫と燃えかすが果てしなく続いている。
見渡す限りの焼け野原。
昨日まで確かにそこにあった木造の長屋も、賑やかな商店街も、すべてが黒い平原へと姿を変えていた。
だが、その広場には、無数の人の姿があった。
衣服を煤で真っ黒に汚し、顔を灰で覆いながらも、互いの無事を確かめ合う人々の群れ。あちこちから、すすり泣きや安堵の吐息が漏れ聞こえてくる。
「無事だったのか……本当によかった……」
「坊主、怪我はないか」
抱き合う親子。泥だらけの手を握り合う夫婦。
昨日、本所や深川の密集地帯から逃れてきた人々は、当初この被服廠跡地へと押し寄せていた。大八車に山積みにされた家財道具が道を塞ぎ、狭い広場へとなだれ込もうとしていたのだ。史実において、その場所がどうなったかを俺は知っている。家財に火が燃え移り、巻き起こった火災旋風によって、数万人もの命が一瞬にして奪われるはずだった。
だが、配り続けた号外と、張り裂けんばかりの怒声が、群衆の濁流を北へと押し曲げた。
「荷物を捨てろ」「北の広い空き地へ抜けろ」と叫び続け、群衆の進路を逸らした。全員を救えたわけではない。炎に呑まれ、逃げ遅れた者たちの悲鳴を、俺はこの耳で何度も聞いた。完全に防ぎきるなど、人間の力では不可能だった。
それでも——目の前には、確かに数千、数万の生きた人間がいる。
俺は煤にまみれた自分の掌を見つめた。爪の間に黒い灰が入り込み、皮膚は熱気で赤く腫れている。膝をつきそうになる体をなんとか支えながら、深く息を吸い込んだ。喉の奥が焼けるように痛む。だが、その痛みこそが、自分が今ここで生きている証拠だった。
犠牲を無くすことはできなかった。その悔恨は、一生消えることはないだろう。それでも、この場に踏みとどまり、声を枯らして叫び続けたことは無駄ではなかった。一枚の紙に刷り込んだ警告が、人々の足を動かし、運命の濁流からわずかばかりの命を掬い上げたのだ。
胸の奥からこみ上げてくる熱いものを、俺は静かに飲み込んだ。
◆ーーーー◆
日が完全に昇る頃、俺は千束にある山城屋の倉庫へと向かった。
倒壊を免れた頑丈な土蔵造りの倉庫前には、被災した大勢の人々が集まっていた。漂う香ばしい匂いに、周囲の張り詰めた空気が少しだけ緩んでいる。
「ほら、熱いから気をつけて持ってってね!」
白い割烹着の裾を帯に挟み込み、大きな鉄鍋の前で木べらを振るっているのは鈴子だった。額に汗を浮かべ、乱れた髪を払いながら、椀にたっぷりと粥を注いでいる。
その隣では、煙管を帯に差した山城屋徳兵衛が、若い衆に指示を飛ばしていた。
「おい、奥から乾パンの木箱も出せ! 年寄りや子供を優先して座らせてやんな。出し惜しみなんざするんじゃねえぞ。ここはわしらの意地の見せ所だ!」
商人の厳しい顔つきの中にも、どこか晴れやかな色が混ざっていた。徳兵衛は栄一の姿を認めると、破顔して駆け寄ってきた。
「神田の旦那! ご無事で!」
「徳兵衛さん……倉庫を開けてくれたんですね」
「当たり前でさあ。旦那の言う通りに米や味噌をかき集めておいて正解だった。あの揺れのあと、近所の長屋の連中がどっと押し寄せてきやしたが、この通り、誰一人飢えさせずに済んでますぜ」
徳兵衛は太い腕で自分の胸を叩いた。その表情には、損得勘定を超えた誇りが満ちていた。
「鈴ちゃんも、ずっとここで手伝いを?」
俺が声をかけると、鈴子は顔を上げ、花が咲いたような笑顔を見せた。
「神田さん! よかった、本当に無事だったんですね……! カフェのマスターも無事でした。揺れた瞬間、神田さんに言われた通り火の元を消して、みんなで外へ逃げたんです。お店は壁にひびが入っちゃいましたけど、焼けずに残りました」
「そうか……よかった」
