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第28話

九月三日の朝、灰色の霧が低く垂れ込める帝都は、焦土の静けさに包まれていた。


隅田川の川面には、まだ消え切らない煙が薄く漂っている。瓦礫の山となった街のあちこちで、生き残った人々が途方に暮れながらも、落ちている木片を拾い集め、仮の寝床を作り始めていた。


避難所の広場を抜け、崩れ落ちた橋の袂まで歩いたところで、前方に黒い影が落ちた。


煤けた風景の中で、不自然なほど折り目の整った三つ揃いのスーツ。仕立ての良い上着にわずかに灰を被らせながらも、その佇まいは周囲の惨状から冷徹に隔絶されていた。特高警察の九条道臣だった。


「……神田栄一君だな」


氷のように硬く澄んだ声が、静寂の底を叩いた。


俺は立ち止まり、埃に塗れた上着の襟元を無意識に掴んだ。二人の部下を引き連れず、九条はただ一人でそこに立っていた。鋭い眼光が、俺の全身を品定めするように射抜く。


「九条……」


呼び捨てに近いつぶやきを、男は咎めもしなかった。視線を遠く、かつて被服廠の巨大な空き地があった方角へと向ける。あの場所で渦巻いた炎の記憶が、黒く変色した土肌に今なお生々しく残っている。


「君が撒いたあの粗末な刷り物……あれが多くの者を動かし、結果として幾千もの命を北の緑地へ逃がした。その事実を、私は否定しない」


淡々とした口調だった。感情の揺らぎなど微塵も見せない。だが、その言葉の裏にある重みを、俺は痛いほどに感じ取っていた。


「だがね」と九条は視線を戻し、冷たく細めた瞳で俺を凝視した。「正規の手続きを踏まず、流言飛語をばら撒き、帝都の治安を揺るがした罪は消えない。国家の秩序を破壊する行為は、たとえどんな結果を生もうと、容認されるべきではないのだ」


乾いた風が吹き抜け、足元の灰を巻き上げた。


秩序。あの炎の嵐を前にしても、この男はまだその言葉にしがみついているのか。だが、俺の中に湧き上がったのは怒りではなく、澄み切った確信だった。


「秩序を守るために、人間を見殺しにするのか」


俺は一歩、前に踏み出した。煤で汚れた靴底が、砕けた敷石を踏み鳴らす。


「秩序ってのは、生きてる人間が寄り添って作るものだ。誰もいなくなった焼け野原に、どんな秩序が残るっていうんだ。……命があってこその、秩序だろうが」


九条の眉が、わずかに動いた。


張り詰めた沈黙が流れた。男の端正な顔立ちに、微かな陰影が差す。冷笑でも威圧でもない、底知れぬ深さを持った沈黙だった。やがて九条は視線をわずかに伏せ、息を短く吐き出した。


「……青臭い理想論だ」


それだけを言い捨てると、九条は背を向けた。埃を払う仕草さえ見せず、崩れかけた路地の向こうへと静かに歩き去っていく。その背中は、崩壊した帝都の現実に背を向けようとしているようにも、あるいは自らの信条の狭間で耐えているようにも見えた。


俺はその場に立ち尽くし、男の姿が見えなくなるまで見送った。



◆ーーーー◆



九条と別れた俺は、下町の路地を抜け、本所の外れにある岩田鉄蔵の印刷所へと足を向けた。


周辺の木造家屋はことごとく倒壊し、黒焦げの柱が突き刺さる墓標のようになっていた。だが、奇跡的に防火壁に守られた岩田の作業場だけは、屋根の一部を吹き飛ばされながらも、その躯体を残していた。


引き戸を開けると、油と金属の匂いが鼻をついた。


「おやっさん」


薄暗い土間に声をかけると、奥から頑丈な体躯の男が顔を出した。藍染めの前掛けを煤で真っ黒にした岩田鉄蔵だ。手には大きなスパナを握りしめている。


「栄一か。無事だったか」


「ああ、なんとか。……輪転機は?」


「見ての通りだ」


岩田が顎でしゃくった先、作業場の中央に、黒光りする手動の輪転機が鎮座していた。瓦礫の直撃を免れ、頑健な鉄の歯車がしっかりと噛み合っている。


「すげえな……無事だったのか」


「こいつは俺の命だからな。火の粉が飛んできた時も、濡れ莚を何枚も被せて守り抜いた。……だがよ、客人はおめえだけじゃねえぜ」


岩田の視線を追った作業場の隅に、見覚えのある長身の男が佇んでいた。


仕立ての良いスーツは破れ、白シャツの袖を捲り上げた姿。額には煤と汗がこびりつき、手には何枚もの原稿用紙を握りしめている。帝都日報の編集長、桐島源太郎だった。


「編集長……どうしてここに」


桐島はゆっくりとこちらを振り向いた。その眼光は、社屋のデスクで冷徹に俺を突き放した時と同じ鋭さを宿していたが、瞳の奥にある炎は以前とまるで違っていた。


「我が社の社屋は全焼した。大手の輪転機はことごとく灰燼に帰したよ」


桐島は静かな、しかし芯の通った声で語り始めた。


「神田。お前が震災の前に警告記事を持ち込んできた時、私はそれを叩き返した。裏付けのない噂で社会を混乱させるなとな。……結果はどうだ。街は燃え、何万人もの市民が逃げ惑った」


桐島の手が、握りしめた原稿用紙を強く軋ませる。


「だが、お前が撒いたあの耐水紙の号外を見た。被服廠へ向かう群衆を押し止め、北へ逃げろと記したあの紙切れをな。あれを握りしめて助かった避難民が、広場に何千人といる」


「編集長……」


「新聞の信用だと? 権威だと? ……笑わせるな」


桐島は自嘲するように唇を歪め、そして真っ直ぐに俺を見据えた。威厳に満ちたその眼差しには、一人の報道人としての剥き出しの執念が宿っていた。


「紙面に真実を載せられず、読者の命を救えなかったのなら、そんな新聞はただの紙屑だ。……私は間違っていた。だが、ここで筆を折る気は毛頭ない」


桐島は歩み寄り、手にしていた原稿を岩田の作業台の上に叩きつけるように置いた。


「今度こそ、真実を伝える新聞を刷る。この震災で何が起きたのか。どこに救援物資があり、どこが安全なのか。そして、生き残った人間がどうやって立ち上がるべきなのか。……帝都日報の号外として、これを帝都中に配る」


原稿用紙には、桐島自身の力強い筆跡で、避難所の状況と給水所の位置、余震への警戒を呼びかける文章がびっしりと書き込まれていた。


岩田が無言で前掛けを締め直し、鉄のスパナを台の上に置いた。


「桐島の旦那。活字なら、俺が死ぬ気で拾い集めて揃えてある。紙も、あの耐水紙の残りがまだ奥の蔵に眠ってらあ」


「頼む、鉄蔵。一枚でも多く刷り上げてくれ」


桐島が頭を下げた。新聞社の最高責任者が、一介の印刷職人に深々と頭を下げている。


その光景を見つめながら、俺の胸の奥で熱いものが込み上げてきた。権力の弾圧や社会の無理解に阻まれ、孤立無援の中で刷り上げた最初の号外。あの孤独な戦いが、ついにこの堅物な編集長の心を動かし、正規の報道という巨大な力を目覚めさせたのだ。


「神田」桐島が顔を上げ、俺を呼んだ。「ボーッとするな。お前が現場で見てきたことを、すべて書き殴れ。一枚の紙に収まる限りの真実を、読者に届けるんだ」


「……はい!」


俺は深く頭を下げた。手帳を取り出し、鉛筆を握る指先が、武者震いのように微かに震えた。



◆ーーーー◆



ガチャリ、と鈍い金属音が響いた。


岩田が手動のレバーを力強く引き倒す。インクの独特の匂いが、作業場の空気を満たしていく。ローラーが回転し、濡れたような黒い文字が、白い耐水紙の上に次々と刻み込まれていく。


『帝都日報 号外 —— 焦土からの復興と、生命の結束』


刷り上がったばかりの温かい紙面を、桐島が一枚手に取った。朱を入れるためではない。一文字一文字に込められた重みを確かめるように、じっと見つめている。


「行くぞ、神田」


「はい」


束ねられた号外を抱え、俺たちは作業場を飛び出した。


まだ薄暗い広場には、夜明けを待つ避難民たちが身を寄せ合っていた。俺と桐島は、一人ひとりの手へと紙面を手渡していく。


「帝都日報の号外です! 給水所と物資の配布場所が載っています!」


声を聞きつけ、人々が次々と手を伸ばしてきた。


「新聞……? 新聞が出たのか」


「本当だ、あっちの広場で握り飯が配られてるって書いてあるぞ!」


「水が出る場所も載ってる……助かった、これで探せる」


差し出される無数の手へ、次々に紙面を押し込む。文字を追った男が、すぐさま背後の家族へ駆け出していった。


一枚の紙が、人と人を繋ぎ、混乱した心に確かな道標を与える。


誰かを助けたいという執念から始まったあの号外が、今、正規の報道としてこの街の再生を支え始めている。


朝日が、東の空からゆっくりと昇り始めた。黒煙を突き抜け、赤黒く染まった雲を裂いて、黄金色の光が廃墟となった帝都を照らし出していく。


俺は息を整えながら、手渡されていく新聞の行方を見つめた。配られた一枚の紙から、また別の誰かへと声が掛けられ、確かな希望の輪が広がっていく。


街は傷つき、失われたものはあまりにも大きい。だが、この地に蒔かれた言葉の種は、人々の掌の中で、確かに芽吹き始めていた。

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