「これ、神田さんも食べてください。昨日から何も口にしてないんでしょう?」
鈴子から手渡された椀には、湯気を立てる熱い白粥が盛られていた。ひと口すすると、塩の味がじんわりと舌に広がり、冷え切っていた胃袋を温めていく。食べること、生きることの生々しい実感が、五臓六腑に染み渡っていくようだった。
俺は椀を両手で包み込みながら、周囲を見渡した。
徳兵衛の若い衆が配る粥を受け取り、道端に腰を下ろして貪るように食べる人々。その中の一人の老婆が、大事そうに着物の懐から何かを取り出した。
水に濡れても破れていない、朱色の刷り色が残る耐水紙の号外だった。
「これがあったから……」
老婆は掠れた声で、隣に座る娘に語りかけていた。
「これに書いてある通りに、荷物を置いてすぐ逃げたから助かったんだよ。あのまま箪笥を運ぼうとしてたら、今頃焼け死んでた……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が激しく震えた。
あのとき、印刷所の片隅で岩田と一緒に刷り上げた紙。社会不安を煽るなと警察に追われ、冷笑されながらも配り歩いた紙。それが、こうして一人の命を、家族の未来を救ったのだ。
現代で味わった、あの深い無力感。惨状をただ記録して伝えることしかできず、誰一人救うことができなかった後悔の闇が、朝の光に溶けていくようだった。報道とは、事実を事後的に伝えるだけの道具ではない。人々に届き、行動を促し、命を守るための力になり得るのだ。
◆ーーーー◆
昼過ぎになっても、倉庫の前には途切れることなく人々が訪れていた。
俺も割烹着を借り、配給の列に並ぶ人々へ粥や水を配る手伝いを続けた。手渡すたびに、多くの人が深々と頭を下げていく。
「あんた、あの号外を配ってた記者さんかい?」
列に並んでいた中年の男が、俺の顔をしげしげと見つめて声をかけてきた。
「ええ、帝都日報の神田です」
「やっぱりそうだ! 昨日、広場の前で大八車を捨てろって怒鳴り散らしてた兄ちゃんだな。あの時は『なんてこと言いやがる』って腹が立ったが……言われた通りにして本当に助かった。荷物は全部燃えちまったが、家族四人、全員五体満足だ。本当に、ありがとうよ」
男は涙ぐみながら、泥で汚れた俺の手を両手で固く握りしめた。
「いえ……俺は、知っていたことを伝えただけです。逃げると決めたのは、あなた自身ですよ」
「それでもだ。あんたのあの必死な顔がなけりゃ、意地を張って荷物と一緒に焼け死んでた。あんたは命の恩人だ」
男の後に続くように、他の避難民たちからも次々と声が上がった。
「うちの長屋でも、あの紙を見てすぐに火を消して逃げ出したんだ」
「神田さん、ありがとう」
「生きててよかった……」
差し出される無数の手を、俺は一つずつ握り返した。泥に汚れた掌の熱と、湯気の向こうで交わされる無事を喜ぶ声が、肌寒い広場の空気を押し戻していく。
瓦礫の山となった帝都の街。復興までの道のりは果てしなく遠く、困難に満ちているだろう。失われたものはあまりにも多く、傷跡はあまりにも深い。
それでも、人は生きている。
命さえあれば、何度でも立ち上がることができる。
鈴子が新しい鍋を運び込み、徳兵衛が笑いながら避難民を励ましている。その光景を眺めながら、俺は空を見上げた。
黒煙の晴れた青空が、どこまでも高く広がっていた。
この過酷な現実の中で、俺が果たすべき役目はまだ終わっていない。記者の仕事は、ここから始まるのだ。生き残った人々の声を拾い、必要な情報を届け、この街が再び歩み出すための言葉を紡ぎ続けること。
焦燥感ではなく、静かで確かな決意が、胸の底から湧き上がってくるのを感じていた。




